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選びなさい、と先王は言った

 お祖父さまは、すぐには言葉を返さなかった。


 白い卓布の上で、香木の匂いだけが細くたゆたい、誰の指先も動かない。さっきまで室内を張りつめさせていたものが、いまは音のない水底のように静まっている。


 わたしは唇の内側をそっと噛んだまま、その沈黙の行方を待っていた。


 伏せられた眼差しは、ただ黙っているのではなかった。王家に積み重なった伝承も、メイレアという娘の面影も、いま目の前で震えている孫の声も、そのどれひとつも取り落とさぬように、胸のうちで置き直しているように見えた。


 やがて、お祖父さまはゆっくりと顔を上げた。


 唇の端に浮かんだのは、困った子を叱る前のものでも、慰めるためのものでもない。もっと深いところで腹を決めた人の、ごく静かな笑みだった。


「だから、何だというのだね?」


 あまりにも自然な、その問いに、わたしは息を詰めた。


 もっと重い顔をされると思っていた。王家の伝承を崩したことを咎められるか、あるいは、わたし自身の異質さに眉を曇らせるか。そう身構えていた場所へ、別の扉がひらいたみたいだった。


「君が兵器であろうと巫女であろうと、そこに何か問題があるのかね?」


 お祖父さまは、ゆったりと椅子に身を預けた。丁寧に顎鬚を撫でる指先は穏やかなのに、その奥には、わたしが自分へ突きつけた刃を、そのまま受け取るつもりはないという意思があった。


「ミツル、君が自分の力をどう解釈するか、それは確かに大切だ。しかし、もっと根本的なことがあるのではないかね? 君はメイレアの娘であり、私の孫だ。それで十分ではないか」


 背に触れていた椅子の硬さが、ふいに近くなった。


 頬の奥へ、遅れて熱が集まる。言い返そうとしていた言葉は、喉の手前でほどけてしまった。


「ですが……」


「まず第一に、君は『安全装置』があると言った。であるならば、それが機能する限り暴走する危険性は薄い」


「はい、一応は……」


「第二に、これは冗談ではないが、大は小を兼ねるというではないか。しかも君は精密に力を制御し、誰一人として傷つけていない。この私を救けてくれた時も、選定の儀式においても、玉座の間にしてもそうだった」


「第三に、君ほど思慮深く慎重な人間はいない」


「君は自分を兵器だと言うが、たとえそうだとしてもそれだけで君の価値が毀損されるわけではない。むしろ兵器としての性質を持つならば、その力をどう生かすか、どう正しい方向へ導くかが重要なのではないかね?」


 ひとつひとつ、石を置くみたいに言葉が積まれていく。


 慰めではなかった。危険も、異常性も、その上に残る選択の余地も、お祖父さまは順に見定めている。王として物事を量る厳しさを捨てたわけではないのに、その測り方は、わたしを切り捨てるほうへ向いていない。


 そのことに、うまく息が継げなかった。


「……兵器であるがゆえに、ですか?」


 問い返した声は、思ったよりも頼りなかった。お祖父さまは急かさず、静かに頷く。


「そうだ。持てる力を無駄にしない道を探せばいい。怖くて当然だよ。力とは元来そういうものだ。だが君ならば力に飲まれるようなことはなかろう。むしろ、それを導く側に立てるはずだ」


「わたしが、ですか?」


「そうだ。望まぬ力を背負い、苦悩し、恐れ、それでも生きんとする君の意志は、誰にも模倣できぬ唯一無二のものだ。言ったはずだよ。『君の力とは、君の純粋な願いそのものを形にする』ものであると。だから、私は君そのものを恐れることはない。答えに至るまでの過程は問わない。自分で選びなさい」


 窓の向こうで、遅れて枝がひとつだけ擦れた。


 乾いたその音が、張りつめていた耳の奥をそっとほどいていく。膝の上に置いた指が、そこでようやく、自分のもののように感じられた。


「ただ、まぁ……これまで得た知見を秘していたのは、少々、癪に障るがね。こういう大事なことは、もっと早く共有しておきたかった」


「申し訳ありません」


「仕方あるまい。君の心境はよく理解できる。だがいいかね、ミツル。私はメイレアの父であり、君の祖父なのだ。その程度のことで、君への見方が変わるものか」


 なだめるような穏やかさに、ほんの少しだけ茶目っ気が混じる。


 その軽さに救われる。深刻な告白のあとの室内へ、わざと小さな隙間をつくってくれているのだとわかった途端、張っていた肩の力が抜けた。


 ――わたし、どうしてこんな当たり前のことを、ずっと遠ざけていたのだろう。


 胃の底に残っていた冷えが、すぐに消えるわけではない。


 ただ、白い卓布の上で、お祖父さまの指が静かに止まっている。その動かなさだけが、今はひどく確かだった。


「お祖父さま……」


 名を呼んだだけで、声が少しかすれた。


 お祖父さまは、古い記憶を手繰るような眼差しのまま、そっと頷いた。責めもしない。急かしもしない。ただ、自分の足で先へ進めるようにと、静かに場所をあけて待っていてくれる。


