民の声が、盾になる
「ねぇ、ヴィル……この方向で、本当にいいの?」
自分でも驚くほど、その声は喉の奥からするりと滲み出た。
ヴィルはスレイドの手綱を軽く引き、王都の中央通り――人通りの最も多い大通りへと、迷いなく進んでいく。石畳に蹄が触れる硬い音が響くたび、みぞおちがきゅっと痛み、冷えた空気が肺の奥で細く軋んだ。
「問題ない。これが城壁の外へ出る最短ルートだからな」
振り向かない声は簡潔で、いつも通りの温度だった。その平静さは、わたしの膨らみかけた不安や逡巡をあっさりと通り抜けていく。行き先に心を砕いていることなど、あの大きな背中は気づかないふりをしているようで、心細さだけがにわかに募った。
「でも……」
吐き出した声は、ガラスの欠片みたいに脆く、透明だった。わかっているのに、渦を巻く思いは重く、言葉にするのがひどく怖かった。わたしを乱す根は、ただひとつ。王家が盛大に執り行った、偽りの『選定の儀式』の記憶だ。王家が予め用意していた「聖剣の資格者」をその場で打ち倒し、自分の名と血筋をすべての者の前で晒すという、前代未聞の暴挙。第三王女を誘拐し、国を震わせた大罪人――ユベル・グロンダイルの娘であると、あえて公言したのだ。真実への道を切り開くためなら、すべてを引き換えにしても構わない。わたしはあの時、そう決意していた。
けれどあの日を境に、状況は一変した。いま王家の養女として扱われているのは、お祖父様――先王陛下グレイハワードが水面下で整えてくれた、政治上の足場に過ぎない。民が「大罪人の娘」であるこのわたしを、どんな感情で受け止めているのか、確かめようもない。むしろ憎悪や恐怖が、地中の根のように広がっているのではないか。そう思うたび、冷たい恐れが胃の底から突き上げてくる。
ヴィルは微動だにせず、前だけを見る。わたしの動揺は、彼には届いていないのだろうか。
――いや、そうじゃない。
彼は言葉より行動に重みを置く人で、その背後にはいつも、わたしを守ろうとする意志がある。だからこそ、指し示す先には迷いがないのだ。
「……わかったわ、ヴィル」
震えを帯びたはずの声は、意外なほど静かに落ちた。罪の血を晒した者として、人々の視線に晒されることは、避けられない道なのだ。
ヴィルは何も言わず、手綱をわずかに引いて、中央広場へ続く大通りに乗る。街区に入ると、人の気配が急に濃くなった。蹄が石を叩く音は喧騒の中に溶け、埃っぽい朝の匂いが風に混じる。遠くの甲高い呼び声、近くのひそひそ話。不穏な気流のようなざわめきが肌に触れた。思わず瞼を固く閉じた。跳ねる鼓動が、内側から小さな鋲のように突き立つ。息を細く整え、ざわめきを押し沈める。
「落ち着いて、落ち着くのよ……」
臆病な自分を叱咤する呪文。けれど時間とともにざわめきは厚みを増し、声と足音と息遣いが混ざって低い唸りになり、わたしを囲んだ。耳朶をかすめる音は、すべて嘲笑や軽蔑に変換されていく。想像の針が、自分を刺し続ける。
《《震えてるね、美鶴。わたしにはわかる。その意味もわかってる。でも……あなたなら大丈夫だよ。ヴィルを信じよう》》
茉凜の囁きが、頭の内側でそっとほどける。
――……それでも、逃げ出したい。
小さく震える身体を隠すように、ヴィルの大きな背へ顔をうずめる。布越しの確かな体温。細かな震えは、彼にも伝わっているはずだ。それでも言葉はなく、ただ前だけを見て進む背に、わたしはすがるしかなかった。
ヴィルが手綱をわずかに絞った。スレイドの足が、中央通りのひらけた場所で静かに止まる。そこでようやく、ただのざわめきだった音が、ひとつずつ形を持った言葉へ変わっていった。空気の粒が言葉になって、耳朶を叩く。
「なあ、あの緑の髪の子って……噂になってた子じゃないか?」
「そうそう、ピンクの玩具みたいな剣ぶら下げて、街中を走り回ってるって子だろ? 有名な話だ」
「魚市場じゃ、山のように積まれた帳面を、あっという間に片づけちまったって話もあるぜ」
「選定の儀式の時にも、たった一人で飛び込んで……資格者を倒しちまったって」
「……でも、本当にあの子でいいのか?」
