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赤い灯、扉の向こう

 西へ傾いた陽が、街はずれの石壁と窓硝子を淡い紫に染めていた。市場の喧騒を背にして、わたしたちはようやくカテリーナの家へ辿り着く。夕暮れの光はやわらかいのに、胸の内側だけが、まだ市場のざわめきとは違う音で落ち着かなかった。


 白きマウザーグレイルは、不思議なほど静かだった。


 《《解析に集中する》》とだけ言い残して、茉凛はそれきり声を寄越さない。いつもなら、余計な軽口をひとつ挟んで、わたしの緊張を勝手にほどいてしまう。その声がないだけで、肋の裏に、薄い空洞がひらいたみたいだった。息を吸っても、そこだけが埋まらない。


「ふぅ……」


 玄関先で立ち止まり、そっと呼吸を整える。扉の向こうへ意識を向けても、灯りの気配も、物音も、返ってくるものは何もなかった。夕暮れの匂いだけが、背中のほうから静かに寄ってくる。


「おい、入らないのか?」


 隣でヴィルが低く促す。急かす声ではない。けれど、ためらっている暇はない、と言外に分かる響きだった。


 わたしは頷き、ドアベル代わりの紐を引いた。


 乾いた音が、家の奥へ吸い込まれていく。


 待つ。


 けれど、何も返ってこない。


 もう一度だけ引く。今度も同じだった。いつもの不機嫌そうな返事も、床を踏む足音もない。扉の前に立つ自分の呼吸ばかりが、妙に大きく聞こえた。


「……いないのかな」


 つぶやきながら、恐る恐るドアノブへ手をかける。真鍮はひやりと冷えていた。掌にその冷たさが移るより早く、ノブは拍子抜けするほどあっさり回った。


――鍵が、掛かっていない?


 首筋のあたりが、うすく粟立つ。


「開いてる……」


 ヴィルの眉がわずかに寄った。次の瞬間には、もう壁際へ体を寄せ、扉の隙間の向こうを窺っている。さっきまで市場を歩いていた男とは思えないくらい、呼吸も気配も低く沈んでいた。


「念のため、俺が先に入る。お前は後ろだ」


「カテリーナに、何か……?」


 声が自分でも思ったより細くなる。


 ヴィルは視線を外さないまま、短く言った。


「わからん。ただ、あいつは昔から『厄介な情報に首を突っ込む側』の人間だ。用心しろ」


 それだけで十分だった。


 軽口ばかり叩いているように見えて、カテリーナのまわりには、いつだって薄い火薬の匂いに似たものがあった。踏み込みすぎれば指を焼く種類の危うさ。あの人自身は平気な顔で笑っていても、その手が届くところが、いつも安全とは限らない。


 わたしは無意識に、白きマウザーグレイルの柄へ指を置く。冷えた感触は確かにそこにあるのに、剣の奥は黙ったままだ。その沈黙が、いつもよりずっと重く感じられた。


「ミツル」


「なに?」


「あの赤い灯り、出せるか」


 一瞬、意味を取り損ねる。


「灯り?」


「いつもやってるやつだ。小さくでいい。中の輪郭だけ拾えれば十分だろう。ただし、熱は浅くしろよ」


――場裏・赤のことか。なるほど。


 胸の内で言い直して、思わずヴィルを見る。彼は扉の影へ身を寄せたまま、こちらを見もしない。けれど、こちらの術の輪郭と危うさを、必要なぶんだけ正確に掴んでいる。


 いつの間に、そこまで見ていたのだろう。


 驚きはあった。けれど、いまはそれを確かめている場合ではない。彼の言う通り、灯火ひとつぶんで足りる。焼く必要はない。照らせばいい。


「……わかった」


 掌をひらく。


 意識を深く沈めるほどでもない。ほんの小さな熱だけを、指先の内側へ集める。呼吸に応じて寄ってきた精霊子が、掌の上でかすかに震えた。


「場裏・赤。灯火ひとつぶんでいい。道だけ見せて」


 吐息に重ねて落とした声のあと、掌の上に小さな赤熱が結ばれる。針先に宿る火種みたいな、浅い熱の粒。肌を焼くほどではないのに、闇へ差し込むには十分な明るさだった。


 ヴィルが短く顎を引く。


「よし」


 わたしはその赤い灯を、そっと扉の隙間の向こうへ滑らせた。


 熱を抱いた小さな光は、暗がりをゆっくり進んでいく。玄関の床板。靴棚の脚。壁の輪郭。赤みを含んだ明かりが、夜へ沈みかけた室内を、水底を探るみたいに静かに撫でた。


 ヴィルが銘無しの聖剣を抜く。


 低い金属音が、玄関の空気をひと筋だけ冷やした。わたしもマウザーグレイルの柄を握り直す。頼れないのではない。ただ、いまはあの静けさへ、不用意に触れてはいけない気がした。


 ヴィルが先に一歩、敷居を越える。わたしもその背に続こうとした、その瞬間だった。


 ふいに、暗がりが裂けた。


「……きゃっ!?」


 喉からこぼれた声は、自分でも驚くほど小さかった。赤い灯が淡く霞むほどの明るさが、一階の吹き抜けを一息に満たしていく。


 最初に見えたのは、本だった。


 壁際だけではない。棚の上にも、床にも、窓辺にも、幾重にも積み上がった本と資料の山。紙の塔が細い通路を残して折り重なり、部屋そのものが知識の迷路みたいに息づいている。乾いた紙と古い革の匂いが、いきなり鼻を満たした。


 その手前にだけ、本の山をどうにか押し退けたらしい、小さなテーブルの空間があった。


 そこに、その人は静かに腰を掛けていた。


 カテリーナだった。


 姿勢は崩れず、肘掛けもない椅子へ浅く腰を下ろし、片肘を卓へ置いたままこちらを見ている。灯りをつけた張本人なのだろう。けれど、いつものように開口一番で毒づいてくる気配がない。


 その静けさのほうが、かえって落ち着かなかった。


 ヴィルの剣先がわずかに下がる。


「ふぅ……」


 わたしはようやく息を継ぎ、こわばった指先から少しだけ力を抜いた。けれど、胸のざわめきは、まだほどけきらない。


 返事がなかった理由も。


 鍵を掛けていなかった理由も。


 まだ、ひとつもわかっていない。


 玄関から流れ込んだ夕暮れの匂いと、本の乾いた匂いが、明るすぎる部屋の中で奇妙に混ざり合っていた。


 カテリーナはそこでようやく、わずかに口もとを動かした。


「ずいぶん遅かったじゃないか、ミツル」


 その声は軽やかに吹き抜けへひびき、わたしを締めつけていた不安と緊張を、少しずつほどいていった。

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