旧クロセスバーナの残響―ミツルの探究録①
あれから数日が過ぎた。
わたしは茉凛とともに、王立魔術大学へ通う日々を送っていた。特別聴講生という肩書きを与えられてはいても、講義に顔を出すことはない。大学へ来ると、そのまま大図書館へ籠もりきりで、ひたすら書架の海に埋もれながら、古文書と記録ばかりを追っている。
他の生徒たちが講義棟や実習場へ散っていく時間になると、館内は驚くほど静かになる。高い書架のあいだを司書らしい影がときおり横切るほかは、人の気配も薄い。遠くで頁をめくる音がひとつ、またひとつと重なり、それさえも広すぎる空間に吸いこまれていった。
どこまでも続く書架と、はるか頭上を彩るステンドグラスの光に、わたしは思わず小さく身をすくめる。磨き上げられた石床の冷たさが足裏へじわりと上がり、紙と古いインクの匂いが、静まり返った空間に薄く満ちていた。
ただ、その落ち着かなさには、わくわくとした興奮も混じっている。
ここには、わたしが探し求めている謎を解き明かす手掛かりが眠っているかもしれない。そう思うたび、机上の紙片へ落ちた高窓の彩りが、ゆっくり形を変えていく。時間の影が、細い栞みたいに頁の端へ伸びていた。
講義にも実習にも背を向けて、こうして記録の海に沈んでいるのは、たぶんわたしくらいだろう。少しばかり後ろめたさがないわけではない。けれど、いまのわたしに必要なのは、決められた課程をなぞることではなく、この膨大な記録の底へ潜ることだった。
テーブルに積み上がった古文書へ、わたしは身を乗り出す。紙は指にざらりと引っかかり、頁を送るたび、乾いた音と椅子の背が小さくきしむ音が重なった。
膝の上には、いつものようにそっと置かれた剣。周囲の学生から見れば「なぜ図書館に剣が?」と眉を寄せるだろうが、これがわたしたちの日常だ。総長の署名つきで「剣の形をした魔道具」と認定され、帯剣は正式に許可されている。
鍔の金属は冬の水面のように冷え、その冷たさが掌へ薄く移る。ついで、そこから控えめな声が、微かな振動とともに立ちのぼった。
《《ねえ、美鶴。そろそろ休憩しない? もう三時間も経ってるよ? いくらマウザーグレイルの補助があるからって、ずっと視覚にデータを重ねてたら肩も凝るし……頭も熱を持っちゃうからね》》
柔らかな声の主は、剣に宿る存在、茉凛。わたしが息継ぎもなく注釈を編み続けるのを見かねたのだろう。
いま、視界の端では、彼女が付した薄い注記が欄外の余白へ淡く増えている。ちょうど重要そうな記述に触れていたせいで、集中の糸をすぐには緩めたくなかった。こめかみの脈を一度やり過ごし、わたしは本から目を離さないまま小さく息をつく。
「もうちょっとだけ付き合ってよ、茉凛。今すごく気になる記述があって……ほら、ここ。『唯一神バルファを崇めるバルファ正教。それを信奉するクロセスバーナの民は、崇高かつ至高なる存在の再興を目指し――』って書いてあるの……」
鍔の内側で、微かな電気のさざめきが走る。
《《ごめんね、さっきちょっと別の計算してて、見逃しちゃってた。でもさ……バルファってことは……》》
指先で頁の端をそろえ、息をひとつ浅く整える。紙の粉っぽい匂いが鼻腔の奥に残った。
「うん。古代に栄えたシステム・バルファを中心として築かれた文明と、深い関わりがあるのかもしれない」
《《じゃあ、旧クロセスバーナがその系譜ってこと?》》
頁の端で止めていた指先が、わずかに冷えた。
「たとえば……統一管理機構。そう呼ばれていた側の末裔だったりしないのかしら」
視線を紙上へ戻すと、背板がかすかに鳴った。
《《その可能性はありそう……ただ、それってデルワーズが『止める』って言った相手の側、だよね?》》
「そうね。彼女が止めたのか、壊したのかまでは分からない。でも、今もこうして人類は生きながらえている。文明の痕跡だけを残してね……」
《《だね。リーディスの文化って、その痕跡や古文書を解析してきた歴史があるから成り立ってるわけだし――》》
鍔の冷えが、指先からじわりと掌へ上がっていく。
《《王都の料理だって、わたしたちの世界のものとほとんど変わらないっていうか……》》
「つまり……彼女が世界の『仕組みを変えちゃった』ってことかもね。まあ、推測だけど」
《《IVG関係のプロテクトが解ければ、その辺の履歴もいっぺんに見られるのに……ああっ、もどかしい》》
「統一管理機構の理想とする社会は、システム・バルファと中核意識集合体ラオロ・バルガスという、情報核を戴くコアユニットを中心に成り立っていた――」
