ふたりだけの語らい
静かな石造りの廊下を歩きながら、わたしはさきほどの対話を胸の内で反芻していた。
裾のあたりを撫でるひんやりした空気のなかに、まだお祖父さまの声が残っている。鋭い問いを重ねながら、ひとの傷口を乱暴にひらいたりはしない人だ。痛みはたしかにあったのに、その奥へ静かな温もりまで残していく。
自室へ戻り、細い金の取っ手に指をかけて扉を開いた。
薄明かりの満ちた室内は、しんと落ち着いていた。真珠色の化粧台、金縁の三面鏡、優美な曲線を描くティーテーブル。磨かれたものたちが柔らかな光を受けて、部屋じゅうに穏やかな調和をつくっている。
絹の裾に包まれるみたいな安心が、肩のあたりへ静かに降りてきた。
腰の鞘へ指を添える。
そこに、白きマウザーグレイルがある。茉凛の宿る剣を思い、わたしはそっと息をついた。
「……茉凛?」
呼びかけても、返事はない。
いつもなら軽やかに返ってくる声が、今は沈黙の奥に沈んでいた。解析に没頭しているのだろう。
以前のわたしなら、このわずかな間だけで不安に呑まれていたかもしれない。けれど今は、待てる。返事がなくても、この静けさをそのまま受け止めていられる。彼女がどこかで懸命に働いているのだと、ちゃんと知っているからだ。
見えていたのに見落としていたもの。触れていたのに、名づけられなかったもの。
そんな断片が、ようやく少しずつ自分の言葉で並びはじめている。今生のミツルと前世の美鶴。そのあわいで身動きの取れなかったわたしも、前ほどきつくは縛られなくなっていた。
――そうだ。恥ずかしくたっていい。
笑いたければ笑えばいい。泣きたいなら泣けばいい。一人で抱え込まなくてもいい。ヴィルに迷惑をかけたり、呆れられる日だってあるだろう。それでも、わたしはわたしでいていいのだと、ようやく少しだけ思える。
鞘からそっと剣を抜く。
白い刀身は淡い朝の気配を宿し、白磁のような透明感を放っていた。滑らかな鏡面に、揺らいだわたしの顔がかすかに映る。長い眠りの底で、ゆっくりと瞼をひらく前のような、静かな息遣いの気配。
片手で剣を支え、少し困ったように笑いながら語りかける。
「でもね、さすがにずっと黙ってられちゃ、困るのよ。あなたとおしゃべりする時間が、わたしはいちばん好きなんだから……」
独り言に応えるみたいに、剣がかすかに震えた。薄緑の木陰で細い枝が風を受けるような、ひかえめで、それでも確かな反応。
次の瞬間、清らかな声が耳朶へ舞い降りる。
《《……美鶴、呼んでた? ごめんね、ちょっと気が逸れてた》》
剣を握っていた指先が、その声ひとつでそっと力をゆるめていた。
わたしは首を振って微笑む。
「ううん、いいの。気にしないで。さっきお祖父さまとお話ししてきたから、そのことを伝えたかっただけ。それより、あなたは平気? ずっと解析してて、疲れない?」
《《ノーノー。ぜんぜんへーきだよ》》
得意げな響きに、肩のあたりの力が少し抜ける。見えないところにある彼女の疲れへ思いが触れかけて、わたしは今は笑いのほうを選んだ。
「わたしが心配してるのは、処理する情報量が膨大すぎて、あなたが知恵熱を出してないかってことなんだけど?」
カーテンレールを滑る風が、かすかな音を立てる。わたしは剣へ視線を落とし、わざと少しだけ眉を寄せた。
「だって、昔からそうだったでしょう? 勉強となると、すぐオーバーヒートぎみ」
剣の内側の声は、唇の端が持ち上がる気配をまとって弾んだ。
《《ふふん、言ってくれるね。でもいまのわたしは昔とは桁違いなのさ。美鶴は知らないでしょ? それに、マウザーグレイルの中で、わたし――『あの子たち』と仲良くやってるんだ》》
「あの子たちって……なにそれ?」
《《前に大図書館でやってたでしょ? あなたが視たものを受け取って、中に眠ってる記録の山から近いものを拾って、わたしにわかる形へ整えてくれてた子たち。ああいうお手伝い役が、ここには何人もいるの》》
「ああ、あれか……」
《《感情なんかはないけれど、ほんと働き者でね。おかげで大助かり。ずいぶん楽させてもらってるよ》》
彼女がこれまで断片的に語ってくれた内側の世界を思い浮かべる。こちらからは見えない場所なのに、そこに彼女なりの工夫や楽しみが増えているのだと思うと、自然と頬がゆるんだ。
