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広い背中の熱と、少しだけ弾む企み

 冬の朝は、世界を薄氷で包むように静かだった。頬に触れる空気はきりりと冷たく、吐いた息は白い輪郭だけを残してすぐにほどける。離宮の庭を渡る足音は霜解けの水音のようにかすかで、わたしは冷気に負けまいとマントの襟元をぎゅっと握り、馬車寄せの前へ向かった。


 朝の景色の中に、凛と立つ影がひとつ。


 深紺の騎士団制服をまとった、ヴィルだ。背中に冬の淡い光を負い、その長身の輪郭だけが静かに浮き上がって見える。スレイドの手綱を撫でる飾らない所作を目で追うだけで、胸の奥がきゅっと音を立てて引き寄せられた。


 広い背筋は、今朝はいつもよりずっと頼もしく見えた。見上げる角度のせいか、それともカチッとした制服のせいか、普段の気だるげな雰囲気の奥にある『最強の騎士』としての威厳が、冷たい空気の中で静かに匂い立つ。思わず細く吐き出した息が、張り詰めた朝へ白く混じった。


 視線をずらすと、懐かしい愛馬スレイドの顔があった。逞しい体躯、薄曇りでも艶を失わない毛並み。変わらぬ存在感でそこに立っているだけで、胸の奥へ湯気のような温もりがゆっくり広がり、自然と頬が緩んだ。


「スレイド! 久しぶりだね!」


 弾む声に応えるみたいに、たてがみがかすかに揺れる。その小さな動きだけで、懐かしさが喉の奥を温めた。


「本当に元気そう。前よりずっと立派になったみたい。厩舎での暮らしはどうだった? 美味しいもの、たくさん食べた?」


 軽い声が冬の庭へほどける。たてがみを撫でていた指先の熱を残したまま視線を上げると、ふとヴィルの瞳と交わった。


 その眼差しは、細い糸でなぞるように、わたしの頭の先から足もとまでをそっと辿った。見つめ返すだけで、鼓動がひとつ早まる。


「……な、なによ、その目……」


 強がりの声音が、冷たい空気に触れて頼りなく薄れる。無意識にマントの袖を握りしめていたことに気づき、指先だけが先に焦った。ヴィルはそんなわたしを見て、意地悪く唇の端をゆっくり上げる。


「いや、スレイドもそうだが……お前も離宮で、随分と甘やかされていたんじゃないか?」


「……は?」


 聞き返したわたしに、彼はあくびを噛み殺すような、気の抜けた顔で言った。


「いや、気にするほどじゃないが。腰回りが前より少し、丸くなった気がしてな」


――っ!!


 言葉が、脳天から真っ直ぐに落ちてきた。


 頬が一気に熱を持つ。庭はこんなにも氷気を吸っているのに、焚き火の前へ放り出されたみたいに、全身の血がわっと騒いだ。


――落ち着きなさい、わたし。中身はもう、いい大人じゃない。十二歳の育ち盛りが少しふっくらしたくらい、大したことじゃない。「あら、失礼ね」って、鼻で笑って受け流せばいいんだ。


 頭の片隅で、前世の『大人のわたし』が冷静にブレーキをかける。けれど、口を突いて出たのは、思いきり余裕のない甲高い声だった。


「ヴィルっ! あなたね、レディに向かってそういう無神経なこと言うの、本当に最低よ!」


 怒鳴った瞬間に、あ、やってしまった、と思う。これでは完全に、図星を突かれてムキになっているただの子どもだ。


 けれど彼は、わたしの怒りなど風の音ほどにも気にしない様子で、ひらひらと片手を振った。


「冗談だよ、冗談。そんなに怒るなって。まあ、離宮でのんびりしすぎてたのは事実だろう? しばらく剣の鍛錬もしていなかったみたいだし――」


 彼の言うことにも一理はある。離宮に来てからというもの、わたしは魔術大学との行き帰りを馬車に預け、大図書館にこもりきりだった。自室に戻っても机に向かい、深夜まで茉凜と二人三脚の知の探求を続けている。


