微睡む離宮と、消せない線を辿って
カテリーナが杯を揺らし、琥珀の光を溶かすような微笑を浮かべ、軽く顎を引いてわたしへ視線を送る。口元がやわらかくほどけた。
「ところでミツル、離宮での暮らしはどうなんだい? 息が詰まるようなことになってないかい?」
その問いに、杯の脚を支えていた手が、ほんの少しだけ強張った。白い器の冷たさが、指の腹へ薄く移る。
「それがね、なんの気兼ねもないし、とってもよくしてもらえるし、まるで夢の国のお姫様になったみたいで、わたしなんかが居てもいいのかな、って」
素直に言葉を返すと、カテリーナの目がまるくなる。丸い眼鏡の奥で、灯りがひとつ揺れた。
「あら、そいつは意外。ああいうところって、見た目は華やかでも、礼儀作法から細かい決まり事まで山ほどあって、息苦しいもんだと思ってたんだけどね。荘厳な建物も優雅な庭園も、美しさの裏で絹布で口を塞がれるような気分にさせられる……そんなことはないのかい?」
想像はもっともだった。王侯貴族の世界は、礼節と沈黙で磨かれた絵画のような均整を求める。必要以上の言葉は慎まれ、振る舞いは常に「ふさわしさ」を測られる。静かで優雅で――ときに、とても孤独。最初はわたしも、白い廊下の端で息を小さくしていた。
「わたしも、最初はそう思ったわ。でも、実はそうでもなかったの」
「ほう?」
カテリーナは肘を卓へ預けたまま、興味深そうに首を傾げる。紙とインクの匂いの奥で、酒精の甘い香りがかすかにほどけた。
「今の根城……じゃなくて離宮は、グレイハワード先王陛下の緩やかさが反映されているのか、それともわたしへの配慮なのかはわからないけれど、無理強いなんて少しもないし、とても自由で、居心地のいい空気に満たされている。そんな感じがするの」
言いながら、自分の声がやわらいでいくのが分かった。離宮の白い廊下。磨かれた窓辺。そこから入ってくる海風の匂い。思い出すだけで、舌の奥に澄んだ水を含んだような静けさが戻ってくる。
「へー……」
カテリーナが驚きを隠せずにいるところへ、ヴィルが割って入る。
「人形みたいに飾られて、彫像めいた微笑だけを浮かべて過ごすなんて殊勝な真似が、こいつにできると思うか?」
その一言には軽いからかいが混じるが、刺はない。無骨な彼が相手をよく見ているのを、わたしもカテリーナも知っている。声の底にある確かさだけが、木の卓へ低く落ちた。
「ひどいわ。ヴィルったら、そんな嫌みな言い方して。最低限の礼儀作法はきちんと守ってるけど、わたしはあくまでわたしらしく振る舞っているだけよ」
肩をすくめてみせると、カテリーナの肩先が小さく揺れた。笑いを堪えているのが見えて、つい唇を尖らせたくなる。
ヴィルはひょうひょうと椅子にもたれ、わずかに視線を逸らす。長い指が杯の縁を外し、卓の上へ無造作に置き直された。
そして、視線を外したまま続ける。
「俺から見て、こいつはまったく不思議なやつさ。気品だの礼儀だの、そういうのを後から必死で覚えた感じがしない。最初から身についてるみたいに見える」
――違うよ。わたしはただ……演じることに慣れているだけ。
そんなこと、ヴィルが知るはずもない。前世で身についた所作も、その場に合わせて自分を繕う癖も、ぜんぶ後から貼りついたものだ。杯の底で揺れる琥珀が、ほんの一瞬だけ暗く見えた。
カテリーナがふっと笑みを深め、こちらを見る。目元にだけ、からかいよりやわらかな色が差した。
「つまり、離宮じゃあんたは、ありのままでいられるってわけだ。わざわざ仮面をかぶる必要もない。――そりゃあ何よりだね」
頷くと、ランプの熱を含んだ空気が、頬をやわらかく撫でた。言葉の温度が、少し遅れて届く。
「気楽でいられるのは、ひとえに先王陛下のおかげよ。わたしを歪めようとする無理強いなんて何ひとつない。皆が自然に受け入れてくれる……ほんとうにありがたいことだと思うの」
杯の琥珀が、ランプの光を受けてきらめく。カテリーナは一口含み、小さく笑った。
「そういう特別な場所を用意してくれるなんて、さすがは『趣味王』グレイハワードってとこかね」
わたしは息をひとつ吐く。
