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お昼休みの手合わせと魔術講座

 粉を含んだ風が、ひび割れた地面の上を撫でていく。草は背を低くして、砂礫だけが陽を跳ね返していた。耳をつんざく絶叫と共に、大剣が空気を裂く。だがその一撃も、踏み込みも、相手に触れることはない。


 相手は斬撃が届く直前まで静かに立ち、紙一重で身をかわす。剣を振るうたび、カイルの息が荒くなり、焦りが声ににじんでいった。


「くそーっ!」


 叫びは遮るもののない空へ投げられ、すぐに風にほどけていく。相手は構えすら見せず、剣を下げたまま。踏み替えの砂が、さらりとほどける気配だけが残る。


「まるで相手にされてないみたい……」


 言い終えたあと、みぞおちがひやりと縮んだ。思わず漏らしたわたしの声に、仲間たちも沈黙でうなずく。カイルの肩が上下し、呼吸は荒い。誰かが言いかけて飲み込み、靴先が砂をひと掻きして止まった。


 対照的に、相手の動きは静かで洗練されている。予備動作のない加速で斬撃をいなし、その姿は、陽炎の揺れを切り裂くようだった。


 息が一拍遅れる。父の流れるような剣とは違う。刃が陽を白く返し、踏み込みの砂が同じ幅で沈んでいく。腰の軸がぶれず、肩の線だけが静かに入れ替わる――わたしのまばたきが遅れる。


「ま、ま、参りました……」


 声が落ちた途端、風がわずかに強まり、砂が足首をかすめた。三分も経たず、カイルは降参を口にする。肩で大きく息をし、巨体を砂の上に倒れ込ませた。


「はぁ……はぁ……もう無理だ。なんてこった。かすりもしないなんて……」


 仰向けになった姿は重く、力尽きていた。全力を尽くしても届かない相手に、彼の心が折れてしまわないかと、わたしは指先をきつく握り込んだ。


 相手がゆっくりと歩み寄る。砂礫が靴底で一拍ずつ鳴り、その音が輪の外へ淡く流れていく。首筋の汗が冷えて貼りつき、肩甲骨のあたりが硬くなる。誰かの喉が小さく鳴って、外套の布が擦れた。


 その男――ヴィル。普段は飄々と酒をあおる、ただの酔いどれに見える四十四歳の剣士。だが今、その瞳は笑っていなかった。


「ヴィル・ブルフォード。さすがは『雷光』の二つ名を持つ男よの」


 その呼び名を耳にした瞬間、背中の汗がひと筋だけ、衣の裏をつたった。普段の彼は、酔って笑っているときでさえ、重心がわずかも泳がない。けれど、その奥に隠された真の姿を、わたしはまだ知らない。


 だからこそ、傍らのレルゲンがひげをなぞりながら口にした言葉に、思わず耳を傾けた。


「雷光って?」


 小声にしたつもりでも、遮るもののない空気は音の端を遠くへ流す。わたしが尋ねると、レルゲンは深く息をつき、懐かしむように語り出した。


「うむ。ハンターや冒険者なら、その名を一度は耳にしたことがあるだろう。稲妻の如き突進で魔獣の懐へ潜り込み、ただの一撃で仕留める。名を聞いて、もしやと思ったが……やはり語り継がれる通りの本物だったようじゃな」


「ほえーっ……」


 語られる姿が脳裏に浮かび、思わずため息が漏れる。隣のエリスも驚きに目を丸くしていた。


 けれども、わたしはまだ彼の本気を見たことがない。わたしが黒鶴を発動させるまでの間、彼は前線で守りに徹し、一瞬の隙を作ってくれる――それがいつもの役割分担だった。


 心のどこかで、彼が全力で戦う姿を望んでいた。だが以前、ほんのりと漏らしたその気持ちに、彼は飄々と答えたのだ。


『別に必要ないだろう? 俺が支えて、お前がまとめて一気に片付ける。それが一番効率的だ。互いの負担も少なくて済む。日々の仕事なんてものは、淡々とこなせばそれでいい』


 言葉は整っている。なのに、胃の底がひやりと冷える。


 彼にとって魔獣狩りは仕事にすぎないのか。全力を尽くす相手も場もない限り、彼の『雷光』は眠ったままなのかもしれない。


 ヴィルが差し伸べた手は、古傷に覆われながらも温かく力強い。


 手が触れた瞬間、革手袋がきしりと鳴った。大柄なカイルの体が、その掌に引き寄せられるように軽々と持ち上がった。彼の奥深い力が、静かに垣間見えた瞬間だった。


 立ち上がったカイルは深く頭を下げ、声を震わせる。


「ヴィルさん。稽古をつけていただき、本当に感謝します。これほどまでに洗練された身のこなしを持つ方は初めてです」


 風に揺れる外套の裾が、かすかな布擦れを立てた。ヴィルは柔らかく頷き、肩を軽く叩いた。穏やかな声には、長い経験から生まれた重みがあった。


「そいつは過分な評価というものだ。世の中には、俺なんか足元にも及ばない達人が山ほどいる。だからこそ修練に終わりはない。常に向上を心がけ、挑戦し続けることが大切だ。お前はまだ若いんだから、しっかり励め」