 わたしはずっと、デルワーズのようにはなれないと思っていた。


 あの人が示した強さは、兵器としての己を呑み込み、それでも胸の奥に抱いた願いを捨てずに立ち続ける、あまりにもまぶしいものだった。母が子を守るみたいな、打算のない深い愛。


 そんな強さを自分は持たない。だから、同じ場所には立てないのだと、いつのまにか決めつけていた。


 ――けれど、違う。


 兵器であろうと、巫女であろうと、その名づけひとつで失われないものがある。


 厚手のカーテン越しの昼の明るさが、卓の端をやわらかく照らしていた。古びたタペストリーの金糸も、磨かれた床の冷たい照りも、さっきと同じはずなのに、どこか輪郭がほどけて見える。


 強さという言葉は、まだ遠い。


 けれど、お祖父さまが差し出してくれたものを、今度は拒まずに受け取ってみようと思った。膝の上で重ねた指が、少しだけほどける。


「お祖父さま……ありがとうございます。わたし、少しずつ考えてみます。自分の力をどう使い、どう生かすべきか。そして、これからどう生きていくべきかを」


「うむ、期待しているよ」


 精一杯の感謝をこめて告げると、お祖父さまは満足げに小さく頷いた。


 そこで、壁際のヴィルが小さく息を吐いた。


 腕を組んだまま、わざと呆れた顔をつくる。その不器用さで、張りつめていた空気の端が少しだけ折れた。


「まったくもう、お前はいつだって取り越し苦労ばかりする。さっさと本音を出せば、みんなで考えてやれるっていうのに」


 遠慮のない率直さなのに、不思議と刺さらない。


 特別扱いも、過剰な憐れみもない。ただわたしをひとりの人間として扱う声だった。ずいぶん長いこと、その雑なやさしさを待っていたのかもしれない。


「……そうね。そうさせてもらう。あなたみたいな人がいてくれるから、わたしも怖がらずに歩いていけるのかもしれない」


 ヴィルは照れたように視線を逸らし、鼻のあたりを指でひとつ掻いた。


 卓上のマウザーグレイルは、変わらず静かだった。


 剣身に落ちた昼の光だけが、さっきより少し淡く見える。


 この先、またわからないものは増えていくのだろう。


 それでも、卓の向こうで頷くお祖父さまと、壁際に立つヴィルを見ていると、答えをひとりで抱え込まなくてもいいのだと、少しだけ思えた。


「ミツルよ。まだ話の途中だろう? 先王もああ仰っているんだ、遠慮はいらないぞ」


 からかうような声に、今度は自然に笑みがこぼれた。


 恐れが消えたわけではない。ただ、それより先に、いっしょに考えていけるという感覚が立ち上がってくる。


「ええ、そうね」


 お祖父さまは「うむ」と深く頷き、続きを促すようにわたしたちを見渡した。


 わたしは静かに息を整える。いちど視線を落とし、膝の上で指先をそっと重ね、それからもう一度顔を上げた。


 お祖父さまがいる。ヴィルがいる。いまは剣のうちに沈黙している茉凛もいる。


 わたしを形づくってきたもの。わたしが失いたくないもの。その気配をひとつずつ確かめるみたいに見回すと、空っぽだった腹の奥へ、静かな支えが戻ってくる。


「では、お祖父さま。お話を続けさせていただきますね」


 そう告げると、お祖父さまはその深い瞳で静かに頷いた。


 それは、やわらかな肯定というより、こちらの足元に置かれた小さな灯に近かった。


 ヴィルは壁際で腕を組んだまま、わずかに片眉を上げる。茶目っ気のある顔つきは変わらない。それでも、その眼差しの底にあるのは、話を聞く者の真面目さだった。


 そのことがわかるだけで、指先の冷えはもうさっきほど強くない。


 わたしは小さく息を吸い、まだ語っていない真実へ向かって、唇をひらいた。

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