趣味王――それは民衆が親愛と敬愛を込めて呼んだ名であって、決して揶揄ではない。その治世は、自由闊達な風をリーディスへ運んだという。
お祖父様――グレイハワード先王は、規律に縛られず、「面白い」に真っ直ぐな方。魔術の適性こそ高くなかったが、知識と人柄で魔術大学の講壇に立った前例破りの人だ。エレダンで出会った魔術師フィル・ラマディも、その教え子のひとりだった。
そんな先王の気風が、離宮にはいまも残っている。高い天井の下を通る風や、侍女たちの足音の間合いに、ふとそれを感じることがある。そこは王権の「展示場」というより、心をほどく「隠れ家」に近かった。
「それに、あそこはわたしの母さま――メイレア王女が育った場所でもあるし。だからかな……とても胸があたたかくなるの。どんなふうに日々を過ごして、どんなことを思っていたのか、ついいろいろ想像してしまって……」
そう口にすると、杯の琥珀がゆっくり揺れて、灯りをひと筋だけ崩した。離宮の静けさの中へ、まだ見たことのない母の笑い声が、ほんの一瞬だけ差したようだった。
離宮は、母を隠した寂しい鳥籠でもあった。黒髪ゆえに遠ざけられた母。その侍女として仕えていたリディアは、わたしを一目で娘と察したのだろうに、何も言わず優しく接し、幼い母さまの天真爛漫な悪戯話をそっと教えてくれた。
リディアが語ってくれた声は、いまも白い廊下のどこかに残っている気がする。侍女たちの微笑みの奥に、わたしではない誰かの面影が揺れることもあった。けれどそれは、わたしを遠ざけるものではなかった。
「そうかい。そいつはよかった……」
カテリーナは、わたしが安らげる理由を静かに受け止める。杯の底で光がわずかに揺れ、その反射が眼鏡の縁を短く撫でた。
部屋にはランプの光と酒のほの甘い匂い。積み重ねた書物や器具が部屋の輪郭を押し広げ、離宮とは反対向きの、生々しい自由が息づいている。
やがて、彼女が口を開いた。
「それで、あんたはいつまで離宮でお姫様ごっこを続けるつもりなんだい?」
杯の脚を指先でそっと回す。琥珀の揺れが、灯りの下で小さくほどけた。離宮のぬくもりは甘い。お祖父様のやわらかさも、侍女たちの気づかいも、母が幼い日々を過ごした場所だという事実も、わたしの心をほどいてくれる。
けれど、そこへ根を下ろしたままではいられないことも、もう分かっていた。
「それについては、ヴィルとはもう話したの――」
隣を向くと、魔導ランプの灯りが彼の横顔にやわらかく触れた。短い頷きが、言葉より先にわたしの背を支えた。
「まだ少し先にはなるだろうけど、離宮を出て旅に出るつもりよ」
カテリーナは杯を傾けたまま、唇の端だけを上げる。探るような目が、わたしの顔にしばらく留まった。
「それで、宛てはあるのかい?」
杯の縁をなぞる指が、一度だけ止まる。
「まさかとは思うが、あんた、いきなり海の向こうへでも飛ぶつもりじゃないだろうね」
その問いに、わたしは静かに首を振った。
「いいえ。さすがにそこまで短絡じゃないわ。まず、王都で調べられるだけ調べるつもりでいるわ。魔術大学の大図書館には、まだ触れていない記録がいくらでもあるしね。それに、港には海の向こうの噂まで流れ着くでしょう。離宮にいる今のうちに、残っている線を、できるだけ洗い出したい」
ヴィルが隣で黙って頷く。その無言の肯定に、少しだけ呼吸がしやすくなる。
「それに、手がかりの探し方も、前より少しだけ見えてきたの。禁書庫で見つけた黒いプレートにマウザーグレイルを触れさせた時、中に畳まれていた記録が引き出せた。それだけじゃない。二振りの聖剣が打ち合わせた時もそう……。聖剣同士の共鳴でたくさんの情報が流れ込んできた。そうだったわよね、ヴィル?」
ヴィルは杯を卓へ戻し、琥珀の底で灯りがひとつ静かに割れた。
「ミツルの言う通りだ。俺も身をもって体験した。メービス伝説の真実の一端ってやつをな」
低い声が木の卓へ落ちたあと、部屋の紙と酒の匂いだけが短い間を埋めた。窓の隙間から細い夜風が入り、ランプの火がごく小さく揺れる。
