紋章が囁く、深遠の残響
わたしが本から目を上げ、昼のやわい光に満ちた庭をもう一度見渡したとき、リディアが静かに声をかけた。
「お嬢さま、お昼のお支度が整いました。食堂にていかがでしょうか」
奇妙な紋様に引かれていた意識を、そこでようやく手放す。離宮の時間は、余韻を残しながらもきちんと先へ進んでいく。午後には典礼がある。少し何か入れて、気持ちを整えておきたかった。
「わかりました。そうしましょう」
椅子を立ち、テラスの縁へ視線をやると、ヴィルが庭園の端に腰を下ろして一息ついていた。こちらに気づくと、無骨でありながらどこか気楽な笑みで近づいてくる。
「お嬢さまは飯か? ちょうどいい。俺も腹が鳴っていたところだ」
飾り気のない率直さに、思わず口元がゆるむ。
「ええ、ヴィル。たまにはあなたも一緒に食べましょうよ」
「ああ、そうさせてもらおう。朝から体を動かすと、腹がすぐに減るんだ」
肩を軽く回す仕草に余分な力がない。鍛えた腕に古い傷がちらりと見え、戦士の芯を覗かせながら、言動は終始自然体だった。
リディアに先導され、廊下を歩く。磨かれた床が光を返し、窓から射す陽が足元を静かに照らしていた。
「さてさて、どんな料理が出てくるのかな? ここじゃ毎度洒落たもんが並ぶからな。ちょっと楽しみだ」
軽口に首を傾けると、リディアが穏やかな声で応じる。
「本日はハーブとオリーブを使ったお料理を中心にご用意しております。さっぱりと召し上がれると思いますわ」
聞いているだけで、葉の青さと油のやわらかな匂いが鼻先へ寄る気がした。
「いいね。ここの飯は香りが上品で、味わい深い。ただ、酒が出ないというのがな……」
「まったくもう。これだから、ヴィルは」
いかにも彼らしくて、つい苦笑が漏れた。
やがて食堂へ入る。淡いクロスのテーブルに白い花が一輪、磨かれた銀器が並んでいる。窓辺から差し込む冬の光が室内をあたため、銀器の触れ合う音が小さく澄んで弾けた。
席に着くと、まずサラダ。瑞々しい葉と柑橘の酸が鼻をくすぐり、陽だまりの軽やかさが食欲を誘う。
「お嬢さま、こちらはバジルとシトラスを合わせたドレッシングでございます。爽やかな口当たりでございます、どうぞお試しくださいませ」
すすめられた一皿にフォークを伸ばす。ヴィルが目を細め、軽く鼻を鳴らした。
「へぇ、いい匂いだ。俺も遠慮なくいかせてもらおうか」
気取りのない口調のまま、丁寧にサラダを口へ運ぶ。葉が小気味よく歯に触れ、彼は満足げにうなずいた。
「うん、うまい」
「ふふ、嬉しそうでなにより」
笑うと、彼は少し照れたように肩をすくめた。
「俺は剣を振れれば、うまい飯を食えれば、それだけで心が満たされるのさ」
「単純だけど、それっていいことだと思うな……」
――当たり前の幸せってさ……案外そんなものなんだよね。
皿の上から立つ香草の匂いが、ふっと近くなる。数多の戦場を生き抜き、人の生き死を目の当たりにしてきた声は、飾らないぶんだけ妙に深く胸へ沈んだ。
「そうだ。何か手伝えることがあれば声かけてくれ。紋章の資料だかなんだかもあるんだろ? 学問は俺の得意分野じゃないが、動かせるもんが必要なら力くらいは貸せる」
できることを、そのまま差し出す声だった。そういうところに、いつも不意を打たれる。
「ありがとう、ヴィル。気持ちに感謝するわ。実は、さっき奇妙な紋様を見つけてね。原典は相当古いものみたいなんだけど」
「どんなものだ?」
「それがね、お祖父さまがわざわざ書き込みを残したくらい、正体が掴めない代物なのよ。午後には戻られるから、そこで直接伺おうかなって思ってる」
「ふーん、なるほどな。そりゃ面白そうだ。何かわかったら教えてくれ」
「興味あるんだ?」
「言ってくれるな――」
彼がフォークを置き、少し前のめりになる。皿のあいだをゆるく流れていた昼の空気が、そこでほんのわずかに引き締まった。
「こう見えても、紋章ならそこそこ詳しいぞ。国やら貴族ごとにいろいろあるだろう。昔ユベルに『識別できるよう、由来も含めて暗記しておけ』って、リストを押しつけられたことがあってな……」
「そんなことがあったの?」
「まぁな。例によって、鬼教官さ。逃げ出すこともできん」
「あらあら……それはご愁傷さまでした」
笑い混じりのやり取りが途切れるたび、銀器の触れ合う音が小さく澄んだ。同じ卓を囲んでいる、そのことだけで肩の力が少しずつ抜けていく。
リディアが微笑み、次の皿の合図を送る。ハーブで軽くマリネした仔牛のローストが運ばれ、香ばしい匂いにヴィルが「おお」と目を見張った。
「これはまた贅沢な香りだな」
驚きと喜びが素直ににじむ。フォークとナイフを入れて口へ運ぶと、満ち足りた息が彼の喉から漏れた。