「はい。もしよろしければ、これからどうすればいいか、指針をいただけると助かります」


 カイルの喉が一度鳴り、飲み込む音が妙に大きく聞こえた。カイルの問いに、ヴィルは一瞬視線を伏せ、思案の沈黙を置いてから答えた。


「そうだな。その重い大剣を活かすなら、まず守りの技術を極めることだ。特に受け流しの精度を高めろ。お前は真っ正直すぎる。それが長所でもあり、短所でもある。素直に正面から受けてばかりでは、どんなに頑丈な剣でもあっという間にすり減ってしまうぞ」


「……俺は前衛に立って仲間の盾になるのが常ですから、いつも剣はボロボロで、不安でした」


「さすがはパーティーのリーダーだな。いい心がけだ」


「そ、そうですか?」


「守りとは無謀でも怯えるでもない。仲間を信じて待つ強さだ。その気持ちさえあれば、お前はもっと強くなれる」


 わたしは数週間前のあの日を思い出す。エレダンへ帰還する途上のカイルたちのパーティーが、魔獣の大群に襲われていた光景を。


 黒い影の群れが地平をにじませて追ってきた。遠目に見える仲間たちは必死に走り、最後尾のカイルだけが踵を返して立ち止まった。声は距離と風に攫われ、何を叫んだのかは聞こえない。けれど彼は大剣を両手で据え、身ひとつを壁みたいに置いた。仲間を先へ行かせるために、ここで壁となって時間を稼ぐ――その意志だけが、砂塵の揺れの中でも揺らがずに見えた。


 仲間の背が小さくなっていくまで動かず、カイルは一度だけ肩をすくめたように見えた。リーダーを務める者の覚悟と矜持。それを、まざまざと見せつけられた気がした。


 ヴィルは短く息をつき、言葉を続けた。


 砂が足先でほどけ、鞘鳴りの余韻が空気に薄く溶けた。


「……一つだけ、付け加えるならば――」


 背から一本の剣を抜く。普段の長剣より短く、幅広の刃を持つ独特な形。特注のブロードソードだと一目でわかった。


「たとえば俺は、もう一本の剣を備えている。片方が損傷した時や双剣で挑む時に役立つ。普段はほとんど抜かんがな」


 カイルは目を丸くした。


 これまで共に狩場を駆けても、彼が二刀流を使う姿を見たことがなかったからだ。ヴィルの底知れなさが、改めて突きつけられる。


「いざという時に備えて、副装備オフハンドを備えておくんですね」


「その通りだ。主装備メインハンド一辺倒にならず、状況に応じて手を変えることだって肝心だ。大剣がいかに頑丈でも折れる時は折れるし、間合い次第では役に立たんこともある」


 ヴィルは視線を鋭くし、言葉を続けた。


「何も剣だけに限らんぞ。まきびしや煙幕のように、敵を乱す手立てだって有効だ」


 彼は言葉を切り、わずかに目を細めた。静かな声に、戦場を渡り歩いた者の重みがにじむ。


「いいか。何よりも大事なのは、臨機応変にどんな手を使ってでも生き延びることだ。魔獣狩りを生業にするなら、それを最優先に据えろ……仲間と笑い合うためにもな」


 その一言だけ、風の冷たさの中で、ほんのわずか温度が上がった気がした。


「はい!」


 カイルは大きな声で応じ、顔を紅潮させた。実直な好青年らしい素直さが、空気を明るくした。


 わたしは静かに息をついた。


 ヴィルの言葉は教科書的で、わかりやすいものだ。けれど核心の部分は、わたしが抱いていた「剣士」の姿とはあまりにかけ離れていた。


 剣士とは、正々堂々と剣を交え、誇りを胸に勝利をつかむ者――そう信じていた。けれど彼は迷いなく言う。「何でもしろ」と。その言葉には、幾度も死線を越えてきた者の重みがある。「生き延びろ」という哲学の中にこそ、本当の強さがあるのかもしれない。


――仲間と笑い合うためにもな、か。


 目の奥がふと熱を帯びて、息がひとつだけ乱れる。前世で茉凜がくれた言葉が重なった。


――『全部終わったら……みんなでまた一緒に笑おう?』


 あの時、涙の底で支えてくれた光。いまわたしは、同じ想いを別の誰かから受け取っている。


◇◇◇


 どうしてヴィルとカイルが手合わせしていたかといえば、わたしたち第二部隊はちょうど昼休みに入ったところだった。


「あらやだ……」


 荷車の板に置いた杯が、こつんと乾いた音を立てた。気づけばヴィルとレルゲンは早々に杯を交わし、すでに頬を赤らめている。酔いに浸る二人の姿は、もはや日常の一幕で、誰も驚きはしない。ただ心の中でため息をつくぐらいだ。


