広い背中の熱と、舞い踊る剣
まるで柔らかな織物にくるまれるような人々の声が、背中のほうでまだ揺れていた。こみ上げた熱は細かな震えを伴っていたが、もうそれは恐れではない。ほどけた歓びが、内側からじわりと体温を上げていく。
「さあ、行こうか」
穏やかなざわめきを背に、ヴィルがスレイドを進める。別れの声が、冬の風に乗ってこちらへ届いた。
「またね、ミツルちゃん」
「がんばってねー」
さっきまで身を固くしていた緊張は、もう跡形もない。曇り空の下なのに、胸の中だけが晴れた空みたいに澄んでいた。息を吸うと、冷たい空気が肺の奥まで入り、そこに残っていたこわばりを少しずつ洗っていく。
「ヴィル……」
背中へ呼びかけると、彼は振り返らず、ただ馬上の気配を整えた。その揺るがぬ背に、わたしは唇をきゅっと結ぶ。
「ごめんね、さっきは少し取り乱したわ。あなたは……これを見せたくて、わざわざこっちへ来たのね?」
彼はかすかに首をかしげる。肯定とも否定ともつかない、いつもの不器用な間だった。
「お前は今まで、よくやってきた」
「うん……」
「逃げなかった。その結果がこれだ。王族としてじゃない。一人の人間として、あいつらはお前を見ている」
短い言葉が、静かな波紋みたいに広がっていく。
彼は多くを語らない。けれど、その短い言葉だけで、わたしが王都で積み上げてきた小さな選択が、胸の内でひとつずつ音を立てた。子どもを救ったこと。市場を走り回ったこと。聖剣の選定で逃げなかったこと。どれも、誰かに命じられたものではなかった。
「悪くないもんだろ、こういうのは?」
口調の端に、微かな笑みの気配がある。
「ええ、ほんとに」
人の中に、ひとりの人間として溶け込んでいる感覚。
彼はきっと、それをわたしに見せたかったのだ。罪の血や、王家の養女という名ではなく、王都を走ったミツルとして、人々の声に触れることを。
「ありがとう、ヴィル。うまく言えないけど……あなたの背中を見ていると、一歩を踏み出せる気がする」
彼は答えない。
けれど、その沈黙は温かい。風が髪を揺らし、薄雲ごしの光がゆるく流れていく。わたしはその背に、確かな安らぎを感じていた。
《《はーっ。わたしもほっとしたよ。みんないいひと。王都に来て、本当によかったね》》
茉凜の声は、遠い日の風みたいにやさしい。脳裏に、共に駆けた日々が色を取り戻す。潮の匂い、焼きたてのパンの香り、誇らしげな横顔。記憶は胸の奥で、あたたかな色を帯びていた。
「茉凜の言う通りね……ここに来て、本当によかった」
胸の内で、ほどけたものがふわりと明るくなる。怯えていた足もとが、今はこの街にそっと根を下ろしていく。未知への憧れも、懐かしさも、ここまでの絆も、みんな一緒に静かに息づいていた。
◇◇◇
王都の城壁を抜けると、砂塵まじりの風が頬を掠めた。遠くひらける草地には、まだ冬の名残が薄く残り、湿りを帯びた土がかすかな呼吸を返している。
「さあ、着いたぞ」
見晴らしのきく大地。
杭や標的が点々と据えられ、兵たちが覚悟を磨く練兵場。薄曇りの空の下、春へ向かう陽が斑の陰影を撒き、湿りを帯びた土には静かな潤いが満ちていた。
わたしは息を吸い込む。澄んだ空気が肺を洗い、さっきまでのざわめきは遠のいた。草の擦れる音、スレイドの蹄が乾いた地表をコツ、コツと叩く音。そのたび、内側で小さく返事が返る。
ここからが、わたしの舞台だと。
「ヴィル……」
「なんだ?」
「今日ここに来たかったのはね、少し試してみたいことがあったからなの」
「試す? 一体何を試すつもりだ? 俺は何をすればいい?」
落ち着いた声色に、思わず笑みがこぼれる。遠い標的と風の音だけがある場所は、余計なものを剥がしてしまう。問いだけが、まっすぐ残った。
「わたし……ここで、今一度、自分の力を確かめたいの」
決めた思いが声に滲む。彼は目を細め、真意を測った。
「その口ぶりからすると、魔術――いや、精霊魔術だったか。それとは違うような気がするが?」
わたしは唇を引き結ぶ。
求めているのは、魔術だけではない。もっと本能的で、確かな何か。父から受け継いだものと、わたし自身がここまで得てきたもの。そのふたつを、同じ場所へ立たせてみたかった。
「ええ、その通りよ、ヴィル……ここで、わたしと全力で打ち合ってもらえないかしら?」
彼の瞼がわずかに上がる。普段は感情を露わにしない彼の、ほんの小さな揺らぎ。わたしの提案は、予想の外だったのだ。
「お前、それ本気で言っているのか?」
嘲りもなく、真っ直ぐな問い。
乾いた土が小さく鳴り、スレイドの前脚が風に紛れる音を刻む。遮るもののない空間が、決意を試す舞台になる。
《《ちょ、ちょっと待ってよ美鶴。秘密ってそういうことだったの? 予定と違うって! なんでそうなるの?》》
慌てる茉凜を、わたしは敢えて無視した。
「ええ、本気よ。ここなら誰にも邪魔されない。遠慮もいらない。もちろん精霊魔術――いえ、『黒鶴』の力も借りる。ただし、〈場裏〉は白。大気の圧と流れだけに絞るわ。意味は、あなたならわかるでしょう?」
ヴィルは静かにうなずく。
「他の属性は封じて、大気の流れだけを使うのは体力や敏捷の差を埋める工夫か。……それをハンデと呼ぶのは、実にお前らしい」