 「三食しっかり」という茉凜の厳命に加えて、リディアの差し入れは湯気で指先まで温めてくれる。断れるはずもなく、体は静かに甘やかされていく。そうしているうちに、彼の言葉を否定しきれない自分が、また悔しかった。


「――まぁ、少し動けば引き締まるだろうさ。なんたって育ち盛りなんだからな。そのくらいがいい」


 淡い光のなかで漂う声は乾いているのに、言葉の余白に微かな心配が滲んでいる。悪意のない、ただの子ども扱い。それが嫌で否定したいのに、肌のどこかが、彼の不器用な優しさまで拾ってしまう。


 ヴィルは曇天を仰ぎ、白い息がふわりと揺れた。横顔は静かで遠い。何でもない仕草のはずなのに、胸の奥がきゅっとすぼまる。


 熱を持った頬を深呼吸で冷ましながら、わたしは彼の広い背中を睨みつけた。


「……覚えておきなさいよ」


 震えそうな声を、意地で押し上げる。彼はやっぱり振り返らず、片手をひらりと振った。ひと呼吸ぶん、頬に当たる風が冷たくなる。その無造作が、胸の小さな火へ風を入れた。


 ――いつか、絶対に見返してやるんだから。


 子ども扱いは、もうおしまい。まだ幼い輪郭のわたしだけれど、いつか――母のようにしなやかで、優雅で、誇り高い大人の女性になってみせる。鈍感なヴィルですら言葉を失うような、静かな気品をまとってみせる。


 ――絶対に、なってみせるんだから。


 その言葉を、胸の内側だけで繰り返す。唇は動いていないのに、喉の奥へ小さな熱が残った。その姿を思い浮かべるだけで、曇り空の下でも消えない細い灯が、胸の内側をやわらかく温めていく。


◇◇◇


 離宮をあとに、わたしたちはスレイドに揺られ、なだらかな下りを王都の街区へ進んだ。葉を落とした並木が等間隔に続き、冬の寂しさをそのまま映している。風は薄い刃を肌へ寝かせるように冷たいが、不思議と体は凍えなかった。


 理由は、目の前の背中にある。ヴィルの背。


 わたしの前で手綱を握る彼の背中は、冷たい風を遮り、穏やかな熱を含んだ壁となってわたしを守ってくれている。馬が歩みを進めるたび、マント越しに彼の体温がじんわり移ってきた。革紐の乾いた匂いと、外套に残った体温の気配が、冷たい風の中でかえってはっきりする。言葉にしなくても、ひとりではないのだと身体が先に知ってしまう。


「ここって、雪が降ることってあるのかな?」


 沈黙が少し恥ずかしくなって背に問えば、彼は面倒くさそうに少し身をひねり、口元だけを小さく弧にした。


「リーディスは大陸南部の海沿いで、気候は温暖だ。山岳地帯が壁になって、寒気も流れ込んでこない。だから、雪なんて滅多に見られないさ。豪雪なんてことになったのは……たしか『何百年か前』の、異常気象の時期くらいだったはずだ」


 異常気象――という言葉に一瞬だけ引っかかる。けれど、手綱の金具が小さく鳴り、スレイドの歩みがひとつ揺れた。その揺れに合わせるように、いまは気に留めるのをやめた。


「へぇ、そうなんだ。知らなかった」


 感心の息が白くほどける。彼は大人の落ち着きを纏ったまま、淡々と続けた。


「だからこそ、冬小麦なんてものが育つ。北方のようにはいかないからな。気候ってやつは、その土地に暮らす人間の生き方を大きく決めていくものだ」


 言葉が、記憶の底をそっと撫でた。冬小麦。秋に種を蒔き、冷たい季節を越して、春先にまた伸びていく小麦。前世の教室、くたびれたノートの片隅に書いた一行が、胸の底で小さく灯る。