「……護衛騎士なんて柄じゃないが、こんな飯にありつけるなら、ここでの仕事も悪くないもんだ」
誇張のない言葉だった。取り繕いのない暮らしの手ざわりが、そのまま声に混じっている。わたしは微笑んで受け止めた。
「あなたがここにいてくれてよかったと思ってるわ。こうして誰かと一緒に穏やかに食卓を囲めるのが、わたしには嬉しい。それだけでも……」
ヴィルは無言で見つめ、静かな笑みで頷く。
「ならよかった……」
窓外では小鳥がさえずり、柔らかな風が抜けていた。肩肘張らず、自然体のまま卓を囲む。
紋様のことは頭のどこかに残っていたけれど、昼下がりの光は、それをひとまずそっと包み込んでいた。午後の典礼。お祖父さまの帰還。そのころには、もう少し何かが見えてくるかもしれない。皿の縁に触れた指先へ冬の光がうすく宿り、わたしはフォークを進めた――
――そのとき、奇妙な眩暈に襲われた。
「なっ……何――?」
視界の端で光が揺らいだ気がした。空気そのものが粘度を増し、見えない幕が音もなく降りたように、世界は一瞬で黒へ沈む。
つい先刻までの陽だまりも、風のささやきも、遠い声も遠のく。声を確かめようと唇を開いても、囁きは闇に吸われ、喉を縛る苦しさだけが残った。
遠く、深い井戸の底から呼ぶような声。リディアに似ているが、歪んでいる。応えたくても声が出ない。五感は鈍り、手足の所在すら曖昧になっていく。
「どうしたの? これは予知視の前兆? でも、違う……」
闇に微細な光粒が瞬き、さっき書物で見た歪な紋様が組み上がった。意志を帯びたように形を変え、脈打つ古代文字めいた印が浮かぶ。
読めない。なのに、音のない囁きが脳裏に刻みつけられる。
茉凛の声ではない。軽さも、温度も、いつもの呼吸もない。ただ古い石の割れ目から滲むような、乾いた響きだけが、頭蓋の内側を擦っていく。
《《……デ……ワ……ズ……ユ……ス……ジ……マ……ソ……ク……ュ……ノ……キ……タ……リ》》
耳鳴りのような調べが、わたしを底へ沈める。手足は闇に絡め取られ、視界は黒紫の裂け目に侵食されていく。地鳴りが始まり、大地が捩れ、虚無が滲む裂孔から不定形のものが湧いてくる。
息が浅くなる。舌の奥に、鉄とも土ともつかない苦みが滲んだ。考えようとするたび、思考の端がほどけていく。濃い魔素に呑まれ、形のない影が床も空も区別なく這い広がり、整っていたものの輪郭を啜っていった。
けれど、それだけではない。闇の奥に、ただ荒れ狂うだけでは済まない何かがいた。わたしの知らない、けれど骨の芯が怯えるほど濃い意志。何かひとつを、永く、深く、赦さずに見つめつづけてきたものの気配。
逃げたい、叫びたい――けれど声はない。骨の内側で風が唸り、底なしが誘う。黒紫の裂孔が世界を歪め、食らい尽くそうとする光景は、ただの悪夢を越えていた。
どれほど囚われていたのか。一瞬にも永遠にも感じる時間の中で、わたしは茫然と幻視に沈んでいた。
次の瞬間、視界が明るさを取り戻した。
「お嬢さま! お嬢さま、大丈夫ですか!」
目の前には、さきほどの食堂。リディアが驚きと心配を湛えて覗き込み、ヴィルは席を離れかけて手を伸ばしていた。床は静かで、窓外には冬のやわい光。さっきの闇は、たちまち掻き消えた幻のようだ。
「……ごめんなさい、少し眩暈がしたみたい」
震える声でどうにか返す。リディアは青ざめながら息をつき、ヴィルは眉をひそめつつも、ほっとした色を見せた。
「お嬢さま、お顔色が優れません。お水をお持ちいたしましょうか」
「無理をするな。少し横になった方がいい」
ふたりの声が、ゆっくりと現実の輪郭を戻してくる。わたしは深呼吸して、小さく微笑んだ。
「大丈夫よ……ほんの一瞬だけ、ただの目眩みたいなものだったから」
そう言っても、胸の奥では鼓動がまだ落ち着かない。リディアから受け取った水にそっと口をつけると、冷たさが喉を細く撫で、ようやく息がひとつ深くなった。
ヴィルはまだ眉をひそめたまま、すぐ動けるように半身を浮かせている。リディアも卓の脇で身を固くしていたが、わたしがもう一度小さく頷くと、張りつめていた空気がほんのわずかにゆるんだ。
窓の外には冬のやわい光。白い花を挿した小瓶も、切り分けかけた仔牛の皿も、さっきのままそこにある。崩れかけた現実が、少しずつ元の輪郭を取り戻していく。
さっきの紋様と闇は何だったのか。あの図形にまつわる何かが、内側を揺らしたのだろうか。答えはまだ見えない。それでも、いまはこの卓に戻るしかないのだと、指先へ静かに言い聞かせる。
わたしは息を整えてから、銀のフォークへそっと手を伸ばした。