「少なくとも、うちの子は助けてもらった」
「たしか、名前は……ミツル……だったな?」
ぽつりぽつりと落ちる声は、想像していた嘲笑でも軽蔑でもない。興味や警戒、そしてかすかな熱が混ざっている。こわばっていた緊張が、一息ぶんだけほどけた。背中に顔を埋めたまま、そっと瞳を開く。視界は制服の布地と継ぎ目。けれど、耳元の声が、焦点の合った視線を示していた。
「あーっ、ミツルお姉ちゃんだ!」
鮮やかな幼い声。
顔を上げると、小さな手が嬉しそうに振られている。茶色の髪、あどけない瞳。見覚えがある。路地から飛び出し、馬車に轢かれかけた、あの子。あの時は躊躇う暇などなかった。ただ抱きとめた。人目も立場も、力の露見も、頭をかすらなかった。ただ目の前の命を失わせないという衝動だけが、身体を動かした。怯えも嫌悪もない、真っ直ぐで無邪気な笑顔が、凍えていた内側をやわらかく溶かしていく。
気づけば、わたしは鐙へ足を掛けていた。ヴィルの手が一瞬だけ動きかけ、けれど止まる。スレイドは賢く首を下げ、わたしはその背から軽く地面へ降りた。同じ地面に立って、同じ目線で話したかった。まわりの群衆の視線は、いまだけ少し遠い。
そばへ歩み寄り、膝を曲げて目線を合わせる。強張っていた頬が、自然に緩んだ。
「そうだよ、ミツルだよ。元気にしてた?」
「うん。ぼくは元気だよ!」
はじける笑顔。その直後、母親らしき女性が人混みを掻き分けて、慌てて駆け寄ってきた。
「あの、その節は大変お世話になりました。あなたのおかげで、この子は命拾いをしました。なんとお礼を言ったらいいか……!」
深々と頭を下げる彼女に、思わず手を振って背を少し丸める。気恥ずかしさが頬に温度をのせた。
「いえ、気にしないでください。あの時はたまたま通りかかっただけですから。でも、無事でほんとうによかった」
男の子へ向き直り、声をやわらげる。
「いい? これからは、広い道へ出るときは立ち止まって、右を見て左を見て、ちゃんと何も来ないか確認してから渡るのよ。危ないからね」
「うん、わかった!」
素直な返事。小さな頭をそっと撫でると、指先にあたたかい髪の感触が移る。胸の内に、ふんわりと灯りがともった。
ふと顔を上げると、いつの間にか、わたしたちの周りにぐるりと人だかりができていた。薄曇りの通りに、いくつもの視線が咲く。はじめは遠巻きな好奇だったものが、目の前のやりとりに、一斉にやわらかい色へと変わっていく。
「人が集まってると思えば、なんだミツルちゃんじゃないか。最近市場で見ないから、みんな心配してたんだぞ!」
「またうちのパン屋にも来てくれよな。焼きたてのプレッツェル、たっぷりサービスするからよ」
あちこちから上がる声が、わたしを縛っていた音の棘をほどいていく。市場の荒くれ者、パン籠を抱えた青年、剣を磨く職人。覗き込む瞳には、怯えでも嘲りでもない、親愛の色が混じっている。
「それにしても、あの時はびっくりしたぞ。選定の祭りに、伝説のメービス王女が復活したってな」
「そうそう、今や王都一番の話題だ。いけすかない連中に、一泡吹かせたっていうんだからな。痛快痛快」
その言葉に、視界の縁がふっと揺れる。罪の名を背負った自分が、英雄のような噂の中心にいることの不思議。
「活躍が認められて王家の養女として迎えられたって、知り合いの憲兵から聞いたぜ。なんでも、先王陛下が後ろ盾になったらしい」
「へーっ、粋なことするじゃねぇの」
「ああ、それ俺も聞いたよ。たしか、行方知れずのメイレア王女の子供なんだって?」
「王女って……たしか賞金首のユベル・グロンダイルに拐われたんだろ。違うのか?」
名を突かれ、胃の底がずくりと痛む。けれど、すぐに別の声がそれを打ち消した。
「いやいや、あの誘拐話も、どうもそのままじゃないらしいぞ。詳しいことは知らねぇが、王宮じゃ昔から別の事情があったって話もある」
「ってことは、王女は拐われたんじゃなくて、あの“閃光”の剣を見込んで連れていった、なんてことも考えられるな」
「旅の果てのロマンスとか、あったりしてね」
息が、止まる。
――どうして?
