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歪なる紋様と剣の舞踏

 廊下へ一歩踏み出すと、磨かれた床板がかすかに光を返し、足音はすぐ淡い静けさへ溶けた。リディアはわたしの後ろを、ヴィルは少し前を歩く。澄んだ朝の光が、淡い大理石の柱や織物の壁掛けをやわらかく照らしていた。


 まだ廊下にはわずかな冷えが残っている。それでも、この地方の冬は陽射しが軽い。日向へ出れば、薄手のショールひとつでテラスに座れることも珍しくなかった。


 お祖父さまの書斎へ向かう。長年かけて集められた書や拓本が整然と収まり、扉を開けた途端、薄い柑橘と乾いた木の匂いが混じって鼻先をくすぐった。大窓の向こうでは中庭の緑が透け、風に揺れるハーブの鉢が視界の端を横切っていく。


「ここにございます。先日所望されていた紋章の拓本、机の上に整えておきました」


 リディアの示した先に、厚手の紙が几帳面に重ねられている。擦り写された紋章は、どれもただ美しいだけではなかった。王家と諸侯の歴史、血脈の証、家ごとの思惑まで、墨の線の奥に静かに沈んでいる気がして、わたしは昔からこういうものに惹かれてしまう。


 本を両腕に抱えたまま、リディアに扉を開けてもらい、テラスへ出る。純白のレースを透かす扉を抜ければ、朝露を拭われた小ぶりの卓と籐椅子が待っていた。庭園を見渡す席へ腰を下ろし、頁を開く。斜めに差し込む光が、墨の紋様に細い陰影を落としていた。


 ふと顔を上げると、庭の一角でヴィルが訓練用の重量刀を振っていた。


 刃が空気を裂くたび、細い音が庭の底を走る。間には噴水の水音、小鳥のさざめき。朝の光のなかで、その一振りだけが妙に重く見えた。


「ヴィルったら、昨夜も夜中まで警護してたろうに、疲れは残ってないのかしら……」


 独り言めいた呟きに、傍らのリディアは何も言わず、銀のポットから温かな茶を注いでくれた。ミントに、ごく薄いジャスミンが混じる。香りを吸い込むと、肩の奥のこわばりがゆるやかにほどけていった。


 わたしの理想の剣は、父の剣だ。曲線を描く流麗さ、光をまとった静けさ。見入れば、息をするのも忘れそうになるような美しさ。


 けれど、ヴィルの剣はまるで違う。直線的で、荒削りで、重い。叩き割るための力が、そのまま形になっているみたいだった。


 頁を押さえていた指先が、そこで止まる。


 一度目を伏せて、拓本へ意識を戻す。二行ほど追ったところで、また庭へ視線が上がっていた。踏み込みに合わせて肩が沈み、次の瞬間には刃が抜ける。重いはずの刀が、彼の手のなかでは妙に迷いがない。


 持っていたカップを、そっと卓へ戻した。


「……やっぱり――」


 何が、と続ける前に声はほどけた。茶をひと口ふくみ、もう一度だけ頁へ目を落とす。けれど墨の線は形ばかりを残して、意味が頭へ入ってこない。庭で刃音がひとつ鳴るたび、意識がそちらへ引かれた。


「お嬢さま?」


 背後からリディアの声がして、はっと我に返る。


「あ、ごめんなさい。ちょっと、考え事をしていて……」


 リディアは視線の先を追わなかった。ただ空になりかけたカップを見て、静かに言った。


「もう少しお足ししましょうか?」


「ええ、お願いします……」


 注がれる香りのあいだに、また庭を見てしまう。陽を弾いた汗が一瞬だけひかり、次の振りで消えた。


――だめだめ。式典の前だというのに。まずはお勉強の時間よ。


 小さく息を吐き、ようやく頁へ向き直る。王家の紋、滅んだ家門、遠国の使節の印。獣や鳥を象ったもの、幾何を組んだもの、草花を抽象化したもの。精緻な拓本を追っていた指が、ある一枚で止まった。


 ほかに類のない、奇妙な図形だった。


 輪郭の定まらない曲線。意味の見えない幾何。整っているはずなのに、どこか噛み合っていない。由緒ある紋章というより、何かを隠した暗号か、未完成の呪印を見ているような、不穏な美しさがある。


 下の余白には手書きの注記があった。印刷ではない。紙の黄ばみと、ところどころ薄れた墨のかすれ。お祖父さまの筆跡だ。


 カップを置き、指先でそっとかすれを追う。墨の残りが、ゆっくりと言葉を浮かべていく。


「此れ、正当なる紋章に非ず、故に『不具』と呼ぶべし――伝聞によれば、遥か昔の古代王朝が最期に遺した失われた名を図案に紛れ込ませしもの。意味、未詳。ただ時折り噂に上るのみ。かつて栄えし『クロセスバーナ』関連の蒐集品に同一紋様ありと聞くが……何ら手掛かり得られず」


