深淵の舞が触れる、異国の調べ
中央市場の外れにひらけた石敷きの広場では、西方の大陸から来たという舞踏団が輪をつくっていた。
小太鼓の乾いた連打に、鈴の細い震えが絡む。そこへ撥弦のやわらかな音が重なり、まだ耳に馴染まないはずの律動を、なぜか足首のあたりだけ先に知っているようだった。
日を受けた衣裳の刺繍がきらりと返り、青や赭の布が風をはらんで大きくひるがえる。石畳を払うつま先の軽さ、腕の弧、腰の返し。そのどれもが異国のものなのに、ただ眺めているだけでは済まない気配が、呼吸の奥でそっと波立った。
人の輪の後ろに身を置いたまま、わたしは息を浅くする。
――知らない調べだ。
知らないはずなのに、音の落ちる場所だけが妙に近い。踵を置く前に母趾球が先にうずき、膝の裏がごく小さく弾む。気づけば、裾の内側でつま先がひとつ、石畳の硬さを確かめていた。
その響きに、遠い声がふいによみがえった。
『美鶴、よく覚えておいて。柚羽に伝わるこの舞いは、思いや願いを根源の欠片に届けるためのものなのよ。いつも眠ってばかりいる“彼女”を目覚めさせるためのね』
母――紫鶴の声を抱えたまま、幼い日のわたしが、ごく小さく息を吐く。
板の目を確かめる足裏。指先が空気へ物語を描き、芯に静かな熱が灯る。悲しみも、苦しみも、ささやかな喜びも、遠い希望も、流れとなって動きへ溶けていく――あの頃、舞は願いを手渡すためのものだった。
けれど次の音で、別の感触が足の裏をかすめた。
陽に温んだ広場の石畳ではない。湿りを吸った黒い床。滴の音。鉄錆と淀んだ水の匂い。血の痕を拭いきれない祭壇のまわりで、声にならないものを身振りへ織り込み、檻の底から空を望むように捧げた、あの『始まりの回廊』。
息がひとつ、浅くなる。
けれど、いま頬を撫でているのは、あの冷気ではなかった。頭上には岩盤ではなく、どこまでも澄んだ青がひらけている。耳へ届くのは滴の音ではなく、異国の楽の調べだ。頬をかすめる風はやわらかく、色を失いかけたわたしへ差し込んだ、あの光の続きみたいに、身体の奥をひらいていく。
同じように足首を返しても、もう意味が違う。
祈りに縛られて差し出すためではなく、ただ身体がよろこんでしまうから動く。そのことが、なぜだか少しだけ、こわくて、うれしかった。
輪の内側で舞っていた踊り子のひとりが、ふっとこちらを見た。
青い衣をまとった若い女だった。髪に結ばれた青磁色の布が陽に透け、回るたび、頬のわきで涼しい色を散らしている。彼女は一度だけ目を細め、わたしの足もとのささやかな反応へ気づいたように口もとをほころばせた。
手の甲で空をなぞる。来るか、と言葉のいらない仕草。
咄嗟にまわりを見る。けれど、誰も囃し立てはしない。果実籠を抱えた女が少しだけ身を引き、子どもが母親の袖を握り直す。輪の縁が半歩ぶん、静かにゆるんだ。
見ている。気づいている。けれど、邪魔はしない。そんな都の節度に背を押されるみたいに、わたしは一歩だけ前へ出た。
石畳の上へ足を置く。音の中心へ近づいた途端、小太鼓の響きが足裏から上がってきた。胸の内ではなく、まず膝が応える。もう一歩。流れを外さないことだけを考えていたはずなのに、隣の踊り子の手首が返る角度、肩の落とし方、裾が風を拾う瞬間が、身体のほうへ先に入ってくる。
上手くはない。そんなことは、自分で分かっている。
足を出すのがわずかに遅れ、腰の向きが追いつかず、腕が少し固い。それでも、知らないはずの調べに身体が喜んでしまうのを止められなかった。音を拾うたび、長く眠っていたものが、皮膚の下でほどけていく。
