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虚無に重なる失われた名

 わたしは息をひとつ整えた。


 胸の奥に残っていた熱は、まだ消えていない。けれど、さっきほど散らばってはいなかった。白い卓布の端を見つめながら、先へ進むための言葉を選ぶ。


「先ほど申し上げたとおり、わたしに精霊の言霊は届きません。それにもかかわらず、あれほど似通った幻影が現れたのは……お祖父さまがおっしゃったとおり、『虚無』そのものが、わたしに干渉しようとしたからだと考えるのが自然でしょう。ですが、問題はそれだけではありません」


 切り出すと、お祖父さまは優雅に頷いた。指先が丁寧に顎鬚を梳る。その落ち着いた所作に、こちらの呼吸まで少し遅くなる。


「君は、そこへ重なるように現れた例の紋様が気になるのだね?」


「はい」


 厚いカーテンを透いた昼の光が、卓の縁や茶器の白さをやわらかく浮かび上がらせている。


 わたしは一枚の古い頁を思い起こすように、いったんまぶたを伏せた。余白に残っていた墨のかすれが、記憶の奥からゆっくり戻ってくる。


「お祖父さまの注釈には、こうありました。『此れ、正当なる紋章に非ず、故に「不具」と呼ぶべし。遥か昔、古代王朝が最期に遺した失われた名を図案へと紛れ込ませたもの。何者も意味を掴めず、ただ時折噂に上るのみ。かつて栄えしクロセスバーナ関連の蒐集品に同一紋様ありと聞くが……何ら手掛かり得られず』……と」


「ふふ……」


 目尻の皺がやわらかくほどけた。白い髭の先で、笑みだけがひそやかに揺れる。


「それにしても、よくあれを読み取れたものだ。かなり昔に書き込んだ注釈だったはずだが。それで、君はそこから何を感じ取れたのかな?」


 問われて、唇をかすかに引き結ぶ。


 黄ばんだ紙。擦れた墨跡。余白へ追い詰められるように並んだ小さな文字。あの頁に触れたとき、胸へ差し込んだのは好奇心だけではなかった。


 意味も知らぬまま見過ごしてはならないものへ、うっかり指先で触れてしまったような、ひやりとした不穏さがあった。


「直前に拓本の紋章を目にしていたせいで、幻視に紋様が混ざった――そう片づけることもできます。ですが、どうにも割り切れない点があって……」


「それは?」


 お祖父さまの声は低く穏やかだった。その静けさに支えられ、わたしも急がず言葉を継ぐ。


「注釈の末尾に記された『クロセスバーナ』。千年以上前に栄え、当時のリーディス王国と深い因縁があった――そう耳にしております」


 お祖父さまは小さく息を洩らした。


 光を受けた横顔には、長く書物と向き合ってきた人の沈んだ知性がにじんでいる。


「ふむ、博識だね。その頃の記録はほとんど散逸し、いまは伝承として残るばかりだ。だが、その国は中央大陸全土を覆う戦乱の末に滅んだ――それが定説だ」


「はい。そのはずです。ですが今、西方大陸でその名が再び囁かれています。潤沢な魔石資源を背景に近年勢力を急拡大し、圧政や人道に反する魔石研究まで行っている、と……」


 告げると、お祖父さまは目を伏せて小さく頷いた。


 眉間に刻まれた皺はまだ浅い。けれど、そのわずかな陰りだけで、この話が書物の中だけに収まるものではないと知れる。


「そこまで知っているとは驚きだ。誰が情報を運んだのか、探るのはやめておこうか」


 そう言いながら、お祖父さまの視線が一瞬だけヴィルへ流れた。


 露骨ではない、その短い一瞥に、喉の奥で笑みがほどけそうになる。


 ヴィルは案の定、厄介ごとを持ち込まれたときみたいにわずかに目を逸らした。けれど、その顔つきに険しさはない。叱るでも問い質すでもなく、ただ事情はわかっていると告げる、それだけの合図だった。


 その小さなやり取りを背に、わたしはふたたび失われた名へ意識を戻す。


「そのクロセスバーナに関わる蒐集品に、古代王朝が遺した『失われた名』が図案として落とし込まれていた……と考えれば、古代文明との関わりが示唆されます。失われた名が何を意味するのかは、まだわかりません。ですが、彼らにとって崇拝すべき対象、あるいは忌むべき敵の名が、意図的に図像として刻まれたのかもしれません。後世へ伝えるため、正当な紋章としてではなく、『不具』と呼ぶべき紋様として残した――そんな含みがあるのではないかと」


 言い終えると、お祖父さまは静かに頷いた。


 そこにあるのは、孫への甘やかな同意ではない。仮説としていったん受け取り、重さを量っている人のまなざしだった。


「よい推察だ。だが、それと君が見た幻視とを結ぶには、まだ足りぬものがあるのではないかな?」


 まっすぐな指摘だった。


 わたしは小さく息を吐く。断片は、まだ断片のままだ。指の腹に残るざらつきのように、確かなのに、かたちと呼ぶには頼りない。


「それについては……正直、まだすべてを掴めてはいません。ですが、ひとつの可能性として、こう考えてはいただけないでしょうか?」


 お祖父さまの視線を、今度はまっすぐ受け止める。


 壁際で腕を組んだヴィルも、わずかに首を傾け、口を挟まずに続きを待っていた。


「わたしが見た幻視――あの得体の知れない虚無は、まるでわたしを媒介にして、何かを伝えようとしているように思えました。そして、そこに重なった不具の紋様は、歴史の中に封じられた『失われた名』を刻んだ図像です。正統な紋章が崇拝や血統を示す整った象徴だとするなら、この歪んだ紋様は……言葉にできない、あるいは口にすることさえ許されない名を図へ置き換えた、乱雑で異形の証言――そう考えられるのです」