 ――クロセスバーナ。


 昨日、カテリーナの資料にもあった名だ。西方で今また囁かれているその名が、古記録のなかでは失われた王朝の名として残っている。その一致だけで、胸の奥がひやりとした。


 大図書館で拾った古い伝承では、千年以上前、かの国の策謀によってリーディスは滅亡の縁へ追い込まれ、王族の多くが斃れ、ただ一人の王女だけが包囲を抜けたとされている。


 紙の端を押さえる指先が、知らないうちに強張っていた。


 その後、王女は異様な「乗り物」を操る男とともに各地を流れ、力を集めながらクロセスバーナへ挑んだと語られる。史実と断じるには曖昧すぎる。けれど、いまなお西方でその名が浮かび上がるのなら、お祖父さまやローベルト将軍が気に留めないはずがなかった。


 もう一度、紙の上の図形を見る。正統の紋章のように意味が収まらない。どこか壊れたまま、それでも何かを指し示しているような歪み。


 その瞬間、へその下にある不思議な痣が、ふいに頭をよぎった。似ている、と言葉になるより先に、呼吸が止まる。


 頁の上の紋様と、自分の肌に刻まれたもの。繋がりがあるなど、まだ何ひとつ断言できない。けれど、一度そう思ってしまうと、ただの偶然として見過ごせなかった。


 椅子の背に寄りかかり、本をわずかに傾ける。庭ではヴィルの剣が、相変わらず確かな軌道を描いている。対して、紙の上の線は渦のように絡まり、どこにも収まらない。秩序と混沌。記された名と、まだ読めない意図。そのあわいに、いま自分の知りたいものが潜んでいる気がした。


「お嬢さま……何か、気にかかることでも?」


 リディアが控えめに問う。カップの減り具合を見ながらも、こちらの顔色はきちんと拾っている。


「少し妙な紋様を見つけたの。この国に見られる紋章とは、なんか違う気がして……西方に繋がるのかもしれないって思って。お祖父さまでも読めなかったって書いてあるし――それが、どうしても気になってしまって」


 リディアは目を細め、静かに頷いた。


「西方に繋がるものでしたら、お嬢さまにとって必要な糸口かもしれません。後ほど、保管庫に類例がないかお調べいたしましょうか?」


「はい。できればお願いします」


 やさしい申し出に、指先に入っていた力が少しだけゆるむ。


 いまは、まだ形にならない。けれど、この奇妙な紋様は旅路のどこかでもう一度浮かび上がる。そんな予感だけが、はっきり残った。


 お祖父さまに訊けたら、いちばん早いのに。けれど最近は魔導兵団の用向きで忙しく、今朝も早くから出ておられると聞いている。


「……お祖父さまなら、何か手がかりをお持ちかもしれない」


 独りごちると、リディアが穏やかに頷いた。


「きっとそうでございましょう。お戻りの折に、お尋ねになってはいかがでしょう」


「そうですね。午後には紋章の典礼もありますし、離宮へはお戻りになるはず。直接伺えれば、何か掴めるかもしれません」


 それでも、指先は頁から離れなかった。奇妙な紋様と、お祖父さまの走り書き。並ぶ言葉は、西方の噂や、紋章になりきらない何かの痕跡と、どこかで繋がっているように見える。


 茉凜が応じてくれれば、マウザーグレイルで照合もできるのに。けれど、今はまだ沈黙したままだ。


 背後の廊下では、侍女たちが午後の典礼へ向け、緞帳や装飾を整える足音を立てている。離宮はまだ静かだが、儀式の刻は少しずつ近づいていた。それでも心の半分は、なお紙の上の歪な線に囚われたままだった。


 なぜ「不具」と呼ぶべき未完成の図が遺されたのか。なぜお祖父さまはこれにだけ手書きの注を添えたのか。あの方は何にでも言葉を残す人ではない。だからこそ、ここにだけ残された墨のかすれが気にかかる。


 ふと庭へ目をやる。ヴィルは刀を収め、庭の端で侍女と何事か短く言葉を交わしていた。変わらぬ動きの確かさが、妙に胸を落ち着かせる。


「あの紋様、いったい何を示しているのかしら……」


 そのとき、鳥がひとつ舞い上がり、青の下で小さな翼をひるがえした。遠くへ誘うようにも、ここへ留まれと言うようにも見える。


 この離宮を発つ前に、解くべきものがある。母の行方に繋がるのか、クロセスバーナの影へ触れるのか、それはまだわからない。けれど、あの紋様の意味がほどけたとき、次の一歩の形も見えてくる気がした。


 カップを手に取り、まだ温もりの残る茶を啜る。仄かな甘みが舌の上でほどけ、ようやく息が整った。お祖父さまが戻られ、典礼が終わる頃には、いま見えている景色も少しは違っているかもしれない。


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