しめっぽい顔でおかえりなんて
「カ、カテリーナ……無事だったのね?」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。返事のない家の静けさをくぐってきたせいで、目の前にいる本人の輪郭さえ、まだどこか現実味を持たない。
カテリーナは書物の塔のあいだからわたしたちを見て、片眉だけをわずかに持ち上げた。驚かされたのはこちらだと言わんばかりの、余裕のある顔。灯りの下で細い眼鏡が鈍く光り、その奥の瞳には、状況を愉しんでいる時のあの薄い艶が浮いていた。
足元へ目を落とす。彼女がいつも膝をついて本を読むときに使うクッションが、床へ斜めに転がっている。その傍らには、閉じかけの本、巻き癖のついたスクロール、走り書きだらけの紙束。誰かに荒らされたというより、ひとりで熱中していた最中に、わざと場を崩したみたいな散らかり方だった。
その横で、ヴィルはまだ銘無しの聖剣を半ば抜いたまま立っている。
鋭い刃の白が、魔導ランプの灯を細く返した。戦いの気配を引きずった横顔が、ようやく人の顔に戻りきらずに険しさを残している。
「おい、カテリーナ……てっきり何者かにやられたのかと思ったぞ」
低く落ちた声に、カテリーナは肩を揺らしそうになって、どうにか堪えた顔をした。指先でヴィルを示し、唇の端をゆっくり吊り上げる。
「思った? いまあんた、本当にそう思ったでしょ? あっはっはっ!」
からかいの調子なのに、その視線は一瞬だけ鋭かった。こちらがどんな顔で踏み込んできたのか。誰が先に剣へ手をかけたのか。誰が、どの位置に立ったのか。そういう細部まで、見逃していない目だった。
ヴィルは答えない。ただ剣先をわずかに下げ、眉間の皺をいっそう深くする。怒鳴るでも、呆れるでもない。その沈黙だけで十分に文句を言っている顔だった。
その視線を受け止めながらも、カテリーナは少しも怯まない。むしろ、久しぶりに手応えのある相手を見つけたみたいに、口元の笑みだけを深くした。
わたしは二人のあいだへ視線を行き来させたまま、呼吸の置きどころを探していた。さっきまで首筋へ張りついていた不穏は、たしかに形を変えている。けれど消えたわけではない。静まり返っていた家の中に、いまは別種の張りつめた糸が渡されている。
おそるおそる室内を見回す。天井近くの棚に据えつけられた魔導ランプは、いつも通りの色で部屋を照らしていた。紙埃の浮く光の帯。背表紙の色が濃く沈む書棚。積み上がった資料の山。そしてその奥、書物の迷路から切り離されたみたいに整っているキッチンが、いつもの無言さでそこにある。
荒らされた痕跡はない。血の匂いも、争った気配も、ない。
けれど、だからこそ余計に妙だった。鍵の開いた扉。返事のない家。気配を殺したまま待っていたらしいカテリーナ。その全部が、ただの気まぐれで片づくには少しだけ出来すぎている。
「カテリーナ、一体どうしたっていうの? 鍵もかかっていなかったし、まさかあなたがこんな風に待ち構えているなんて、思いもしなかったわ……」
問うと、彼女は髪の一房を指へ絡め、わざとらしくくるりと揺らした。仕草は優雅で、返ってくる笑みは軽い。けれど、その軽さが本音をそのまま差し出していないことも、なんとなく分かってしまう。
「決まってるじゃない。しめっぽい顔で『おかえり』なんて、あたしの趣味じゃない。ずいぶんご無沙汰だったから、ちょっとした驚きを仕込んでみたのさ」
ようやく肩の力が抜ける。けれど、抜けたぶんだけ、掌に残った汗の冷たさが急に分かった。
彼女は無事だった。
少なくとも、今ここに立って、いつものように意地の悪い笑みを浮かべている。
それだけで十分なはずなのに、わたしの中ではまだ何かが小さく引っかかっていた。
ヴィルがゆっくりと聖剣を鞘へ戻す。金属が収まる音が、乾いた一筋になって部屋の奥へ消えた。
「お前な……少しくらいは状況を読め。こっちはてっきり、王宮側に目をつけられたのかと肝を冷やしたんだぞ」
「ふふっ、そんなにあたしの身を案じてくれるなんて、ヴィルってば優しいわねぇ」
カテリーナはするりと言う。けれど、その言葉に甘える気配はない。餌を投げて反応を見るみたいに、声の端だけで彼をつついている。
ヴィルは露骨に顔をしかめた。
「そういうことを言ってるんじゃない」
「じゃあどういうこと? あたしは無事で、あんたはこうして文句を言えてる。それで十分じゃないか」
「あのな……十分かどうかを決めるのはお前じゃない。開けっ放しの扉に返事もなし。あれで何もないと思えってほうが無茶だろうが」