「であるなら、古い遺跡や遺物そのものにマウザーグレイルを近づけて、共鳴を試していけばいいと思うの。母さまの転移現象に繋がる手がかりや、マウザーグレイルそのものの由来に触れる断片が、どこかに残っているかもしれない」
「なるほどねぇ」
カテリーナはまだ笑っていたが、その目はもう完全に遊んではいなかった。卓に落ちた影は揺れているのに、視線の奥だけは鋭く沈んでいる。
「だから、まずはリーディス国内。それから中央大陸を周るつもりよ。ヴィルが地勢も街道も知っているから、その利を使わない手はないもの」
そこで初めて、ヴィルが口を挟んだ。
「そうだな。今いる大陸を洗わずに、いきなり海を越える理由は薄い。拾える線は先に拾い切るべきだ」
短いひと言だった。けれど、それで十分だった。机上に置かれた何もない空間が、急に地図の重さを待つ場所へ変わっていく。
わたしは杯の縁へ指を添えたまま、小さく息を継ぐ。
「そのうえで、それでも線が海の向こうへ伸びるなら――その時はじめて、西方大陸を本気で考えるつもり」
「なんでまた西方なんだい?」
「わたしが調べた限りでは、あっちには古い文明の痕跡が、この大陸より多く残っているらしいの。旅行記や断片的な記録ばかりで、どこまで本当かはまだ分からないけれど……少なくとも、まったく根拠のない憧れってわけじゃないわ」
カテリーナはしばらく何も言わなかった。杯の中の琥珀をゆらし、斜めにこちらを見ている。その沈黙は値踏みのようでもあり、どこか満足げでもある。
やがて、唇の端だけを上げた。
「なるほどねぇ。やっと筋が通った」
「やっとって、ひどいわね」
「だってそうだろう? いま手の届くところに火種が転がってるっていうのに、いきなり海の向こうへ飛ぶなんて、あたしに言わせりゃ順番が逆さまだよ」
カテリーナは椅子を離れると、仕事机のほうへ向かった。飄々とした空気はそのままなのに、指先の動きだけが少し速い。書物と巻物の山を器用にかき分け、いくつかの包みを引き出してくる。
「そう思ってさ、あたしなりにちょっと調べておいたものがあるんだよ」
机の上へ置かれたのは、一つではなかった。
大判の地図が二枚。厚いファイルが二冊。布包みをほどくたび、紙のかさりという乾いた音と、古いインクの匂いが立ちのぼる。
カテリーナはまず、手前の一枚を広げた。
それは西方大陸ではなく、中央大陸の西部方面を細かく描いた地図だった。幾重にも連なる山並み。古い街道。西へ伸びる川筋。西部戦線の傷痕を、いまだ地形の皺みたいに残す地域。王都からそこへ至る道筋までが、細い筆致でびっしりと刻まれている。
「こっちが本命さ。中央大陸側の線。西部方面の古い記録。王都の軍司令部筋から漏れてきた噂。港に出入りした人と船の流れ。メイレアが出奔した後を辿れそうな断片も、少しは混じってる」
そう言って、今度は隣の厚いファイルを軽く叩く。
「これも同じ。玉石混淆だけどね。まともな記録もあれば、酔っ払いの与太話みたいな噂もある。それでも、何もないよりはましだろう?」
ヴィルが身を乗り出し、地図の上へ目を落とした。彼はこういう時、文字より先に距離と高低差を見る。どこが街道で、どこが隘路で、どこなら少人数で抜けられるか。たぶん、もう頭の中で測り始めている。
「で、こっちは予備」
カテリーナが、二枚目の大判地図へ指をかける。こちらは海の向こう、異国の海岸線を描いたものだった。西方大陸の沿岸部。港町の名。交易路。内陸へ向かう街道の断片。中央大陸とは違う風土を示す記号が、紙の上に散らばっている。
「いきなりこっちへ飛べって意味じゃないよ。ただ、中央大陸側を洗い切った先で、線がほんとうに海へ伸びた時、いちいちゼロから調べ直してたら遅いだろう? だから先に集めておいただけさ」
中央大陸の西部地図の端と、海の向こうの沿岸図。その二枚の紙のあいだに、細い余白が残っている。
西方大陸は、いま飛びつく答えではない。けれど、ただの夢物語でもなかった。紙の上で途切れた線が、いつか本当に海へ伸びるなら、その先を見ないふりはできない。
「主要国の概略に、港ごとの取引品目、古い航路、異民族との接触記録、おまけに文化メモまでついてる。まあ要するに寄せ集めだよ。嘘か真かわからない噂も、たっぷり混ざってる」