「さすがにそれくらいはね。仕方ないでしょう? それと……」
「それと?」
「玉座の間でのこと……ずっと棘みたいに引っかかっていたの。言い訳するつもりはないけど、あそこは空間の制約がきつすぎて、とても全開とはいかなかったから。そう……あのときのわたしは、本気じゃなかったのよ」
初めての手合わせもそうだ。父の剣筋をなぞったに過ぎない。正面から見てもらえていない――そんな違和感が、ずっと残っていた。
ヴィルが肩越しにふっと振り返り、唇の端をわずかに吊り上げる。揶揄にも似た、試すような微笑だった。
「言ってくれるじゃないか。でもな、あの時は俺も重装鎧という足かせがあったんだが?」
「ああ、それもそうね」
「つまり、お互い本来の動きじゃなかったってわけだな」
「ええ。これでリベンジが果たせるわ。思う存分、どちらかが『参った』と言うまでやりましょう」
彼は周囲を見渡し、視線を戻す。水面みたいに静かな眼差しに、わずかな揺らぎが差した。
「いいだろう。だが、そのドレスはどうする? 汚れたり傷がついたら?」
からかいと気遣いの混じる声。
わたしは迷わず、淡く笑って首を振る。裾へ触れた風が、布を小さく膨らませた。
「心配はいらないわ。わたしはユベル・グロンダイルの娘よ。剣を振るうときは、舞台で踊る時と同じ気分なの。これじゃなきゃ興が乗らないもの」
その言葉が落ちた瞬間、ヴィルの横顔がわずかに強張った。
風が草の匂いを運び、わたしは黙って、その表情を刻む。
「どうしたの?」
問いかけると、彼はふっと吐息まじりに笑った。瞳の奥に、淡く霞む光がある。
「『剣で舞い踊る』、か――そいつはユベルが好んだ言葉さ。昔の俺は、そのたびにからかわれてる気がしてな」
「あら、意外とあなたも素直ね」
「当時は理解できなかった。だが、一度でも剣を交えればわかる。ユベルの剣はまさに踊り子だ。軽やかで流麗で、嘲るように見えて、本質は恐ろしい。捕らえどころがなく、どの角度からでも刃が来る――それが真髄だ」
懐旧の響きが、わたしの内側を震わせた。
曇天の薄明に満ちる練兵場。風が草を撫で、ドレスの裾がかすかに揺れる。小さな舞踏は、始まりの前奏のようだった。
「踊ってみせるわ。いつか父さまを超える、自分の舞を……」
わたしは柄を握り直す。冷えた金属が指腹に馴染み、呼吸がゆっくり落ち着いた。
父から受け継いだ舞い踊る剣を、わたしの黒鶴と結ぶ。血筋は鎖ではなく、糧になる。そう信じたいというより、そうして歩くしかない。
視線を合わせ、自然な笑みを交わす。
迷いが消えたわけじゃない。けれど、足もとの土の硬さだけは裏切らなかった。
「準備はいい? わたしはもう、いつでも始められるわよ」
促すと、ヴィルは一瞬こわばり、すぐに気遣うように眉を寄せた。
「ただ、問題がひとつある。今の俺の剣は、斬れぬものはないって言われる業物だ。本当に大丈夫か?」
わたしは小さく首を振り、笑みを深める。
茉凜の解析を思い返す。
「その点は心配いらないわ。茉凜の話だと、その銘無しの聖剣とマウザーグレイルは同じ材質でできているみたいなの。強度も同等よ。ちゃんと受け止められるから。それに……」
ヴィルの双眸をまっすぐに見据える。
疑いも怯えもない視線で。
「あなたの腕前なら、わたしの身体に当てるようなヘマは、絶対しないでしょ?」
彼はきょとんとし、すぐに唇を歪めた。
「当然だ。万が一でも、それだけはありえない。誓ってな」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩む。
けれどヴィルは、そこで終わらせなかった。肩越しにわたしを見て、手綱を軽く握り直す。冬の風に、革の乾いた音が小さく鳴った。
「条件を決めるぞ。首から上は狙わん。胴に入る刃も、俺が寸前で殺す。お前は思うようにやればいい。どのみちその剣には刃はないんだからな」
難しいことを、当然のように言える人なのだと、わたしはあらためて思う。驕りではない。わたしの剣を受けるために、危険の形をひとつずつ数え、引き受ける声だった。
「……そういうところ、本当にあなたらしいわね」
「褒めてるのか?」
「ええ。たぶんね」
ヴィルは鼻で小さく笑った。ほんの少しだけ、場の空気がほどける。
安堵とともに、わたしは鞍から軽く身を躍らせた。スレイドの足もとへ降り立つ。地面の弾力が足裏に返り、乾いた土の匂いがふっと立つ。
ヴィルもゆっくりと鞍を降りた。腰に下げた銘無しの聖剣の柄頭が、冬の光を細く返す。
ふわりと息を吐き、目を閉じて気持ちを整えた。
血筋も過去も、今は鎖ではない。舞踏の糧だ。
守られ、導かれてここまで来たわたしは、もう立ち止まらない。曇り空の下、地面の湿りが靴底へ静かに返り、わたしたちのあいだに、始まりの間が落ちる。
幕が上がる。
剣を握り、舞台に立つ。父の残像を越えて、真にわたしがわたしになるために。
そして――いつの日か、彼と並び立ちたい。父のように、剣を交わし合う者として。
けれどその響きの奥に、なぜか自分でも説明できない温もりが混じっている気がして、指先がかすかに熱を帯びた。