言い返された瞬間、カテリーナの睫毛がほんのわずかに揺れた。笑みは崩さない。けれど、彼の言葉のうちどこか一箇所だけが、ちゃんと届いた顔だった。
それでも彼女はすぐに肩をすくめる。肩先へ落ちた灯りが、丸い眼鏡の縁でひやりと跳ねた。
「あんたって昔からそういうところ、変わらないよねぇ。律儀っていうか、融通が利かないっていうか」
――昔からか……だよね。
その何気ない言葉だけで、二人のあいだにわたしの知らない時間が立ちのぼる。軽口は軽口のままなのに、その下へ、いくつもの夜や沈黙が薄く折り重なっているのが見えた。
父がまだここにいた頃。ヴィルがその背を追っていた頃。カテリーナもまた、同じ火のそばにいたのだろう。
けれど、あの三人のうち、誰ひとりとして当時の場所には残っていない。
その不在の形だけが、いまもこうして言葉の下へ沈んでいる。
わたしは無意識に、マウザーグレイルの柄をなぞった。硬い感触が、今ここにいる自分の輪郭だけをどうにか繋ぎとめる。
「もうっ、カテリーナったら……本当に、何か大変なことに巻き込まれたんじゃないかって心配したんだよ」
声にすると、自分で思っていたより責める響きになった。カテリーナは一瞬だけこちらを見て、それから笑みを少し和らげる。
「そいつはすまなかった。でも、こういう再会の仕方も、悪くはないだろ?」
軽い。けれど、その目の奥では別の計算がまだ消えていない。わたしはそこまで読み切れなくて、吐き出した息を細く整えるしかなかった。
冗談のように笑いながら、カテリーナの目はまだ部屋の端まで見ていた。こちらの息。ヴィルの剣。開いたままの扉。そのどれも、見なかったことにはしてくれない。
それでも、さっきの一言だけは、耳の奥にまだ残っていた。
湿っぽくしたくないのだろう。たぶん、それはただの癖ではない。
過去に何があったのか、彼女が何を引きずっているのか、わからない。ただ、真正面から触れてしまえば、眼鏡の奥で保たれている笑みまで崩れてしまいそうな気がした。
だから先に笑う。先に驚かせる。先にからかう。
その手つきの鮮やかさが、かえって痛かった。
「それじゃ……こうして再び顔を合わせられたことを祝して、あたしの秘蔵の酒で乾杯といこうか」
言うなりカテリーナは身をかがめた。資料の山を崩さないぎりぎりの身のこなしで、壁際の影へ腕を差し入れる。紙の擦れる音。木箱を引き出す重たい音。積み上げられた書物のあいだから現れたのは、角の擦れた堅牢な箱だった。
蓋を開けると、長く眠っていた香りがほのかに立つ。彼女は瓶の肩に積もった薄い埃を払い、うやうやしいほど丁寧に持ち上げた。
琥珀色の液体が、硝子越しに灯を抱いて揺れる。くすみかけたラベルには、見慣れない文字列と、異国めいた紋様が細かく刷られていた。王都の喧騒とも、この家の紙の匂いとも違う、遠い土地の夜を閉じ込めたような瓶だ。
「これね、あたしのコレクションの中でも最高級の一本なの。めったに開けることはないんだけれど、今日は特別な夜でしょ?」
その言い方は得意げで、どこか幼い。けれど瓶を扱う手つきは慎重で、ふざけ半分ではないのも分かる。今日という夜に、それなりの印をつけるつもりなのだ。
ヴィルが半眼になった。
「おいおい、つい先刻まであんな大騒ぎをしてたくせに、今度は宴会か? だいたい、こいつには門限があるんだぞ?」
「ふふっ、それくらいで慌てふためくなんて、『雷光』の名も形無しだね。あんたが叱られる分にはちょうどいいんじゃない? ねえ、ミツル?」
「えっと……」
不意に矛先を向けられて、わたしは返事に詰まる。
彼女の瞳は笑っている。笑っているのに、ただ同意を求めている顔ではなかった。わたしがどう返すかまで含めて、その場の均衡を見ている目だ。
「お前、わかってんのか? 今のミツルは、形式上とはいえ離宮住まいの養女扱いなんだぞ。正式な王族でなくとも高貴な身分だ。そんな子を、こんな悪戯めいた酒宴に巻き込んで、いいわけがあるか?」
ヴィルの声は、いつもより少しだけ速かった。苛立っているというより、うっかり本音のほうが先に出てしまった時の調子だ。
カテリーナは瓶を抱えたまま、目を細める。
「へえ。そこまで言うかい?」
「言うさ」
「昔はもっと雑だったくせにねぇ。ま、例外はあるにはあるが……」
「昔の話を持ち出すな」
短いやり取りのあいだに、目線は何度か交わりかけて、きっちり外れた。ぶつかり合うようでいて、深いところでは踏み込まない。その距離の取り方が、かえって長い付き合いを見せつけてくる。