 そんな折、わたしは魔術師フィルに声をかけられた。穏やかな物腰の奥に、まだ若い輪郭が残る。けれど鋭い眼差しがこちらを捉え、逃げ場を失う。


「ねえミツル。君の魔術だけど、どうやったらあんな風に自然と結びつけられるんだい?」


 風が外套の襟を軽く叩き、わたしは反射で顎を引いた。


「んー……わたし、特に何か特別なことをしてるわけじゃないの。なんて説明したらいいかだけど、ただ、こうしたいっていう、“結果”を思い浮かべてるだけなのよ」


 フィルは首をひねり、真剣な面持ちで言葉を続けた。


「結果だけをイメージ? 呪文も魔法陣も無しにかい? それじゃ、手続きをすっ飛ばしているようなものじゃないか。魔術の基礎理論から完全に逸脱しているよ」


 そう言うと、彼は例え話を持ち出した。


「たとえばつむじ風を起こすにはね、二つの魔法陣を同時に走らせる必要があるんだ。まず中心を軽く減圧して、周囲の空気を寄せながら回転の芯を立てる術式。次に、その芯が上へ抜けるように持ち上げて、渦を引き伸ばす術式。この二つを重ねて同時に意識して制御しないと、柱にならない」


「自然現象としての原理は理解できるけど、魔術でそれを再現するとなると、ずいぶん複雑なのね……」


 つい、前世の癖が言葉の端に滲んでしまった。外套の縫い目を指の腹でなぞり、息をひとつ落とす。


「うん、理解が早いね。現象が一段複雑になると術式は増えるし、それを立体で同時に回すことになる。だから要求される集中力は桁が違うんだ。魔術師っていうのは、自分の属性に関わる自然科学も学ばなきゃいけないんだ」


 彼の真剣な声が、空気をぴんと張る。わたしはうなずき、握っていた指先をそっとほどいた。


「ふーん、なるほどね」


 返した声が自分でも素っ気なく聞こえて、袖口の布を指で撫でた。


 そこで話が終わらないのが、フィルらしい。風に髪が頬へ張りつくのも構わず、彼は指先で空に円を描き、もう一つをその上に重ねていくみたいに語り続けた。


 魔石を動力源として魔力を引き出し、そこから現象へ落とすまでの手続き――術式は細く長い、と彼は言う。どこか一つでも理解が浅いと、途中で綻ぶ。


 そして、魔法陣とは、長大化しがちな術式を一枚に折り畳んだ圧縮表記だ。方程式のように見えて、その実、手順と条件を編み込んだ設計図に近い。


 けれど、わたしの術の根本はそれとはまったく異なる。わたしは自分を、精霊子を集める器だと捉えている。思考の内に小さな疑似精霊体を形作り、そっと語りかけ、イメージを渡すだけ。“お願い”をするという感覚――それだけで、事は動き出してしまうのだ。


「わたしはただ、こうなってほしいって、心の中でお願いしてるだけなのよ……」


 言い終えたあと、指の腹がかすかに強張り、息の端が少しだけ引っかかった。彼は少し驚いたように目を見開いた。


「……うーん。思いを形にする、ということなのかな。僕にはどういう仕組なのか、想像もつかないや。やっぱり君の魔術は、根本からして異質なのかもしれないね」


 前世から連れてきた異能は、深淵の血族に受け継がれてきたものだ。この世界で戦うために生み出された存在――デルワーズの因子に根ざしている。けれど、そこから先は霧のままで、わたしの手は届かない。


「それなんだけど……自分でも原理というものが正直よく分かっていないの。属性に関しては、魔術理論の枠内に収まるのは確かだけど……」


 言いながら指が腰の辺りを探り、鞘の白に触れて止まる。


 フィルの視線が、わたしの腰の剣――白きマウザーグレイルへと移った。


「もしかして、その剣に何か秘密があるのかな? それは魔道具なのかい?」


 革越しに熱が滲んでくるみたいで、わたしは指先で鞘をそっと押さえた。


「さあ……わたしにもよく分からないわ。これは父の形見で、お守りみたいなものだから」


 笑みを作り、踏み込みすぎる好奇心をやんわりと受け流す。


「それにしてもフィルって、本当に博識ね。どこで魔術を学んだの?」


 問いかけると、彼は少し照れたように笑う。


「僕は、リーディス王国にある王立魔術大学で魔術を学んだんだ」


 その名が落ちた瞬間、風の匂いが急に砂っぽく濃くなる。唾がうまく落ちていかず、舌の付け根だけが重い。ヴィルから聞いた――父が母をさらい、国を後にしたという話。


 濡れ衣に違いない。父はきっと、母を守るためにそうせざるを得なかったのだ。


 そう信じてはいる。けれど……そのせいでわたしたちの家族が母さまの故郷と距離を置かざるを得なかったと思うと、胃の底が硬くなる。


 憧れだったリーディスの景色は、霞んで遠い。母さまの面影と共に輝いて見えたその地も、家族を誤解する人々がいるかもしれないと考えると、素直に「行きたい」とは言えなかった。


 それでも――。魔術の中心として繁栄し、古今東西の知が集まる地だと知った今、胃の底が小さく揺れていく。リーディスを訪れることは、母の故郷を知るだけでなく、わたし自身が成長し、真実を探すための旅になるのかもしれない。


 照り返しの白い光の中で、掌の内側に小さな灯がともる。消えないように、息をひとつ整えた。

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