「へえ、その子たちってどんな姿をしてるの? 形は決まってる?」
茉凛はすっかりはしゃいだ調子で応える。
《《最初はね、何の形もなかったんだ。でも、昔大切にしてたぬいぐるみとか、エレダンで買ったかわいい小物なんかを思い出してイメージしたら、その子たちが真似して姿を取ってくれたの。しかも、生きてるみたいにちょこちょこ動くんだよ。すごいでしょ》》
「なんだか、アニメの世界みたい」
《《今や、わたしの周りはかわいいものでいーっぱいなの。自分のためのお部屋までイメージしたりねー。こういうのって、癒やしっていうか、息抜きにもなるしね》》
「ふふっ」
思わず息が漏れた。
触れられない世界のなかに、彼女はちゃんと自分の居場所をつくっている。その声音が満ち足りていて、こちらまで嬉しくなる。
「楽しそうね、あなた」
剣を見つめる。
わたしの手の届かない場所に、たしかに彼女の時間が流れている。そのことがわかるだけで、剣を支える指先の力が少しゆるんだ。
《《当然でしょ。何もなかったら、引きこもって解析なんてできないもの。いまはとっても賑やかだし、退屈しないのよねー》》
「そう? わたしは……そういうのいらない。逆に気が散っちゃう」
《《でたな、不動の集中力。美鶴の場合はさ、そのうち石にでもなっちゃいそうで、ほんと心配なんだよね。わたしがいない間、ちゃんと食べてた?》》
「食べてたわよ。ちゃんと三食しっかり、おやつまで食べて、ついでに夜食つき。もうこれでもかってくらい。まったく、口うるさいお母さんみたいなこと、言わないでくれない?」
《《は? わたしはお母さんじゃありませんー。そこはせめて、お姉さんと言ってほしいなあ》》
「いつからわたしのお姉さんになったのよ。わたしより三つは年下のくせに」
《《あんなにあまえんぼさんなくせに? おねーさんは心配が尽きないよ》》
「っ……。どっちにしても、口うるさいことに変わりはないでしょう?」
《《ひどい。心配してるだけなのに》》
むっとしたふうを装っていても、声音の奥には弾む笑いが隠しきれていない。
わたしは剣を抱える手にわずかに力を込め、三面鏡の前へ腰を下ろした。鏡の中の自分は、まだ典礼用の髪飾りを残したままで、頬の熱もすっかりは引いていない。
《《……あれ、美鶴。なんか顔、赤くない?》》
「気のせいよ」
《《気のせいじゃないでしょ。なにその反応。さては、何かあったな?》》
そのひと言に、喉の奥が妙にむずがゆくなる。
茉凛は見ていない。控室での一幕も、お祖父さまの前で前身頃を解いたことも、ヴィルがあの最悪の間で弁明を始めたことも、共有していないはずなのに。
「……別に、たいしたことじゃないわ」
《《その言い方をする時は、だいたいたいしたことなんだよねえ》》
くすくすと笑う気配。
わたしは鏡越しの自分を睨むみたいに目を細めた。
「あなた、本当に嫌なところだけ鋭いわね」
《《そりゃ、美鶴のことだけはよくわかるもんね。親友で、お姉さんで、ついでに保護者代理でもあります》》
「なんて欲張りなんだか」
《《いいの。『ほしいものはぜんぶほしい』派だから》》
思わず、ふっと息が漏れた。
剣身に映ったわたしの顔が、さっきより少しだけましに見えた。
わたしは剣の白い光を見つめたまま、小さく肩を落とした。
「……実はね、お祖父さまに見せたのよ」
《《え、なにを?》》
ほんの短い沈黙。
それから、茉凛の声が少しだけ低くなる。
《《……まさかとは思うけど、お腹の痣?》》
「そう」
《《そっか……》》
それだけで、背すじを細く支えていた緊張が、そっとほどけていった。
息を呑む気配がそのまま伝わってくる。さっきまでの軽口の温度がすっと引き、代わりに驚きと心配が静かに広がった。
「後で詳しく説明するけど、どうしても必要だったのよ。あれを見せないままじゃ、推論だけで終わってしまう感じだったし。でもね、お祖父さまはちゃんと見てくれた。変に騒がずに……わたしの話を受け止めてくれた」
《《さすがはグレイさんだね。大賢者って感じで懐が深い。やっぱりすごい》》
「ええ。ほんとにね」