 話しながら、あの闇の感触が指先へ戻ってくる。


 まだ見えない。けれど、何もないわけではない。わたしはその細い手がかりを、卓の上へそっと置くように言葉を続けた。


「つまり、それは禁忌、あるいは秘められた災厄を指し示す刻印……そういう可能性もある、と?」


 お祖父さまの淡々とした問いに、わたしは小さく頷いた。


 耳の奥で、自分の鼓動だけが妙に鮮やかに鳴っている。


「はい。そう考えています。クロセスバーナがかつてこの国に脅威をもたらした折、彼らはその名を通じて、強大な何かを招来しようとしたのかもしれません。その名は長い歴史の中で忌まれるものとなり、やがて『不具』の紋様として残された――わたしは、いまのところそう考えています」


 お祖父さまは一瞬、視線を宙へ漂わせ、それから椅子へ深く身を預けた。


 すぐには結論へ飛ばない。その沈黙が、かえってありがたかった。言葉を突き返すのではなく、続きを求める静けさがそこにある。


「とはいえ、まだ根拠としては薄いな。君が見た『虚無』との関係を裏づける決定的な資料は、いまのところないのだろう?」


 問いかけに、意識はふいに胸中のあの囁きへ引き戻される。


 意味を成さないはずの音列が、耳鳴りみたいに脳裡をかすめた。


 ――《《……デ……ワ……ズ……ユ……ス……ジ……マ……ソ……ク……ュ……ノ……キ……タ……リ》》


 何度たどっても、あの響きは暗号めいていて、言葉としての輪郭を拒んでいる。


 もし、あれが本当に『虚無』からの呼びかけなのだとしたら。


 そこで、わたしはひとつ躊躇った。


 仮説だけでは足りない。見れば逃げられないものを、ここへ差し出さなければならない。


 けれど、それは控室という場にそぐわぬ無作法でもあった。王家の礼装をまとったまま、祖父と侍女と護衛の前で、それをするのか。


 腹の底が、じわりと重くなる。


 ――ここで隠せば、また同じだ。


 うっすらにじんだ汗が、布をつまむ指をかえって冷たくした。


「お祖父さま……その、ぜひこの目で見て確かめていただきたいものがあって……」


 声は、わずかに震えていた。


 扉脇に控えていたリディアが、小首を傾げる。


「お嬢さま?」


 ヴィルは壁際で腕を組んだまま黙していたが、その視線だけが、わたしの手元へすっと落ちた。


 何をしようとしているのか、まだ察しきれてはいない。それでも、ただならぬ気配だけは伝わったのだろう。


 白く淡い光沢を帯びた礼装の前身頃へ、わたしはそっと指をかけた。織りの細かな布は、触れるだけでしなやかな張りを返してくる。


 こんな場でそれを解くなど、正気の沙汰ではない。


 それでも、指は止まらなかった。取り繕ったままでは、また肝心なところで口を閉ざしてしまう。


「……失礼いたします」


 自分へ言い聞かせるみたいに小さく呟き、わたしは前身頃の留めを外した。


 重なった布を脇へ避け、腰紐で留めた内衣の前布を、臍の下が見えるところまでそっとたくし上げる。白い肌の上にあったのは、正統な紋章とは思えぬ印だった。


 複雑な曲線と、意味を拒むような文様が絡み合っている。


「お、お前、何てことを――!」


 ヴィルの声が弾けた。


 片手で顔を覆い、あからさまに目を逸らす。その率直すぎる狼狽に、かえってこちらの頬まで熱くなりそうになる。


「お嬢さま! いけません、そのようなはしたないことは……!」


 リディアも息を呑み、小さく身を乗り出した。


 戸惑いと心配と、侍女として見過ごせぬ焦りが、そのまま声に滲んでいる。王家の控室で礼装を乱すなど、叱られて当然の振る舞いだった。


 それでも、わたしは布を戻さなかった。


 ここで隠してしまえば、また何も言えなくなる。品位より先に、確かめなければならないことがあった。


 お祖父さまは、騒ぎに気圧された様子もなく、深く椅子に身を預けたままこちらを見ていた。


 顎鬚を撫でる指先は落ち着いていて、瞳の光も揺れない。咎めるでも、慌てるでもなく、ただ目の前に差し出された印の意味を見定めようとする眼差しだった。


 その落ち着きに背を押されるように、わたしは唇をひらく。


「お祖父さま……このお腹の痣を見て、どう思われますか?」


 緊張で、声の端がかすかに震えた。


 カーテン越しの光がわずかに揺れ、白い肌とその痣を淡く照らす。周囲のざわめきが、すうっと遠のいた。


 ヴィルはようやく手を顔から離し、リディアも息を詰めたまま口を閉ざす。


 控室の空気は張っている。けれど、不思議と壊れそうではなかった。


 お祖父さまの指先だけが、静かに顎鬚を撫でている。


 布を握る指に、もう一度だけ力を込める。


 この痣が何を示すにせよ、もう目を逸らさない。


 指が痛い。それでも離さなかった。恥も恐れも、いまさら隠しきれるものではない。


 わたしは、お祖父さまの返答を待った。

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