青い衣の踊り子がくるりと回り、今度はわたしの左へ立つ。指先が一度だけ、こちらの手首の位置を示した。少し高い。そこへ置く。次は足。踵から入らず、つま先を先に。そうすると、腰が無理なくついてくる。
言葉はひとつもないのに、不思議なくらい通じた。
わたしは見よう見まねで、そのひと流れだけを借りる。青い布が視界の端で弧を描き、わたしの裾も遅れて風をはらむ。小さな跳躍を入れれば、耳の横で髪がふわりと浮いた。肌を撫でる風まで、踊りのほうへ引き寄せられていくみたいだった。
輪の外にいる人々のざわめきが、ひとつに薄まる。
大きな歓声はない。ただ、息を呑む気配と、何かを見つけたときみたいな静かな驚きだけが、遠巻きに揺れていた。広場の明るさのなかで、自分の身体だけが少し軽くなる。その軽さが嬉しくて、また一歩、足が前へ出る。
いまのわたしには、巫女の衣もない。回廊の鈴も、黒い祭壇もない。
それでも、一度身についたものは消えないのだと思った。
願いを届けるために覚えた足は、異国の調べにだって応える。痛みと恐れに縛られたまま捧げていた所作が、いまはただ、生きていることの側へひらいていく。
剣舞を志すのなら、たぶん、こういうところから始まるのだろう。
斬る前に、調べを受ける。重心を預ける。見えない流れへ、ほんの一瞬だけ身体を合わせる。
その一瞬だけで、足の裏に残っていた痛みの形が、少し違って聞こえた。
不意に、小太鼓の打ち方が変わった。
舞踏団の輪がゆるやかにほどけ、最後の一巡が始まる。青い衣の踊り子が、わたしへ目を合わせて小さく顎を引いた。ここまで、という合図だと分かった。
わたしはそれに応えるように、ひとつだけ深く膝を折る。見よう見まねの礼だったけれど、彼女は満足そうに笑い、軽く掌を打った。
それをきっかけに、まばらな拍手が広場へひろがる。大げさな喝采ではない。昼の風にほどけるような、やわらかな重なりだった。
息が上がっていた。頬へ張りついた髪を耳へ払い、わたしは人の輪を抜ける。
視界の端で、広場の外れに立つヴィルが見えた。
最初は止めるつもりだったのかもしれない。けれど今は腕を組んだまま、人の流れとわたしの両方を見ている。人混みを警戒する癖で肩の線だけはまだ硬いのに、その目だけが、どうにも逸れていなかった。
息がひとつ、浅くなる。
嬉しさだけではないものを、自分でも持て余したまま、わたしは彼のもとへ戻った。
◇◇◇
「ヴィル!」
呼びかけると、彼はわずかに顎を上げた。
「……おう」
その一音だけで、急に照れくささが戻ってくる。さっきまで平気で踏めていたはずの石畳が、急に頼りなく感じられた。息を整えるふりをして、指先で裾をそっと直す。
「その……変じゃなかった?」
自分で訊いておきながら、声の落ち着かなさに頬の内側が熱くなる。
ヴィルはすぐには答えなかった。視線が一度、わたしの髪から足もとまで落ちて、それから肩をすくめる。
いつもの彼なら、軽く流すこともできただろう。けれど、その目はその前に、ほんの少しだけ止まっていた。
――まずい。つい我を忘れて、調子に乗ってしまった……。
重心の残し方。迷った足を戻す速さ。腕が遅れても、芯だけは崩れないこと。楽しげに見える顔の奥へ、妙に静かなものが沈んでいること。歴戦の剣士の勘は、どうしたって拾ってしまうはず。
十二歳の少女の身体には似合わない、重心の静けさまで、つい動きの端へ滲ませてしまった気がした。
けれど、彼はそれを言葉にはしなかった。
「見よう見まねにしちゃ、たいしたもんだ」