カテリーナは昔から、無骨で不器用な彼をこうしてからかってきたのだろう。けれど、ただ面白がっているだけの軽さではない。相手がどこで言葉を切るかを知っている人の手つきだった。
しかも、その棘はヴィルだけへ向いているわけではない。
父の名を一度も口にしないまま、その不在のまわりをぐるりと撫でている。そう思った瞬間、さっきの笑い声の明るさまで、別の温度を帯びて見えた。
「あんたも、こいつを口にしないまま帰るつもりはないでしょう?」
そう言って、カテリーナは瓶を魔導ランプの下へ掲げた。琥珀の色がいっそう濃くなり、液面の揺れが小さな火のように見える。
「仕方ない……。一杯だけなら、受けてやってもいい」
降参のような声に、カテリーナが満足げに口元を緩めた。その緩み方は、勝ち誇るというより、ようやく席に着いてくれた相手を見て安心した顔に近い。
「最初からそう言えばいいのに。素直じゃないねぇ」
「誰のせいでこうなってると思ってる」
「細かい男は嫌われるよ」
「余計なお世話だ」
呆れたやり取りが続くうちに、部屋の張りつめた空気が少しずつ解けていく。さっきまでの警戒が、書物の匂いと木のぬくもりに押し戻されていくのがわかった。
それでも完全には消えない。開いていた扉のことも、返事をしなかった時間のことも、わたしの中ではまだ片づいていなかった。けれど今は、その問いを無理に表へ出さないほうがいいのだという気配だけは感じる。
カテリーナが棚の奥から小さな杯を取り出す。形も厚みも揃っていない、寄せ集めのような三つの器だった。ひとつは白磁、ひとつは薄いガラス、ひとつは焼き締めの陶器。どれもこの家らしく、実用の顔をしている。
瓶の栓が抜かれる。乾いた小さな音のあと、甘さとスパイスの混ざる濃い香りが、ふっと部屋へ解けた。紙とインクの匂いに重なると、奇妙なほどよく馴染む。
液体が杯へ落ちていく細い音を聞きながら、わたしはようやくマウザーグレイルの柄から手を離した。
握り込んでいた掌が、ゆっくり開いていく。
「まったく……この落差にはついていけん」
ヴィルが杯を受け取って低く言う。カテリーナはそれを鼻で笑い、わたしには白い杯を差し出した。
「あたしらみたいな生き方してると、生きて再会できる夜なんて、そう何度もあるもんじゃない……。祝える時に祝っておくのが、賢い生き方ってやつだよ」
その言葉は冗談めいているのに、どこか妙にまっすぐだった。わたしは杯を受け取りながら、彼女の手元をほんの一瞬だけ見た。細い指は安定している。瓶を置く動きにも、杯を渡す角度にも、乱れはない。
祝える時に祝っておく。
たったそれだけの言葉のはずなのに、杯の底へ沈んでいくように聞こえた。戻らない夜があることを知っている人の声だった。逃せば、もう二度と杯を合わせられない相手がいることを、痛いほど知ってしまった人の。
「まあまあ、ヴィル。これもカテリーナらしいじゃない? いろいろあったけれど、こうして無事再会できたんだもの。楽しまなきゃ」
言い終えてから、杯の縁へ視線が落ちた。
思ったより軽い声だった。
ヴィルはわたしを見て、短く息を吐く。
「……お前がそう言うなら、今夜だけだ」
その声音の奥に、心配と諦めと、少しだけほどけたものがいっぺんに混ざっている。わたしは小さく笑って、杯の縁へ指を添えた。
カテリーナは自分の杯を持ち上げる。灯りの下で横顔が少しやわらぎ、眼鏡の奥の目がようやく素の温度に近づいた。
「そうよ。さあ、乾杯しましょう。これから先、どんな嵐が待っているかわからないんだしさ。でも、とりあえず今この瞬間、この場で再会できたこと、それだけでも十分に祝う価値があると思わないか?」
その声には、いつもの皮肉はほとんどなかった。ほんの少しだけ、疲れた人の本音が混じっている。
わたしは静かに杯を持ち上げる。ヴィルも不服そうな顔を崩しきれないまま、それでも同じ高さまで器を上げた。
カテリーナの杯が、そっとこちらへ寄る。
小さな杯同士が触れ合い、澄んだ音がひとつ鳴った。
その音は祝福の鐘みたいにやさしくて、それでいて妙に薄かった。紙の山へ吸い込まれ、キッチンの静けさへ溶け、誰にも聞かれたくない秘密の合図みたいに部屋の奥へ沈んでいく。
わたしは目を伏せ、ほんの少しだけ杯を傾けた。
甘い香りの奥に、かすかな苦みがある。
再会はたしかに本物だ。安堵も、笑いも、今この瞬間のぬくもりも、嘘じゃない。
けれど、灯の底で揺れたカテリーナの瞳だけは、まだ何かを隠している色をしていた。
だからわたしは、白い杯の丸みを確かめながら、そっと息を整えた。
今夜はまだ、ただの悪戯だけでは終わらない。




