紋章を讃う午後
昼食を終えるころには、先ほどの幻視の名残も少しずつ薄れ、胸の奥へ遅れて息が戻ってくる気がした。
「お嬢さま、午後の典礼まで少々お時間がございます。礼装をお整えのうえ、儀式の間へご案内いたしましょうか」
リディアの柔らかな声に、ヴィルが軽く顎を動かし、わたしの様子をうかがうように目を向けてくる。その気遣いに、わたしはわずかに微笑み、かすかに頷いた。
「ええ、そうしましょう。紋章に関する書は一度書斎へ戻しておいて。お祖父さまがお戻りになったら、直接お話を伺いたいわ」
告げると、リディアは控えめに頭を下げ、テーブルまわりの片づけを進める。ヴィルは椅子を立ちながら言葉少なに肩を回した。その無言の態度がむしろ心強く、背中に残っていたこわばりが、すっと抜けていく。
侍女たちが手際よく後片づけを進める中、リディアがそっと近づき、腰を落として顔色をうかがう。
「お嬢さま、お加減はいかがでございますか。もうお楽になられましたでしょうか」
「ええ、大丈夫。ありがとう、リディアさん。さっきはほんの一瞬、不思議な夢を見たような感じがしたの。例の紋章と何か関係があるのかもしれない、と思うのだけれど……」
わたしの言葉に、リディアは安心させるように笑みを浮かべた。
「先王陛下であれば、きっとお力添えくださいます。陛下は魔導技術や古代伝承にもご造詣が深うございますので」
「そうね……午後の典礼は、王家の紋章を讃える儀式。リーディスの歴史と深く結びつくものであるなら、何かしらの示唆が得られるかもしれないわ」
わたしは静かに頷く。
お祖父さまなら、あの奇妙な紋様についても何か手がかりを示してくれるかもしれない。あの幻視のことも、きちんと伝えるべきだ。
考えごとを抱えたままリディアと廊下を抜け、自室へ戻ると、礼装はすでに整えられていた。
白を基調とした軽やかな生地に、淡い金糸が細く織り込まれている。光を受けるたび、布の表面に静かな模様が浮かんだ。袖を通すと、生地が肌を撫で、かすかな冷たさが意識を澄ませていく。
足元には精緻な紋様を刻んだ小ぶりの靴。そっと足を滑り込ませて鏡をのぞけば、そこに映るわたしはまだ頼りなげな面影を残しながらも、背筋を伸ばせばごく微かに誇りが薫る。――これが、今のわたしに必要な心持ちなのだろう。
カーテン越しの昼下がりの光が、室内を淡くあたためていた。
「お嬢さま、とてもお似合いでございます」
リディアは優しく目を細め、首飾りの位置を微調整する。その仕草に小さく微笑み返す。さきほどの黒紫の裂け目や禍々しい気配は、この光のなかでは影すら落とさない。
けれど、ただの見間違いで片づけるには、落ち着かなさが収まらなかった。首飾りの金具へ触れた指先が、少し冷えている。意味があるなら、確かめなくてはならない。お祖父さまとの対話は避けられない。
輪郭はまだ曖昧でも、幻視が何を暗示するのか、うっすらとわかる気がする。なぜわたしが見たのか――その一点だけが刺のように残り、指先の冷えはなかなか引かなかった。
支度を整え、部屋を出ると、ヴィルが壁際で待っていた。特段格式ばった装いではないが、彼なりに身だしなみを整え、肩や胸元の埃を払っている。それに気づいて、思わずくすりとする。
「さて、ミツルお嬢さま。典礼へ参られますかな?」
からかう声音に、さきほどまでの緊張が少し薄れていく。ならば、こちらも少し芝居がかった返しで。
「ええ、そろそろ始まるはずですもの。専任護衛騎士であるあなたも、ご一緒してくださるかしら?」
「もちろんだ」
ヴィルはそう答えて、すっと目を逸らした。照れ隠しだろう。わたしは小さく笑い、彼を促して歩き出す。この何気ないやり取りが、今のわたしにはいちばんありがたい。