ぶっきらぼうにそう言ってから、目を細めた。
「……妙に、様になってたな」
それだけだった。
けれど、その短さのせいで、喉の奥が少し詰まった。見透かされたのではない。ただ、見てしまったのだろう。そのうえで、暴かないまま受け取ってくれた。
喉がひとつ鳴る。
「うまくできてたかどうかは、自分でもよくわからないけど……」
言いながら、まだ足の裏に残っている調べを確かめる。
「でも、楽しかったの。気づいたら、身体が勝手に……」
そこまで口にして、わたしは笑った。
「……ああ、そうか。こういうのが、わたしなんだなって、思った」
ヴィルは眉を上げるでもなく、ただ短く鼻を鳴らした。
「いまさら何を言ってる。元々お前はそういうやつじゃないか?」
「ふふ、そうかも。たしかに、いまさらよね」
言い返すと、彼の口もとがほんのわずか緩む。
広場ではもう次の曲が始まっていた。撥弦の細い音が風に混じり、青い衣の踊り子が輪の向こうから一度だけこちらへ手を振る。わたしも小さく振り返すと、彼女はそれで充分だというように微笑んで、また調べの内側へ戻っていった。
ヴィルが隣へ並ぶ。さっきまでより、わずかに近い。
そのまま人波の向こうへ目をやる。
「さて、次はどこへ行く」
何でもない声でそう言われて、張っていた糸がふっとゆるんだ。
「……まだ、少しだけ歩きたい」
「言うと思った。行こうか」
「うん。海沿いに魚の形をした焼き菓子を売ってるお店があるの。中にカスタードクリームがいっぱい詰まってて、茉凛の大好物なのよ」
「まったく、欲望の尽きないやつだ」
呆れたふうに言いながら、彼はもう歩き出している。半歩前へ出て、けれど置いていかない歩幅。わたしはその背中ではなく、今度はちゃんと隣へ並ぶように足を出した。
石畳の上で、ふたりぶんの足音が、昼の明るさへ静かに混じっていく。
足の裏にはまだ、異国の律動が残っていた。知らない世界へ触れたよろこびと、長く痛みに結びついていた所作が、はじめて光の下で息をし直したような不思議な安堵が、呼吸のあいだでやわらかく混ざり合っていく。
もう一度だけ、つま先が石畳の上で小さく音を拾う。
それを見咎めたのか、ヴィルが横目でこちらを見る。
「まだ踊り足らないのか」
「あら、だめ?」
「別に。転ぶなよ」
それだけで、また笑ってしまった。
「もう、そこまで危なっかしくないわよ。それに……」
「なんだ?」
「あなたがいるもの」
口にしてしまってから、遅れて自分の言葉に追いつく。喉の奥がきゅっと細くなり、頬のあたりへ熱がふわりと差した。そんなつもりで言ったわけではない、と打ち消そうとしたところで、いったん空気へこぼれたものは、もう指先では掬えない。
わたしは視線をそらしかけて、けれどそらしきれずに、ヴィルを見上げた。
ヴィルは微かに目を細めた。陽を受けた睫毛の影が頬に落ち、口もとに触れた笑みは、からかうにはやさしすぎる。
「だから目が離せないっていうんだ」
ぶっきらぼうな言い方なのに、突き放す響きはない。そう返されると、余計に落ち着かなくなってしまって、わたしは誤魔化すように前を向いた。潮の匂いを含んだ風が髪を撫で、石畳へ落ちるふたりぶんの影が、昼の光のなかで静かに寄り添って伸びていく。
広場の音はもう背の後ろへ遠のいている。それなのに、わたしの身体のどこかでは、さっきの調べがまだ続いていた。
剣を持つ手にも、舞うための足にも、同じ流れが通っている気がした。つま先が、もう一度だけ石畳を軽く叩く。その音が胸の奥で、小さく弾んだ。




