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理屈のふりをした本音

 微かに肌を撫でる風が、わたしたちのまわりをさらりと掠めていく。ヴィルはスレイドの手綱を持ち直し、蹄の向きと周囲の間合いを一度だけ確かめた。洗練とは程遠い仕草なのに、必要なものをひとつずつ置いていくような慎重さがあった。


「じゃ、その前にスレイドを馬止めに繋いでくる。少し待っててくれ」


 ヴィルはいつになく素直な声で告げた。淡い曇り空の下、その横顔は穏やかで、わたしの中に残っていた緊張が、知らないうちに少しだけほどけていた。


「そうね。さすがの百戦錬磨のこの子でも、びっくりしちゃうかもしれないしね」


 スレイドの耳が、わたしの声にぴくりと動いた。長い付き合いの相棒でも、これから始まるのは遠慮のない剣戟だ。刃の響きは、きっと馬の胸にも届く。


「そういうことだ。お前が全力でやるっていうんだからな」


 ヴィルは軽く頷き、手綱を引いて歩き出す。広い背が、冬の光の中へ少しずつ遠ざかった。


 残された練兵場は、急に音を失ったようだった。草の先が風に揺れ、湿った土の匂いが足もとから立つ。胸の奥に宿った熱だけが、まだ行き場を決められずにいる。


《《みつるぅ……》》


 耳の奥で、茉凜の声が低く伸びた。


「なにか?」


《《もう、なにかじゃないわよ。あなた何考えてるの? ヴィルと打ち合うだなんて、どういうつもり? ちゃんと目的を説明して協力してもらおうって言ってたじゃないの》》


 いつもより硬い響きだった。怒っているというより、心配している。けれど、その心配の角が、今は少しだけ鋭い。


 わたしは目を伏せる。冬枯れの草が靴先に触れ、かさりと小さく鳴った。


「……ごめんね、茉凜。急にこんなわがままなことして」


《《謝るくらいなら、最初から説明してよ》》


 その言い方があまりに茉凜らしくて、胸の奥が少し緩む。けれど笑ってごまかせるほど、わたしの中は軽くなかった。


《《この前話し合って決めたじゃない。『王家の銘無しの聖剣とマウザーグレイルを触れ合わせて、黒い記録媒体の時みたいに共振を引き出して正体を探る』って》》


「その通りだけど?」


《《だからわざわざ安全な場所を選んだのに、あなたったら……》》


 言い分は正しい。だからこそ、すぐに返す言葉が見つからない。


 わたしは柄へ指を添えた。白銀の硬さが、掌へ冷たく沈む。


「茉凜の言いたいことはよく分かってる。でもね、わたし思ったの」


《《なにをさ?》》


「剣と剣は、本気で打ち合ってこそ、互いの奥に潜むものに触れられるんじゃないかって……」


 口にしてみると、ずいぶん曖昧な理屈だった。けれど、胸の奥では妙に真っ直ぐ立っている。


《《うーん……つまり、剣と剣で語る……ライバル同士が拳を交えた先で通じ合う、みたいな熱い展開を狙ってるわけ?》》


「ふっ……」


 思わず笑ってしまう。茉凜はいつも、難しいものを少し可笑しな形にして、こちらへ返してくれる。


「そんな感じかもね。本気の打ち合いの中で、持ち主同士が交わす強い情感が刃と刃を通して伝わって、剣の中に眠る何かを呼び覚ますかもしれない。あの銘無しの聖剣とマウザーグレイルに縁や絆があるならば、ね……」


《《まあ、わたしが剣の中にいるってこと自体おかしな話だし、その説だっていまさら驚くことでもないけどね。でも……やっぱり無茶だよ。何もわざわざ挑戦状を叩きつけなくても……》》


「いいんだよ、これで……。わたしがそうしたいって思うんだ。彼と本気で向き合いたいしね。一番いい方法は、きっとこれなんだよ……」


 声は静かに出た。自分で思っていたよりも、ずっと。


 茉凜が黙る。風がひと筋、ドレスの裾を持ち上げて落とした。


《《だからってねー……あなた、朝のこと根に持ってない?》》


「違うって。あれは関係ない」


 少しだけ早口になる。言ってから、自分でもその速さに気づいた。


 朝の一言が、まったく棘を残していないわけではない。けれど、今ここに立っている理由は、それだけではなかった。


「ただ……わたし、自分が分からなくなっていただけ。だからやるの。いろいろとすっきりしたいから」


《《はぁーっ……。まあ、あなたがそうしたいっていうなら、わたしは止めないけどさ》》


 大きな溜息。呆れたふりをしながら、最後には隣に立ってくれる息だった。


「茉凜……」


《《わたしとあなたは、どこまで行ったって一蓮托生だもんね。だから、全力で支えるのみっ! それがわたしのしたいことだから。よーし、やるぞ》》


 その明るさに、胸の内側が少し温まる。


「ありがとう、茉凜。助かるわ」


 柄をそっと撫でた。見えない髪を撫でるつもりで。剣の奥にいる彼女が、少し得意げに胸を張ったような気がした。


 けれど、言わないままではいられないことがあった。


 ヴィルの背が、遠くの馬止めのそばで一度だけ止まる。彼はスレイドの首筋を撫でている。何でもない仕草のはずなのに、その指先に残る気遣いが、目の奥へ染みた。


「……茉凜には、本当の理由を説明しておくわ」


《《うん……》》


 短い返事が、剣の内側から静かに返る。


 わたしは深く息を吸った。土の匂いが、肺の底へ沈む。


「朝、わたしがむくれているとき、ヴィルの瞳が、少し変だったの。遠いものを見ているみたいで……あなたも、何か感じなかった?」


《《そういえば、そうかも。変だなって思ったけど》》


「わたし、あれは父さまのことを思い出していたんじゃないかって思ったの」


 口にした途端、胸の奥に古い痛みが触れた。


 ヴィルは父の親友だ。わたしを大切にしてくれる理由の一部には、きっとそこがある。けれど、それだけだと思うたび、どこかで息が引っかかる。彼の沈黙には、いつも、名前をつけにくい温度が混じっている。