「冬小麦って……たしか秋に種を蒔いて、春先に育つ小麦、だよね?」


 背中越しの問いに、彼の肩が驚いたようにわずかに揺れた。すぐに、その気配は感心したように柔らぐ。


「ほう。さすがは物知りだな。箱入り娘には縁のない言葉だろうに。ユベルに教わったのか?」


「違うわ。本で読んだの。大図書館にはなんでも揃ってるから、いろいろとね」


 少し背伸びをした知識を披露して、口元が緩む。どうだ、と背中を見つめるが、彼から返ってきたのは、子どもを褒めるような気だるい声だった。


「ふーん、なるほどな。耳年増のお姫様ってわけだ」


「……っ、もう。いちいち一言多いのよ」


 せっかくの余韻を、彼は一瞬で台無しにする。またしてもペースを乱され、わたしは彼の背中を軽く睨みつけた。


 馬の歩み。乾いた風。背中からにじむ体温。記憶と現実のあいだで、思考の糸がほどけたり結ばれたりする。


「ミツル、行き先は城壁の外にある練兵場でいいんだな?」


 低く温い声が、冬の揺れを伝って耳に触れた。はっとして頷く。


「うん、そこでちょっと試したいことがあるから」


「あんなだだっ広い原っぱで、一体何を試すっていうんだ。……まさかとは思うが、魔術を全力でぶっ放そうってわけじゃないだろうな?」


 少し呆れたような響きが背から届く。わたしは彼の背中の後ろで、わざと意地悪に口元を上げた。


「うーん、それとはちょっと違う。……ま、着くまでの、ないしょってことで」


「やれやれ。面倒事だけは勘弁してくれよ」


 大きなため息が落ちる。彼は何も言わず、スレイドの歩度に合わせて前へ進んだ。ため息の気配はあるが、問いは重ねない。すべて読まれているのか、何も気づいていないのか、本当に判じがたい大人だ。


 どちらにせよ、この飄々とした背中をあとであっと言わせてやるのだと思うと、居心地は悪くなかった。


《《ねえ、美鶴。例の件、彼に説明しなくてもいいの? 予め知っておいてもらったほうがいいと思うんだけど》》


 頭の奥に、茉凜の声が細く触れる。わたしは柄へ指を添えたまま、ヴィルに悟られないよう息の下で返した。


「これでいいの」


《《なんで?》》


 口角が、勝手にいたずらっぽく上がる。


「ふふ……理由は茉凜にも教えてあげない」


 意外だったのか、短い沈黙が落ちる。続いた声には、微かな呆れが混じる。


《《あ……まさか、さっきのヴィルの発言に腹の虫がおさまらないって感じ? たしかに、いかにも彼らしいとは思ったけど……》》


 図星を突かれて、肩を小さくすくめる。冬の空気が、襟元から少しだけ入り込んだ。


「それも、まぁ無関係ってわけじゃないけど。違うの。もっと効果的なやり方があるって思ったから」


《《効果的? どういうこと?》》


「ここで話しちゃうと、つまらないでしょ。だから、言わない」


 前を行く背中を見上げる。広い面は、わたしの視線や企みに気づかないふりで、前方だけを見据えていた。


「秘密はね、着いてからのお・た・の・し・み・だから、いいの」


 胸の奥で小さな火花が弾け、声の調子が少し弾む。ただの子どもじゃないって、分からせてやるんだから。


《《なんだか、すっごく楽しそう。でも美鶴の悪巧みって、いつも『やりすぎヤバい』イメージしかないんだけど?》》


 風に触れるみたいに、肩をもう一度すくめた。


「あら、そうだったかしら? でも安心して、これはただの悪戯なんかじゃないわよ」


 自分でも驚くほど、声に芯が通る。秘密を抱えた子どものような、それでいて少しだけ背伸びをした微笑みが、頬の筋肉に宿るのがわかった。


「まあ、期待しておいて」


《《わかった。ここは美鶴劇場のお手並みを、拝見といきますか》》


 茉凜の気配が、ひらひらと遠くへほどける。ヴィルの背の向こうに王都の城壁の景色が開き、冬の空の色が少しだけ濃く見えた。


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