カテリーナは肩をすくめた。
「ま、線がほんとうに海の向こうへ伸びた時にゃ、役に立つだろう」
「……ありがとう。ほんとうに」
「礼はいいよ。情報屋の性分でね、勝手に嗅ぎ回っただけさ」
カテリーナは肩をすくめたが、杯の縁を弾く爪の先だけが、かすかに忙しなかった。
わたしは中央大陸の西部地図と、西方大陸の沿岸図を見比べた。片方は、父と母の真実がまだ沈んでいる土地。もう片方は、その先に線が伸びていた場合のための、まだ見ぬ地平。紙の端を押さえる指に、乾いたざらつきが移っていく。
「……うん。これなら、ちゃんと辿れそう」
呟くと、カテリーナがにやりと笑う。
「だろう? 旅ってのはね、行きたい場所から決めるんじゃなくて、消せない線から辿るのがいちばん早いのさ」
その言葉は、軽く言ったわりに長く残った。
いまのわたしに必要なのは、どこか遠い異国への憧れだけではない。この大陸に残された父と母の足跡を、ひとつずつ拾い直すこと。その先に海があるなら、渡ればいい。
カテリーナは地図の端を指で押さえ、そのまま西方の沿岸部へ視線を滑らせた。
「その予備の中でも、ひとつだけ、最近やけにきな臭いところがあってね。ここさ。クロセスバーナ」
「クロセスバーナ……」
「近頃、大きな魔獣の巣窟がいくつも現れてるって話でね。そのせいで国は妙に景気づいてる。けど、住んでる人間にとっちゃ、ちっともめでたくない」
「いまのリーディスみたいに、ってこと?」
問い返すと、カテリーナが一瞬だけ表情を曇らせる。その影が、単純でないことを告げた。
「……そんな生易しいもんじゃないよ。国にとっちゃ『恵み』でも、そこに暮らす連中にとっちゃ命を脅かす厄介もんさ。普通は保障や支援で救いもあるだろうけど、あそこは産業と軍備に全部回して、民衆にはほとんど落とさない。だから逃げ出す者が後を絶たないってわけ」
部屋の空気が、わずかに重くなる。杯の底の琥珀が、ランプの灯を鈍く返した。
「王都にも最近、海を渡ってきた者が増えてるだろう? 見慣れない衣を着た人間も、街じゃそう珍しくなくなってきた」
昼の広場で見た異国の舞踏団の姿が、ふと脳裏に浮かんだ。青い布。撥弦の音。軽い足取り。あの鮮やかな布の揺れの奥にも、逃げてきた理由があるのかもしれない。そう思うと、舌の奥にわずかな渋みが残った。
「ひどい……それって、圧政そのものじゃない」
吐いた言葉に、カテリーナは黙って頷いた。
「まあ、それで西方はずいぶんきな臭くなってるらしい。周辺の国にまで野心を伸ばしてるって噂もある。いまのあんたが、いきなり飛び込んでいい場所じゃないよ」
続けて、ヴィルが低く洩らす。
「俺もローベルトから似たような話を聞いた。どうやら魔石を応用して、人の道を踏み外したような研究を進めているらしい。どんなものかまでは、はっきりしないがな」
低い声が、紙と酒の匂いの混じる部屋を静かに張りつめさせた。
魔獣の核から採取される魔石は、魔術の動力源として重宝される。
命の灯火。そう呼ばれるものが、本当にこの世界の命なのか、それとも別の世界の澱なのかは分からない。けれど、魔石を用いる術の奥には、いつだって何かの命が灯っている。
憶測は危険だとわかっていても、勝手に推論が走る。悪い癖だ。
それでも、みぞおちのあたりに生まれた冷えは、どうしても消えなかった。
「他の大陸の話とはいえ、リーディスも無視できない脅威だと見ているらしい」
ヴィルの声に、杯の底の琥珀がかすかに揺れた。
「まさかとは思うけど……」
「どうした。何か引っかかるのか」
問いかけに首を振る。根拠のない思いつきだ。けれど、喉の奥に貼りついた言葉が、どうしても剥がれない。
「ううん、ただの思いつきよ。でも……クロセスバーナが目論んでるのって、もしかしたら、人と魔石を術式とは別の形で繋げること……融合させることなんじゃないかって」
言ってしまってから、自分でぞっとする。ランプの灯がカテリーナの眼鏡に鈍く映り、その奥の目がわずかに細まった。