「ヴィルは、わたしを守ろうとしてくれる。でも、父親になりたいわけじゃない。なれるはずもない。だから時々、優しさの置き場所を間違えるんだと思う。真面目な顔をするのが苦手で、余計な軽口で隠してしまう」


《《まぁね。ヴィルってほんと不器用だし。……はっきり言ってくれればいいのに。だから誤解ばっかり招くんだ。馬鹿だよ》》


 刃の奥で、茉凜がむっとした声を出す。


 わたしはかすかに笑った。草の匂いが、ひんやりと鼻先を抜ける。


「でも、それが彼なりの優先順位なのよ。誤解されようと怒鳴られようと構わない。わたしが無事なら、それでいいって思ってる。……馬鹿みたいにね」


《《うん。馬鹿だね》》


「でも、すごい人だとも思う」


 その言葉だけは、まっすぐ落ちた。


 ヴィルの背を見つめる。遠くにいるのに、なぜか近い。近いのに、触れてはいけない距離がある。


「でもね、わたしが求めているのは、父親みたいな存在じゃないのかもしれない」


 言った瞬間、指先に力が入った。


 しまった、と思うほどではない。けれど、声に出すにはまだ早いものを、少しだけ外へ零してしまった気がした。


《《それで、その曖昧な何かを追いかけてるってこと?》》


「わからない」


 即座に答えた。分からないから、苦しい。


「でも、誰かを大切に思うのに、どう触れればいいかわからない。……そういう迷いがあるだけで、もう前とは違うのかもしれない」


 茉凜が小さく息を吐く。その吐息は、責めるものではなかった。


 しばらく、風だけがふたりの間にあった。


「わたし、ヴィルに父さまの影を重ねていたのかもしれない。……でも、それだけじゃない気がするの。子どものまま泣きたいわたしと、平気な顔で立っていたいわたしが、同じ胸の中で喧嘩してる。だから、彼の背中を見るたびに、安心するのに、少し苦しくなる」


《《……そうだね。難しいよね。歳が離れた二つの心がせめぎ合うなんてさ。気持ちを抑えたくても抑えられなかったり、無邪気でいればいいのに変に冷めてたり。あなたを見てると、それがよくわかるよ》》


 茉凜の声はやわらかい。いつもの軽さの底に、わたしをひとりにしない温度があった。


 胸のあたりが少し痛む。けれど、痛みの輪郭はさっきより穏やかだった。


「でもね、ヴィルはわたしに気づかせてくれたの。守られるだけじゃ前に進めないって。嘆いて待っているだけじゃ、わたしはわたしの道を選べないって」


 言葉の途中で、足裏に土の硬さが返る。


 自分の重さを、ちゃんと感じる。


「だから、剣で確かめたいの。彼に対しても、わたし自身に対しても」


《《……やっぱり、かなり面倒くさいこと考えてるじゃない》》


「そうね」


《《しかも、理屈っぽい》》


「それは否定しないわ」


《《でも、嫌いじゃないよ。そういう美鶴》》


 その一言に、息が少しだけ楽になる。


「わたし、強くなりたい。剣も魔術も、何より心を。いつか彼が言った『いい女』になりたいの」


《《いい女ってさ、ようするに出るとこ出てる『みりょくてきなじょせい』ってこと?》》


 思わず苦笑がこぼれた。軽口が、張りつめていた糸をやわらげる。


「違う違う、外見じゃないの。母さまみたいにやさしくて気品があって、信念がある――芯のある人。誰かに褒められるためじゃない。ただわたしらしく、しなやかで強くありたい。そのうえで、彼を驚かせたいの。ぎゃふんと言わせるくらいに、ね?」


《《うふへへ。そっか。いいね、それ。わたしも、そのシーン期待しちゃう》》


 茉凜の声に、温もりが混じる。


 遠くで、砂を踏む音がした。ヴィルが戻ってくる。


 わたしは顔を上げる。さっきよりも呼吸は落ち着いていた。何かに答えが出たわけではない。けれど、分からないままでも剣を握る準備だけはできている。


「まずは剣で語りかけるわ。彼に対しても、わたし自身に対しても」


 頬を撫でる風が心地いい。


 頼られるだけの子どもではなく、誰かの影でもなく、わたし自身の手で剣を握りたい。父に胸を張れるように。母の名を、怯えずに抱けるように。


 そして、茉凜にも、ヴィルにも、見届けてもらえるように。


 風を深く吸い込む。


 色づくでもなく、褪せるでもなく、ただ今のままのわたしで。


 誰かのためでも、過去の誰かでもない。自分の心で剣を握る。


 その輪郭のあいまいささえ、今だけは肯定できる気がした。

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