口にした途端、声が思ったよりやわらかくほどけた。胸の内で重なったいくつもの気持ちは、まだ自分でもうまく名づけられない。
《《でも、それで美鶴がそんなに顔熱くしてるってことは、別の意味でも何かあったなあ、とか》》
「ちょっと。どうして、そうなるのよ」
《《だって、それで終わるなら、いまみたいな曖昧な声にならないもんね》》
鋭い。
ほんとうに鋭い。わたしは片手で額を押さえた。
「だって……ヴィルが」
《《うん》》
「……よりにもよってお祖父さまの前で、わたしが熱出して倒れた時のこと、蒸し返したのよ」
一瞬、部屋の空気が止まったみたいに静かになる。
その次の瞬間、茉凛がこらえきれないみたいに吹き出した。
《《ぶっ……ふふ、なにそれ、最悪のタイミングじゃん……!》》
「笑いごとじゃないわよ」
《《いや、ごめん、ごめんね。でもそれ、ヴィルっぽすぎてさ。たぶん本人、ものすごく真面目に弁明したんだよね。それにしてもタイミング悪すぎ》》
「そうなのよ。それが余計に始末が悪いの。下心がないのわかってるし。見ないようにしてたのも、たぶん本当なんでしょうけど……だからってあの場で、あんなふうに言う必要ある?」
《《ないよねえ》》
「ないよね?」
《《うん。でも、そこがヴィルなんだろうな。くくく……》》
楽しそうに言いながらも、声音はどこかやわらかい。
彼を笑いものにしているのではなく、その不器用さごと抱きとめている響きだった。
《《たぶんさ、美鶴が思ってる以上にあの人も慌ててたんだよ。命が何より大事ってのは真っ当な理由だけど、変な誤解だけは嫌だって、ずっと引っかかってた。でもどう伝えればいいかわからないままで。それがいちばん変な方向に全力で転がった感じ。ほんと不器用だよね》》
「……それは、わかるけど」
《《でしょ?》》
「わかるけど、わかるから余計に腹が立つのよ。ああいうの。悪気がないって知ってる相手に怒るのって、すごく疲れるんだから」
《《あはは。美鶴、ちゃんと怒れるようになったんだね》》
その言葉に、ふと口をつぐむ。
たしかに、昔のわたしなら、その前に飲み込んでいたかもしれない。迷惑をかける側の自分が、不愉快だの恥ずかしいだの言う資格はないと、勝手に思い込んで。
けれど今は違う。恥ずかしかった、と言える。不愉快だった、と少しは思える。それを、全部なかったことにしなくていいのだと、どこかで思えるようになっている。
「……そうかもしれないね」
《《うん。いい傾向です》》
「ほら、やっぱりお母さんみたい」
《《だから、お姉さんだって!》》
また笑ってしまう。
笑うたび、今日の重たいものが少しずつ身体の外へ抜けていくみたいだった。
わたしは剣を膝に横たえ、ゆっくり息をついた。
《《おっと、解析の進行具合を報告しなきゃ。話が脱線してすっかり忘れてた》》
「そうそう、簡単でいいから聞かせて」
《《聖剣同士が共鳴したおかげかな。解析作業はぐんと進んでるよ》》
宝物を見せびらかす子どもみたいな無邪気さの奥に、剣の内側へつながる深い気配がかすかに混じる。
「ほんと? 少しは明らかになった?」
《《ふふん、まあね》》
「たとえば? IVGシステムは? もう使えるの?」
ここから先は、甘い空気のままではいられない。
そう感じたのか、剣の白い光がわずかに沈み、室内の静けさもひとすじだけ深くなる。
短い間があった。
《《……それがね、『もう使えるし、まだ使えない』のよ》》
「なにその矛盾は。分かるように言って」
《《前に、黒いプレートから情報が流れ込んだとき、一度だけ発動したっぽいでしょ?》》
「うん、覚えてる。黒鶴の翼が白くなった」
白い刀身へ視線を滑らせる。
あのときは、まるで剣そのものが意志を帯びたみたいだった。その異様な白さが、いまも目の奥に残っている。
《《あれが、IVGシステム稼働の証だったんだよ》》
「ああ、わかる。ロスコーの記憶でも、デルワーズの翼は真っ白だった。……というより、白銀かな。たしか彼女はこう呼んでいたと思う――『ルミナ・ペンナ』って……」
《《そうだったね。たぶんだけど、大量の情報が流れ込んだ時、再生された記憶の中でデルワーズの姿を拾ったことで、マウザーグレイルが反応した。そして、持ち主であるあなたに働きかけて――一時的に、あなたを彼女と同定した。そう見ていいのかも》》
