陽だまりの市場、それだけで、いまは
朝から外された感覚共有の静けさが、まだ耳の奥に薄く残っていた。
そのぶん、昼の中央市場のざわめきは、ひどく明るい。白い壁に跳ね返る陽射し、磨かれた石畳を行き交う人々の靴音、頭上でゆれる天幕の影。果実の甘い匂いと香辛料の刺激が交互に鼻先をかすめ、南の内湾から上がってくる潮の気配が、人いきれのあいだをゆるく縫って頬を撫でていく。
若緑の髪へ落ちてくる視線は、思ったより少なくなかった。けれど、誰も声を掛けてはこない。
果実籠を抱えた女が一度だけ目を細め、連れの子の肩をそっと引いて道の端へ寄る。荷車を押す男は半歩ぶん進路をずらし、向かいの店先では、年配の女性が口元だけで小さく笑った。見知らぬふりではない。ただ、邪魔はしない。そんな種類のやさしさが、この都にはあった。
隣を歩くヴィルの足音だけが、今日はやけにはっきり分かった。半歩前へ出て、けれど置いていかない歩幅。護衛として当然の位置取りなのだと分かっているのに、その確かさが妙に気にかかる。
「ねえヴィル、あれ見て! あの綺麗な羽根飾り!」
軒先に吊るされた羽根細工が、光をはじいて小さく揺れていた。青、金、白。鳥の名も知らない色が幾重にも重なり、隣の店先では琥珀色の蜜をまとった焼き菓子が湯気を上げている。さらに向こうには、陽を透かして淡くひるがえる薄布。目に入るものごとに気を取られ、気づけば歩幅がひとつ、ふたつと前へほどけていた。
「おいおい、そんなに慌てたら転ぶぞ」
低い声と一緒に、肘の少し上へ指先が触れた。呼び止めるためだけの、短い接触。それなのに、その場所だけ熱が残る。自分でそれに気づいてしまい、何でもない顔をつくることすら戸惑った。
「だって、どれもこれも面白そうなんだもの! ねぇ、次はあれ食べてみようよ」
指さした先では、小さな焼き菓子の表面へ蜜がとろりと流れ落ちている。光の筋を含んだその甘さを想像しただけで、舌の奥がくすぐったくなった。
「だから待てって。まったくお前というやつは……」
呆れた口調のまま、ヴィルは先に店先へ向かった。
店主は紙包みを差し出すときだけ、わたしの髪へちらりと目をやった。すぐに何でもない顔へ戻り、値を告げる声がほんの少しやわらかくなる。名を尋ねもせず、詮索もせず、それきりだった。
ヴィルは代金を払うと、何でもない顔でその包みをこちらへ差し出してくる。その無骨な手つきが、こういうときだけやけに手慣れて見えるのがずるい。
受け取った菓子は、まだあたたかかった。薄い生地がぱりりと割れて、蜜が舌の上でゆっくりほどける。甘いだけではなく、柑橘の皮みたいなほろ苦さが後から追ってきて、思わず息が緩んだ。
「ああ、もう……。俺から離れるなって」
不満げに言うくせに、声の底は乾いていない。わたしは紙包みを持ったまま振り返り、彼の瞳の奥に浮かぶ小さな笑いを見つけてしまう。
そのたび、何かを見つかったのはこちらのほうではないか、という気がした。
◇◇◇
中央通りを少し離れると、街路樹の影が石畳へまだらに落ちていた。冬の名を残す季節でも、この海の都の昼はどこかやわらかい。枝葉のあいだを抜けてくる風は冷たすぎず、遠くの港から届く潮の匂いが、果物の甘さと混じって低く漂っている。
「頼む……少し休憩させてくれ」
その言い方があまりにも降参じみていて、唇の端がほどける。
「じゃあ、あっちの木陰で一息入れましょうか。百戦錬磨の護衛騎士さま」
「やかましい。今は非番扱いだ。お前こそ、お忍びみたいなものだろうが」
「そっか。それもそうね」
古い木のベンチは陽に温められていて、腰を下ろすと外套越しにもほのかなぬくもりが伝わった。
木肌の細かなささくれに指先が触れ、遠くで海鳥がひと声鳴く。市場のざわめきは少し離れただけで薄布一枚ぶん遠のき、包丁の鳴る音や車輪の軋みが、昼の王都を静かに織っていた。
「やれやれ……。久方ぶりの王都で嬉しいのはわかるが、まさかお前がこんなに目を輝かせるとは思わなかった」
隣へ腰を下ろしたヴィルが、肩の力を抜くように息をつく。
「目に付くもの全てに足を止めるから、こっちは気が休まらん。首に紐でもつけてやりたいところだ」
からかわれているのは分かるのに、責められている感じはしない。わたしは膝の上の紙包みを軽く押さえ、潮を含んだ風をひとつ吸った。
「あら、人をペットみたいに言わないでちょうだい」
ヴィルは喉の奥でくっくっと笑った。人混みを警戒していた肩の線が、そのときだけほどける。
