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ただの魔術だなんて言わせない

 淡い冬光を纏った草原を横切る足音が、遠い草の面に小さな波紋を置いた。


 半身だけ振り返ると、ヴィルが戻ってくる気配が空気の密度で伝わってくる。どんな表情で、何を抱えて歩み寄るのか。次の一言が、わたしたちのあいだにどんな揺れを残すのか。


 前髪を撫でる風は乾いて冷たく、木々のない地平は透きとおる静けさを保っていた。わたしは唇を噛まず、胸の奥で一度だけゆっくり息を整える。


 ここへ来るまで、幼さと前世の輪郭に振り回されていた。けれど茉凜との会話が、進むべき向きを静かに揃えてくれた。十二の無垢、二十一の自覚、そして剣士としての誇り。その三つが、今は胸の奥でひとつの重さになっていた。


 柄は冷たい。けれど奥にいる茉凜の呼吸は明るく、困ったように、興味深げに揺れていた。まだ何も始まっていないのに、内側で小さな鈴が鳴る。


 ヴィルは落ち着いた歩幅で近づき、距離が縮むほどに強張った眉がほどけていく。


 わたしは頬をわずかに緩め、誤魔化しでも甘えでもない静かな決意を顔に置いた。


「すまん、待たせたな」


 短い一言。低く抑えた声に、何かを確かめたい遠慮がにじんでいる。彼の視線は、わたしの心の温度を覗き込もうとしていた。


「ううん、気にしないで」


 自然に返すと、彼の瞼がほんの少し持ち上がった。


 まだわたしは半人前。守るべき相手なのかもしれない。けれど、今日はその印象を上書きする日だと、足裏に触れる草の硬さが告げていた。


「じゃあ……準備はいいか?」


 確かめる声の奥に薄い曇りがある。なぜわたしが剣を交えたいと言い出したのか、彼にはまだ掴みきれていないのだろう。


「ええ、いつでも……」


 頷くと、茉凜が小さく息を飲む気配がした。緊張ではなく、背に置いてくれる手のような気配だった。


 剣先と剣先が語り合う。その奇妙で、わたしなりに真摯な意図は、まだ遠い未来の手がかりに過ぎない。けれど、この一合がわたしを少し変える。その確信だけは、身体の中心で静かに熱を宿していた。


「……そうか」


 それ以上は言わず、彼は眉間に皺を寄せて息を吐いた。余計な演出はない。ただ真摯に、わたしの望みに応じるという意思の重みだけが漂う。


「ヴィル、わたし……最初から全力で行くから」


 濁りの残る冬空の下で、声は意外なほど素直に出た。甘えも苛立ちも臆病も、今は透け、芯だけが残る。


「わかった」


 右足が引かれ、腰が沈む。迷いがあろうと、対峙した相手に全力で応えるのが彼の礼儀であり矜持だ。わたしが誰であれ、親友の娘でも、年若い冒険者でも、剣を交えるなら、ここにあるのは互いの本気だけだった。


 風が旋回し、草原の面がさざめく。遠くで野鳥が一声鳴いた。


 視線が交差する刹那、彼の瞳の奥で戸惑いと名づけがたい光が混じった。過去の影か、新しい芽か。その判別は、まだ早い。


 掌に収まる剣の冷たさは心地よく、息の白さは小さな旗のように揺れた。茉凜は息を凝らし、見守っている。


「いつでもいいぞ。どこからでもかかって来い」


 厳しい師の促しに似て、家族を知る者の声にも似た低音。


 わたしが求めてきた、曖昧な何か。その輪郭のないものへ向けられた、静かな招待状のようだった。


 ひとつ呼吸を整え、一歩出る。頬に冷えが触れ、鼓動が呼吸に重なる。それは、未来へ踏み出す合図の息。


「ミツル・グロンダイルが願う。我が器に集え、精霊子よ……」


 頭の奥で、白い領域が静かに開く。


 翼で飛ぶわけではない。


 背で大気を押し、腰と膝のまわりに散らした小さな〈場裏〉で姿勢を殺し、足もとに薄い圧を敷く。そう動きたい、と願うだけでは足りない。どう動けば壊れないかまで、身体が知っていなければならない。


 呼び込んだ精霊子が、意図を細かな変換へほどいていく。背を押す圧、足もとを支える流れ、行き過ぎる身体を留める小さな制動。幾度も試した軌道が、白の〈場裏〉の内側で静かに息を始めた。


 わたしはその名を内で確かめる。


 ――深淵の黒鶴。


 前世で畏怖と畏敬の名で呼ばれた異能は、今世の精霊魔術の姿を借りて顕現する。けれど、それは願いだけで起こる奇跡ではない。記憶と理屈と身体の反復が、ようやくひとつの術式として結ばれたものだった。