インクの匂いが、ひどく乾いて感じられる。
「その神に匹敵するシステムを、根っこから改変したのがデルワーズだった。そう考えると、いろいろ噛み合うんだ……」
唯一神バルファ。宗教記号に見える語の芯へ、冷たい機械仕掛けの息が通る。わたしは本を押さえたまま、もう一方の手でペンを握り直した。茉凛の声には、一抹の悔しさが混じっているようだった。
《《うん、たぶんそう。結局彼女が望んでいたのはさ、エリシアが生きていける世界だったんだよね》》
何者にも縛られずに息ができる場所。選択できる自由。彼女はエリシアのために、自らを人身御供にしたのだろう。
喉の奥で、かすかな声が擦れた。
――まるで、わたしじゃない……。デルワーズ。あなたって人は、どうして何も言ってくれなかったの? どうしてなの……。
弟の弓鶴を救いたくて、深淵の血族を呪縛から解放したくて、そのためだけに生きた。そんなわたしと彼女は、どこかでひどく通じている。
《《だから、いま残っているのがほとんど痕跡だけって――それ自体が証拠、って思えない?》》
「うん……わたしも、そこはそう考えてる。それとね――」
言葉にする前から、余白へ何度も書きかけて、消してきた仮説がある。
「やっぱり……リーディス王家は、エリシアの子孫が興した国なんじゃないかって」
《《そこまで飛ぶ?》》
高窓の彩光が、机上でひとすじずれた。
「だって、王家に稀に生まれる精霊の巫女たちは、みんなデルワーズと同じ身体的特徴を持っているでしょう?」
《《それはわかるけど》》
「黒い髪と翡翠の瞳。それに、ロスコーの記憶の中の彼女は……まるで成長したミツルそのものだった。容姿だけじゃない。強力な精霊魔術を扱えるだけの器まで、あまりにも似すぎている」
《《うん……》》
「だからこう思うの。殲滅兵器の血を受け継ぎながら、その因子は眠ったまま。時折、巫女として生まれ、デルワーズの言霊を受け取る。そんな深い繋がりがあるのかもしれない、って……」
《《……わたしも、そう感じてる。『この世界を守る』っていう彼女の願いは、細くても……ずっと途切れずに繋がってきたんだろうなって》》
「それが、このわたしってことなんだろうね……。姿かたちだけじゃない。しかもだよ、潜在能力の面でも、ほとんど完璧な鏡写しと言えるんだから。これじゃ、まるで……」
――だめだ。
言いかけた息が喉の奥で止まった。肩甲骨の内側に固い痛みが居座り、ペン先がわずかに震える。けれど、いまは進む。骨だけ掴んで、感情はあとで包めばいい。
「……それはいいとして、話を戻そうか」
紙を押さえる指先に、少しだけ力を込める。
「旧クロセスバーナは、かつて栄華を極めた科学文明に憧れ、崇拝し、復活させようとしていたのかもしれない。この唯一神っていうのも、単なる神話や宗教の象徴じゃない。システムの中核意識集合体、ラオロ・バルガスと呼ばれる、神にも等しい存在そのものを指していた可能性がある」
《《だとしたら……》》
インクの滲みを避けるように親指をずらし、わたしは続けた。背もたれが微かにきしむ。
「それを裏付ける伝承が、カテリーナがくれた資料の中にあったわ。千年以上前、旧クロセスバーナがリーディスを狙ったっていう話。そのときリーディス王家は滅亡寸前まで追い込まれた。けれど、一人の王女だけが辛うじて生き延びた」
《《その王女って、やっぱり……》》
「うん。不思議な男の人と出会って、大陸諸国を巡ったらしいの。道中で古代遺跡の力を『鉄の乗り物』に付与して、戦う力を得た。戦いの果てに、ついにクロセスバーナを討ち倒して、荒廃したリーディスを再建した。そういう伝承よ」
壮大な物語は、喉をひどく乾かせる。頁の縁が指に荒く触れ、舌の裏で金属の味がわずかに濃くなる。
わたしは古文書をそっと閉じ、背もたれへ体重を預けた。木の繊維がかすかに鳴り、冷えた空気が耳の縁を撫でていく。
ここで一度、内側の配線を整える。
ロスコーの記憶に残されていた、マウザーグレイルの輪郭を。
この白い剣は、見た目こそ剣の形をしている。けれど本質は、ただの刃ではない。精霊子を記録し、読み取り、必要な式を編み上げる中枢。重力や慣性、空間の揺らぎにまで手を伸ばす、異物めいた情報兵装だ。
書き留めようとしたペン先が、そこで一度止まる。
重力。慣性。空間。
その三語を並べるだけで、紙の上の余白が急に冷たく見えた。