「でもね、この王都はわたしにとって宝箱みたいなものなの。見たことのない品々や、まだ味わったことのない料理やお菓子がぎゅっと詰まっていてね……。それに、海の見えるこの街が好きよ。光と潮風が重なって、一枚の布に描かれた模様みたいに移ろっていくでしょう。見飽きることなんてないのよ」
言いながら視線を上げると、街路樹の葉の隙間に白い建物の壁が覗き、その向こうに淡い青の気配が滲んでいた。海そのものは見えなくても、この街にはいつもどこかに水の匂いがある。森の奥で育ったわたしには、その開け方がいまだに不思議だった。
「そうか? 俺には見慣れた景色だがな」
そっけない返事。けれど、本気でそう言っている顔でもない。わたしは思わず笑ってしまう。
「騎士団暮らしの長かったあなたはそうでしょうけど、わたしにとってはすべてが小さな冒険なのよ。だって……森の奥で育ったわたしは、こんな賑わいなんて知らなかったもの。……だから、ついはしゃいでしまうの」
ヴィルは鼻を鳴らし、それ以上は何も言わなかった。通りを渡ってきた風が外套の裾を揺らし、枝葉の影が彼の肩に淡くほどける。黙ったままそこにいる横顔を見ているうちに、胸の奥に残っていた小さな棘が、少しずつ形を失っていく。
王都へ来てからの日々を、思い返す。
朝食を終えるたび、彼は音もなく出ていった。夕餉の頃になってようやく戻り、何もなかったような顔をして椅子に座る。そのたび、行き先を尋ねかけては飲み込み、わたしはわたしで平気な顔をつくっていた。
いまなら、あれが何だったのかは分かる。
情報を拾い、人に会い、見えないところで道を繋いでいたのだ。玉座の間であの人が現れたのも、きっと偶然ではなかった。
だから、責める言葉は出てこない。
出てこないのに、朝食のあとで扉が閉まる音だけは、何度も思い出してしまう。夕餉まで戻らない椅子。尋ねかけて飲み込んだ声。平気な顔をつくるたび、夜の端が少しだけ冷えた。
わたしは何度も助けられてきた。気づかないところで守られ、知らないところで支えられてきた。
否定できないことばかりだった。
だから、いまさら責める言葉を探しても、手の中には残らない。
それでも、あの日々が、少しだけ寂しかったことも本当だった。
先へ先へと歩いていく背中を見送るしかなくて、自分だけ置いていかれたような心地が、夜の帳の隙間に何度も忍び込んだ。分かっていることと、平気でいられることは、いつだって同じではない。
――けれど今日は違う。
市場の喧騒の中でも、足音はずっと隣にあった。店先で立ち止まれば、ちゃんと同じ場所に立ち、わたしの視線の先を追ってくれた。護衛だから、と言ってしまえばそれまでだ。けれど今日の歩幅には、わたしを急かさずに待つ間があった。
紙包みの端を指で折っては戻し、もう一度折る。そんなことをしている自分がおかしくて、笑ってしまう。
言いたいことは、たぶんもっといくつもあった。前なら、胸の内で絡まっていただけのもの。けれど今は、ひとつだけでいい気がした。重たい言葉で縛るより、この昼の明るさに似合う形で確かめたかった。
わたしは彼の横顔を見る。
頬に落ちる木漏れ日。疲れたように投げ出された長い脚。人混みを警戒していたせいか、肩の線だけはまだ緩みきっていない。そのくせ、わたしが見ていることには気づいていて、こちらを向かずにひとつ息をついた。
「今日は……ちゃんと隣にいるのね」
自分でも驚くほど、声は静かだった。責める色も、拗ねた響きも、そこには残っていなかった。ただ、たしかめるように落としただけの一言。
ヴィルは目を細め、それから短く答える。
「ああ」
それだけだった。
けれど、その一音がひどくまっすぐで、変に飾らないぶん、かえって奥へ沈んでいく。言い訳も説明もない。ただ肯く。それだけで、ここにいることを引き受けているのが分かった。
わたしは視線を落とし、膝の上の紙包みをそっと撫でた。風がもう一度、木々の葉を鳴らす。遠くでは誰かの笑い声が弾み、港のほうから低い汽笛のような音がかすかに届いた。王都の昼は相変わらず忙しく、華やかで、誰のためでもなく流れている。
そのただ中で、隣にある体温だけが、妙に静かだった。
それだけで、いまは十分だった。
通りへ戻れば、また人の波に紛れるのだろう。店先の呼び声に足を止め、布地に目を奪われ、甘い菓子の匂いに振り向く。そういう小さなことを繰り返しながら、午後はまだ続いていく。
けれど、もう焦って確かめる必要はなかった。
石畳の上へ落ちたふたりぶんの影が、さっきよりも自然に並んでいる。そのことだけを、ひそかな贈り物みたいに抱えたまま、わたしはそっと息をついた。