 正面を見据え、身をわずかに沈める。足もとで草がさらりと鳴った。


 心が熱を帯びる。


 彼がこの状況をどう見ているのかは分からない。守る者としての気遣い、親友の娘への戸惑い、そして期待。そのすべてを感じながら、わたしは決意する。


 今ここで、この名を自分の声で世界に刻むことを。


 唇を一度きゅっと結び、胸の奥から吐き出した息が、白く冬空へほどけていく。


 喉の奥がひりつき、鼓動は暴れるように速い。声を張る瞬間、膝の内側がほんのわずか震えた。


「来いっ……黒鶴。〈場裏・白〉、展開。最大戦速でいく――!」


 その声が、ひりつくほどの静寂を割る。


 足もとに深い闇が口を開けた。伸びてくる手は絡め取ろうとするのに、冷気は背骨を撫でるように這い上がり、背筋の奥でかすかな怯えを咲かせる。


 けれど、不安はない。


 茉凜の光が、そこに在る。


 伸ばした手に、温かな手が触れた。触れた瞬間、穏やかな力が流れ込み、震えは内側からほどけていく。耳のそばで風が鳴り、さらに奥で翼のかすかな震えが重なった。


《《だいじょうぶ……いっしょだよ》》


 茉凜の声が、黒い淵の底へ小さな灯を置いた。


 背から現れた黒い塊は、ゆっくりと翼へ形を変えていく。羽ばたくたび、先端から零れる微光が闇を切り分ける。


 けれど、翼は飛ぶためのものではない。


 肩甲骨のあたりで大気が弾け、背後の草が低く伏せた。膝、腰、肘のそばで小さな白い〈場裏〉が瞬き、行き過ぎようとする身体を、見えない指先で支える。足もとには薄い圧が敷かれ、地面の硬さがほんの一瞬だけ遠のいた。


 黒い翼は、わたしと茉凜のかたち。


 動くための力は、白の領域にある。


 瞼を上げ、ヴィルを見る。


 空気は冷え、草の匂いが薄く寄る。張り詰めた冷気の中、鼓動だけが内側を満たし、言葉の間が細く伸びた。


「……これをただの魔術だなんて言わせない。その名は『深淵の――黒鶴』。これは、わたしと茉凜を結ぶ絆の証。わたしたちは、ふたつでひとつのツバサなのよ」


 言葉が空気の膜を震わせ、背の翼が金と銀の微光を散らす。風がそれを舞い上げ、短い虹の欠片を織った。


 彼の鋼色の瞳に、かすかな感嘆が走る。真剣の底に、美しさの実在に足を止められたような戸惑いと称賛が並んでいた。


 その眼差しを受けるたび、胸の奥で針先の疼きが走る。


 あどけないだけのわたしではない。


 そう告げる、甘い震えだった。


「『クロツル』か……お前はただの幻だと言っていたが、その黒い翼にはちゃんとした名前と意味があったんだな。前から思っていたが、本当に綺麗なものだ……」


 不器用な感嘆ほど、心に沁みる。


 黒い羽根を幻視ではなく、意味を持つ存在として受け取ってくれたことが、何より嬉しかった。


「あなたにそう言ってもらえると嬉しいわ。これはわたしの思いが形になったもの。そして、とても大切なものだから……」


 自分にも聞かせるように静かに応える。


 闇に誘われ、淵で揺れた日々を越え、わたしは深淵の黒鶴を心の形として名乗る。


「そうか……」


 短い返事には安堵が混じっていた。


 同じ地平、同じ冬の風を吸い込んでいる。それだけで十分な証だった。


 頬に冷えが触れ、名残の光が薄く舞う。


 柄を握る手に、確かな温もりが残っていた。単なる武器ではない。茉凜という意志が、そこにいる。


 ヴィルは黙って見つめていた。瞳には驚きと、微かに揺れる期待。あどけないわたしが、自分の道を切り開こうとしている。その光景に、何を思うのだろう。


 視線を合わせ、唇を細く結ぶ。頬の温度が、ひと息ぶん変わった気がした。これから交える剣は、訓練でも試しでもない。


 それは、わたしが何者なのかを確かめるための一合だ。刃が触れた瞬間、言葉では届かなかったものが、きっと少しだけ形を変える。


「……行くわよ」


 告げると、ヴィルは深く息を吐き、ゆるりと構えた。子ども扱いでも同情でもない。少なくとも今この瞬間、彼はわたしの本気を受けようとしている。


「ああ!」


 短い応え。剣先が闇を払い、空気の張りが一段冷たくなる。周囲の微光は風に溶けて消えても、心の底には刻まれていた。


 右足をわずかに引き、軽く構える。姿勢の芯に、新しい強さが潜んでいるのが分かった。


 過去に縛られたわたしではない。未来に手探りで進みながら、自分で選ぶわたしだ。深淵から掬った光と、茉凜の心が紡いだ黒い翼が、ここに立たせている。


 ヴィルの瞳に小さな火が灯る。


 試すべき相手としての灯り。


 空気に走る微かな電流が、声なき対話となって肌を撫でた。


「――来い……」


 静かな誘いは、挑発であり承認でもある。臆する理由はない。風が頬を撫で、茉凜が剣の中で息を潜める。


 わたしは頬をわずかに緩め、ヴィルの前へ歩み出た。


 名残の光が揺れ、刃の冷えが指へ戻る。ここから先は言葉ではない。剣と剣が語り合い、深淵を越え、黒鶴の名を背に、一歩ずつ確かな未来へ踏み込んでいく。


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