静かな廊下を渡り、階段を下りて、王家の紋章を祀る小礼拝堂へ。大理石の床は光を返し、ステンドグラスの繊細な紋様が壁面を彩る。ほのかな香木の香り。正面には古より受け継がれるエンブレム。彩色彫刻と宝石の微光が、沈黙の奥で静かに息づいていた。
控えの侍女が扉を開けると、すでに数名の家臣や要職者が厳かな沈黙の中に佇んでいた。その中央近くにお祖父さまの姿がある。わたしたちに気づいた方は、迎えるように微笑み、深く温かな瞳でこちらを見やった。
リディアが礼をとって下がり、ヴィルは無言のまま距離を保って周囲へ目を配る。わたしはお祖父さまの前で軽く頭を下げた。
「お祖父さま、お帰りなさいませ。ご多忙のなかお戻りいただき、ありがとうございます。午後の典礼が済みましたら、ぜひお話ししたいことがございます」
そう告げると、お祖父さまは微笑を浮かべた。今は儀式の刻――私語は慎むべきだ。けれどそのまなざしは、「承知しているよ」と静かにうなずいていた。
「では、後ほどゆっくり話をすることにしよう。まずはこれから臨む儀式だ。形ばかりで堅苦しくはあるが、まずは我が国の伝統に捧げるこの典礼を、心して見届けるのだ」
お祖父さまの声は低く、内側から響くような静かな力を帯びて、小礼拝堂の清澄をふるわせた。
「はい。仮とはいえ、いまのわたしは王家の一員です。その務め、果たさせていただきます」
わたしは一度瞼を閉じ、呼吸を整える。
やがて鐘がかすかに鳴り、典礼が始まった。祝詞は細く低く、礼拝堂の石壁をゆっくり渡っていく。香木の煙が揺れ、宝石のはめ込まれたエンブレムが、ステンドグラスの光を受けて小さくまたたいた。
祝詞の切れ目ごとに、わたしはそっとお祖父さまの横顔を見る。静かに瞼を閉じ、また開く。その奥に、まだ言葉にならない何かを見通しているような光が宿っていた。
――この典礼が終わったら、必ず訊かなければ。
歪んだ紋様、奇妙な幻視、そして母や王家の過去に触れる秘密。お祖父さまなら、きっと糸口を握っている。
揺らめく光に染まる聖域を、祝詞の余韻が静かに満たしていく。まずは目の前の荘厳を受け止めよう。典礼ののち、いよいよお祖父さまと対話する。その先に何が待っているのか、まだ見えないまま、みぞおちの奥で緊張だけが細く燃えていた。
◇◇◇
典礼が静かに幕を下ろす頃には、空気がわずかに澄んだように思えた。鐘の音は名残を惜しむように消え、列席者たちは慎ましさをもって退席していく。お祖父さまは微かな肯定を示してから、奥の控室へと姿を消した。そこでわたしたちを待つつもりなのだろう。
入り口付近で立ち尽くすわたしに、リディアがそっと近づき、小声で耳元に囁く。
「お嬢さま、陛下が控室にてお待ちでございます。どうぞ、こちらへ」
「ありがとうございます、リディアさん。ヴィル、あなたにも一緒に来てもらいたいんだけど、いいかしら?」
「わかった。行こう」
ヴィルは短く答え、静かな足取りで後ろにつく。巫女装束の侍女たちが礼拝堂の後片づけを始める気配の向こうで、扉がそっと閉まる音がした。
離宮の中心近くにある控室は、典礼のための特別な空間だ。厚手のカーテンが午後の光を鈍く受け止め、古いタペストリーが壁を飾る。卓上には簡素な茶器と菓子皿が整然と置かれ、最低限の調度が淡々と並んでいた。その中央に、お祖父さまが佇み、わたしたちを迎えた。
「さあ、ミツル、こちらへお掛けなさい。何か胸に引っかかることがあるのだろう。遠慮なく話してごらん」
優しくも芯のある声。お祖父さまは片手で椅子を示す。リディアは察して一歩下がり、扉脇で控える。ヴィルは斜め後ろで、万が一に備える静かな構えを崩さない。
促されて椅子へ腰を下ろす。磨かれた木の微かな香が、鼻腔をくすぐった。
「お祖父さま、実は――」
どこから話すべきか逡巡していると、お祖父さまはそれを悟ったように小さく微笑む。