本来なら別々の法則としてしか触れられないものを、ひとつの核で束ね、制御する統合ユニット。超重力による圧縮と拘束。空間の収束と偏向。小規模な歪曲。防護。吸収。変換。放出。そして、対象共振の可視化と戦況解析まで。
剣の形をしていても、本質は、情報演算と物理制御の主機関なのだ。
少なくともモード1だけでも、完璧に近い慣性・重力制御と物理防護領域の展開が可能だと知っている。ならば、マウザーグレイルを主機関に据えた鉄の乗り物で戦ったという仮説は、荒唐無稽どころか、むしろ自然だった。
《《あんまり有名な話じゃないよね。メービス伝説みたいなのとは、ちょっと違う》》
「そうなの。似ているところはあるのに、鉄の乗り物っていう謎のアイテムが鍵になっているのが特徴的で……いかにも古代遺跡を巡る冒険譚って感じがするのよね」
閉じた古文書の表紙を指先で軽くなぞる。
「でもね、遺跡で得た技術や情報を使って、段階的に強化していったって考えると、かなり筋は通るの」
声は淡々としているのに、紙の上で見えない線がひとつ繋がる。石床の冷えが脛を伝い、遠い時計の鼓動が紙の海へ小さな波紋を落とした。
《《なんだか……昔遊んだRPGみたい。最初は弱いロボットに乗るところから始まって、倒した敵からパーツを回収したり、ダンジョンで特別な部品を見つけたりして、少しずつ強くしていくの》》
「なにそれ? そういうの、あるの?」
《《ふふ、ただのゲームの話なんだけどね》》
「へえ、ゲームか……。わたしはゲームなんてしたことないから、よくわからないけど」
軽く肩をすくめると、僧帽筋がこりと鳴る。鍔の奥が細かく震え、視界の余白に茉凛の注記が点滅した。
《《ここからは想像ね。その王女は、実はリーディスの巫女だった。それでもってデルワーズの啓示で滅びを知って、マウザーグレイルを探しに旅へ出て。旅の道中で、奇妙な鉄の乗り物に乗る人と出会った。遺跡では『共振』を鍵に技術を解いていって……乗り物は少しずつ強くなる。そんなストーリー》》
空想の皮を被った仮説でも、触れている芯は冷たい。その一本橋で、伝承は技術の岸へ届く。
「でも、もしマウザーグレイルともう一本の聖剣があれば、そんな乗り物なんてなくても戦えるんじゃない?」
《《それなんだけど……もし彼が騎士じゃなくて、パイロットとかだったなら、得意分野で力を出すにはどうする? って話になるよね》》
わたしは小さく頷く。鍔の冷たさが掌へ沁みる。
《《IVGが使えたら、空は飛べるし、護りは張れるし、たしか敵の攻撃だって自分のエネルギーに変えられたよね? それって反則級じゃない?》》
「……なるほどね」
鉄の乗り物と白い剣が、同じ紙面の上でようやく重なった。
「でも……旧クロセスバーナは、どうしてリーディスを狙ったんだろう。相手が大国だから、ってだけでは足りない気がするのだけど」
しばし考え込む。舌先に紙埃の苦み。呼吸は浅く、胸郭の内側が乾いていく。
《《……やっぱり巫女が目当てだったんじゃない? デルワーズの血筋を持つ存在を、先に断っておきたかったとか》》
「でもね、巫女を失えば、虚無のゆりかごから来る魔獣に抗えないかもしれない。世界がほつれて、破綻する可能性だってある。そんな混乱の上に支配を重ねても……意味がないよね」
わかっている。巫女と騎士は、この世界の縫い目を保つ役目だ。そこを断たれれば、薄い布地はたちまち裂ける。
《《うーん……案外だけど、それ自体が目的だったのかも》》
「どういう意味?」
《《つまり、巫女と騎士がいる限り、唯一神の復活は成らない。だから先に手を打つ。『復活の妨げは取り除く』って理屈》》
いつもの軽さの裏で、茉凛の声はわずかに硬い。
《《唯一神バルファに縋ったのが、管理社会のシステムがもたらす加護だとしたら、彼らの言う再興っていうのは、つまりラオロ・バルガスの復活……そう見ても、不思議じゃないよね》》
わたしは唇の内側を噛み、紙の角で指先を冷やした。
「そうかもしれないね。仮に紋章に込められた意匠が『復活』を指しているのだとしたら、巫女と騎士の力は――そしてデルワーズに縁のある存在は――邪魔でしかない。特に、わたしみたいな……」
視線を落とす。みぞおちの奥で何かが撓み、頁の白が一瞬だけ遠のいた。
そのときだった。
耳の内側に、あの音なき囁きが擦れた。
『……デ……ワ……ズ……ユ……ス……ジ……マ……ソ……ク……ュ……ノ……キ……タ……リ』
言語の形を取らない。それでも、喉元へ刃を当てられたような圧だけがはっきりとあった。
汗が、背筋をすばやく伝う。