真相は一部の人間しか知らないはずだ。どこから、どうしてそんな噂が。
「じゃあ、王家の養女として迎えられたってことは、その話が正しいってことじゃないか?」
「ああ、そうだろうな」
「間違いない!」
納得の合いの手。怨嗟や嘲りからは遠い空気が、街へゆっくりと染み渡っていく。彼らの視線は、思っていたほど冷たくなかった。正確な真実を知っているわけではないのだろう。けれど、知らないままでも、わたしを敵として扱わない。そのことが、胸の奥で固く縮んでいたものを、少しずつほどいていった。
「ああ……」
ここに、わたしは確かに立っている。ただ走り回っていただけだと思っていた王都での日々が、思いがけず彼らの心に温もりとして残っていた。騒ぐ噂と、静かな受容のはざまで、それでも前へ進む道がある。そんな予感が、体のどこかで静かに息を始めた。
「ミツル……」
馬上の高みから、ヴィルが声を落とす。
はっと顔を上げる。薄曇りの光の中、彼は静かに微笑んでいた。甘い笑みではない。けれど、わたしがいちばん恐れていたものを、もう確かめ終えた人の顔だった。ざわめいていた心が、その視線の前で少しずつ落ち着いていく。
「どうだ? お前が恐れていたようなことは起きたか?」
その問いで、胸の中でばらばらだったものが、やっとひとつに結びついた。彼がわざわざ人通りの多いルートを選んだ理由。そして、いつかの夜に彼が告げた言葉の、本当の意味を。
『いいんだ。お前はこれまで通り目を引くちょっと変わった女の子で街を歩いていろ。仮に王宮の連中が何か咎めるようなことを言い出したとしても、民衆の反感を買うことになる。……それが今の、お前だけの武器だ』
あの時、彼は笑ってそう言った。あれは、ただの慰めや放任ではなかった。わたしが王都で積み上げた日々そのものが、いつのまにか盾に変わっていたのだ。
「……ううん」
首を横に振る。彼を見上げるわたしの声は、熱を帯びて、澄んだ水音みたいに外へこぼれた。
「わたし、間違ってた。わたしが考えてるほど、世界は真っ暗闇じゃなかった。王都を走り回っていた日々にも……ちゃんと意味があったんだって……今、気づけた」
「そうだ。お前はお前が信じる道を進めばいい。俺は、どこまでだってそれを支える。背中は俺が預かろう」
ヴィルの真っ直ぐな言葉は、剣ではなく、背中から差し出される盾のようだった。怖さが消えるわけではない。罪の名が、消えてなくなるわけでもない。けれど、前を向いたとき、背後に誰かの手がある。その事実だけで、足もとに残っていた震えが、少しずつ静まっていく。内側で固く結ばれていた何かがほどけ、喉の奥にあたたかい息がひとつこぼれた。
彼の背後で、人々のまなざしと囁きが立ち上る。冬の名残はまだ冷たい。けれど、石畳の上に広がる声は、わたしを押し潰すものではなかった。むしろ、足もとを確かめるように、そっと輪を作っている。
わたしは、ヴィルの差し出した大きく無骨な手を取った。再びスレイドの背へ乗る。まだ少しだけ冷えの残る指先が、彼の掌の熱でほどけていく。革の手綱が鳴り、スレイドの首が静かに前を向いた。選んだ道の足もとに、確かな刻印が残るのを感じながら。
わたしは、もう一度だけ王都の人々を見た。怖かった視線は、まだそこにある。けれど、もう針ではない。いくつもの生活の声が、噂になり、記憶になり、いつの間にかわたしのまわりへ薄い盾を作っていた。
その盾を胸に抱えたまま、わたしたちは城壁の外へ続く道へ、ゆっくりと歩み出した。