「人と魔石を融合、ね。……人間そのものを生きた魔術の触媒にするってわけか。考えただけで寒気がする話だ」
「だが、用心するに越したことはない」
ヴィルの低い呟きに、現実的な警戒が宿る。幻想に踊らない彼が眉を寄せるなら、それだけで十分に危うかった。
「そうだね。西方に行くつもりなら、そんな歪みに遭遇する可能性も考えておくことだ」
カテリーナは杯を静かに卓へ置き、ゆるりと立ち上がった。
「ま、それは先の話さ。西方はいまの時点じゃ『次の候補』止まり。中央大陸側を洗い切る前に、あっちを本命にしちゃいけない。まずは足元からだ」
その線引きが、かえってありがたかった。
遠くへ行くためではなく、順番を間違えないための地図。海を越える夢を煽るためではなく、まだここに残っている火種を見落とさないための資料。
目の前の地図の重さが、ようやく手に馴染んだ。紙の端を押さえると、乾いた繊維が指の腹へわずかに引っかかる。
立ち上がり、荷の紐を引き直す。ヴィルが先に扉へ向かった。わたしはその背中を追いかけて――ふと、振り返る。
「あ、そうだ。カテリーナ」
「なんだい?」
「今日、王都を歩いていて気づいたんだけど、『吹いてくる風』が変わっていた。あなたのおかげよ。感謝してる」
「ふっ、なんのことやらだが……」
カテリーナはわざとらしくとぼけてみせる。けれど、眼鏡の奥の視線だけが、ほんのわずかに横へ逃げた。
「あたしは所詮、ただの情報屋さ。仕事ついでに、それとなく街の連中に話を振ったことはあるかもしれないが……ま、その程度のことさ」
ランプの熱でゆるんだ蝋の匂いが、ふっと鼻先をかすめた。その何でもなさそうな言い方の奥に、目立たない場所を駆け回った気配だけが、かすかに残る。
「いいかい。あんたは、自分自身の積み重ねてきた行いを誇るべきだ。あたしから言えるのはそれだけだ」
きっと目立たぬところで街を駆け、わたしのために噂を編んでくれたのに。カテリーナは自分の働きを数え上げない。むしろ、それを受け取るわたしのほうへ言葉を返してくる。
言葉が重くなる前に、わたしは小さく息を吐いた。
「そう……ならいいけど」
小さく笑って、扉へ向き直る。
「じゃあ、また。旅立つ前にもう一度、情報をもらいに来るかもしれない。そのときはよろしくね」
「了解了解。そのときはお茶とお菓子くらいは出してやるよ。あんたの好みそうな甘ったるいのをね」
軽薄そうな言いぶりに、唇の端へ優しさが滲んでいた。
扉を開けると、静かな夜が迎えた。石畳を撫でる風が頬にひんやりと心地よく、遠くで虫の声がかすかに重なっている。
ヴィルが鼻を鳴らし、顔を向ける。無言の「急げ」。わたしは小さく頷き、カテリーナへ最後の視線を送った。
室内の灯りが彼女の影をやわらかく浮かべる。手がひらりと揺れた。別れの言葉はない――それが自然だ。いつでも戻れるし、また会えると知っているから。
扉が静かに閉じ、細い路地へ踏み出す。窓越しの光は、離れてもしばらく背中を照らした。明日も明後日も、あの灯りは変わらず小さな宇宙を守るだろう。
噂も、信用も、人々の視線も、まだ絡まり合ったままだ。けれど、夜の石畳を歩く足は、さっきより迷わなかった。
迷っても、わたしのままでいい。
そう思えたのは、隣に並ぶ足音が、同じ速さで進んでいたからかもしれない。
家影が遠のく頃、ヴィルがぽつりと言う。
「ほら、さっさと帰るぞ」
「ええ。……ヴィル」
「なんだ」
「今日は、付き合ってくれてありがとう」
短く言うと、彼は前を向いたまま肩をすくめた。
「礼を言うようなことはしてない」
「してるわよ。ずっと……いつも……」
言葉の終わりに、夜気がそっと入り込む。耳の縁だけが、ひどくあつかった。
答えを待つつもりはなかった。言えただけで、吐く息が少し楽になった。
「なにぼーっとしているんだ。明日は大事な行事があるんだろ?」
「ええ、そうね。帰って準備しなきゃ」
答える声が、自分でも少し軽く聞こえた。
小さな別れのあとで、夜の空気が、さっきより深く吸えるようになっていた。
石畳に落ちるふたりぶんの影が、夜の灯のなかで静かに並んで伸びていた。