「焦らずともよい。紋章の件だね。昔私が注釈を入れた、あの奇妙な拓本――君なら即座に見抜くと思っていたよ」
「……はい。あれには、何か特別な意味があるのではないでしょうか。歪な紋様は、どうしてもただの紋章には見えませんでした。それから……先ほどですが、奇妙な幻視を見ました。というよりは、見せられたような――」
その言葉のあと、お祖父さまの睫毛がわずかに揺れた。香木の煙が細くまっすぐ立ちのぼり、すぐにほどける。巫女の神託という響きが、きっと一瞬だけ脳裏をよぎったのだろう。
「それは、闇に呑み込まれた世界でした。黒紫の裂け目、不定形のものが湧き上がり――その上に、あの奇妙な紋様が重なるように浮かんでいて。……夢や幻と片づけるにはあまりに明瞭な像でした。なぜならそれは――」
わたしの言葉に耳を傾けながら、穏やかだったお祖父さまの瞳が、微かに鋭さを帯びていく。
「つまり、『虚無のゆりかご』……ということかね?」
「はい。『闇が全天を覆い、大地は裂け、嵐はすべてを吹き飛ばす。地下からは、不気味な雷光と黒紫に濃縮された魔素が噴き上がる。その中から生まれるのは、生態系を模しながらも、ひたすら命を刈る衝動だけを持つ獣たち』――この光景を言い表す言葉は、ひとつしかありません」
「であるな……」
お祖父さまは目を閉じ、静かに息を整えた。
「君はメイレアと同じく、精霊の言霊――未曾有の厄災を告げる神託を受け取った。そう解してよいか?」
「いいえ……」
わたしは首を横に振り、心に用意していた答えをゆっくりと口にする。
「その点についてなのですが、わたしはこれまで言霊とされるものを受け取った経験がありません」
「なんと? それは本当かね?」
「はい……」
返した声のあと、卓上の茶器がかすかに触れ合った。小さな音なのに、静まり返った控室では妙に遠くまで響いた。
「メイレアは西部戦線の終息後、次なる『厄災』の到来を知り得たはずだ。だがそれから二十年あまり、大陸各地で小規模の揺らぎこそ見られど、決定的な兆候はない」
「はい。正確に申せば、『それ』はまだ顕在化していないということではないかと」
「では君の見た幻視とは? 従来の神託とは別系列、という理解でよいかね?」
「わかりません。ただ、あれは精霊と呼ぶにはあまりに意味を欠いた――いえ、どこか冷たさのある呟きでした。まるで虚無のゆりかごそのものがわたしに語りかけているようで……」
そこまで言ったところで、膝の上に組んだ指がきつく絡み合う。カーテン越しの光がその節へ淡く触れ、冷えだけを残していった。
「しかも、あの紋様が混沌の幻のなかで重なるように浮かんだのです。おそらくこれは、虚無のゆりかごと何らかの関連を持つのではないかと、わたしは推測します……」
お祖父さまは細めた目でわたしを見つめ、ひと息つく。顎鬚へ添えた指先がかすかに震えた気がした――畏怖か、憂慮か。
「君の推論が正しいのであれば、看過できるものではない……」
言葉が切れたあと、控室の空気がひどく重く沈んだ。タペストリーの金糸だけが、遅れた光を鈍く返している。
「精霊や言霊の範疇を超えた声――であるならば、『虚無』そのものからの干渉、ということも考えうる……。だとすれば、常態からの著しい逸脱だ」
お祖父さまは静かに立ち上がり、タペストリーの前で腕を組む。記憶の書庫を手繰るように、表情に深い思索の翳が落ちた。
「お祖父さま……」
言いかけて、わずかに躊躇う。
部屋にはカーテン越しの光だけが静かに残り、タペストリーの色が沈んで見えた。喉の奥に言葉が詰まったまま、わたしは膝の上で指先をゆっくりと組んでいく。切迫した脅威の前兆なら、このまま曖昧にしておくわけにはいかない。
「わたしの考えを申し上げてもよろしいですか?」