ロスコーの記憶の最初、調製槽に浮かぶ少女。あれはわたしにあまりにもよく似ていた。外見だけではない。もっと深いところまで、重なっている気がする。
「彼女は、わたしそのものだった。おそらく、遺伝子的にもほぼ同一と言っていいと思う」
《《うん、その通りだと思う。マウザーグレイルにはね、デルワーズの遺伝子情報も保存されてるんだ。だから、そう見ていいと思う》》
「それ、本当?」
《《分類上のラベルではね。中身までは届かないし、意味もまだ分からないけど、たぶんそれがIVGの鍵になってるはずだよ》》
ばらばらだった点が、ようやく一本の線へ寄ってくる感覚がある。
「わたしの考えだけど、やっぱり彼女は、それをもとに発生段階のミツルに干渉したのかもしれない。そして、自分と同じ因子を……」
《《……あくまで可能性はね。悪いけど、否定はできないな》》
「それにしても、生命に手を加えるなんて酷い話ね。深淵の血族の生まれた経緯については明らかだし、それを思うと意図的な介入があったとしか……」
《《残酷な話だけど、たぶんね。――でもそのおかげで、あなたには彼女を前提に組まれたマウザーグレイルの真価を引き出す資格がある。……そういうこと》》
喉の奥に、乾いた息が小さく引っかかった。
「ねえ、あの発動が偶然だとして……わたしはその力をもっと自由に、好きなときに使いこなせないの? だって、理屈の上では、デルワーズとわたしはほとんど同じなんでしょう? だったら、鍵になれるはずでしょう?」
茉凛は、ふいに黙った。言葉が沈みこむみたいな静寂が落ちる。
「茉凛……何か問題?」
《《……問題、というより》》
「はっきり言って。何が引っかかってるの?」
《《要するに――その力をぶつけるべき敵が、今はこの世界にいないの。あの力には、そういう制約がある。使えるのに、使う相手がいない。だから、いくら頑張っても無駄ってわけ。マウザーグレイルって頑固者なんだから……もうお手上げだよ》》
「そうか……まあ、仕方ないね。使えたところで、今のわたしに何ができるのって話でもあるし。デルワーズの戦いを思い返せば、危険すぎるわ。魔獣相手なら黒鶴で十分じゃない」
《《だよねー……》》
「……でも、茉凛は、空を飛んでみたいんじゃないの?」
《《うふへへ……実はね、それよそれ》》
浮き立つ笑いに、こちらまでくすぐったくなる。
わたしだって、自由に空を飛べたらどんなにいいだろうと思う。けれど、その先を思い浮かべた途端、掌にいやな汗がにじんだ。
「素敵だとは思うけど……知ってるでしょう? わたし、高いところが大の苦手なの」
《《……そういえば、そうだったね》》
「思い出したくもないわ、ほんとに」
半分は冗談で、半分は本音だった。手のひらににじんだ汗の感触は、できればもう思い出したくない。
「とにかく、解析ありがとう。いつも助けられてばかりね。本当に感謝してるわ」
《《気にしないで。わたしは、わたしにできることであなたを支えたいの――昔から、ずっとね。だから当然だよ》》
剣を抱える手から、余計な力が抜けた。
わたしは素直に笑った。
「うん。心強いわ」
《《……ねえ、ひとつ思った》》
「なに?」
《《美鶴、少し見ないあいだに変わったね》》
肩がわずかにこわばる。
変わった、と言われても、自分ではうまくわからない。
「ど、どこが……?」
《《前よりずっと元気。気持ちが、前へ動いてる》》
「……そうかな」
《《うん。とてもいいことだよ。今のあなたの声を聞いていると、わたしまで嬉しくなる。これから、もっと変わっていくんだろうなって》》
すぐには返せなかった。
変わらなくてはいけないと、自分に命じてきたわけではない。むしろ、変われないものだと思っていた。ただ、ここへ来てから、こわばったまま止まっていたものが、少しずつ動きはじめている。その歩みを彼女が喜んでくれるのなら、わるくない。
「そうだ、茉凛。さっきお祖父さまと話したこと、聞いてくれる? この先のことも相談したいの」
《《うん、聞かせて》》
こうして、久方ぶりの二人だけの語らいへ、わたしは静かに身を預けていった。




