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冷たいブーツと、宙で止まる指先

 翌日、わたしは茉凜と念入りに話を突き合わせた末、ある目的のためにヴィルを呼び寄せる手はずを整えた。


 とはいえ、彼の動きはひどく掴みがたい。離宮という小さな世界の中で、彼は時に幻のように姿を消し、どこで何をしているのか、誰もはっきりとは知らないのだ。


「はぁ……」


 抑えきれない苛立ちと、宵の名残のような芯の冷えた不安を胸に抱えながら、わたしは慣れない長いドレスの裾を持ち上げ、広い回廊を行ったり来たりする。


 歩むたび、足元で擦れる絹の音が、人の気配がない廊下に吸い込まれていく。白い壁、磨かれた床、飾られた花々――どれも整然としているのに、肝心の彼だけがいない。


「本当に、どこにいるのかしら……」


 独り言は空気に溶けて消えた。遠くで鳥の声が響き、吹き抜ける風が黒髪を揺らす。その風の通り道に誘われるように、視線が開けた先へ導かれていく。


 そして――そこにいた。


 離宮の裏手に広がる小さな庭園。手入れの行き届いていない草むらの奥で、彼は長い脚を投げ出していた。


 陽光に照らされたくすんだ金色の髪が、草葉の間で鈍く光っている。片腕を枕にした寝顔は妙に穏やかで、荒れた旅路も王宮の緊張も、今だけは届いていないようだった。


 わたしは裾の重みを感じながら、ゆっくり近づいた。柔らかな風が、湿った土と青草の匂いを運んでくる。


「……ヴィル」


 小さく名を呼んでも、彼はピクリとも動かない。規則正しい呼吸の音だけが続き、冷たい空気を薄く揺らしている。


《《わっ、さすがはヴィル。フリーダムだぜ》》


 茉凜の呆れたような声が、頭の中でくすぐるように響く。


 これが、わたし付きの専任護衛騎士で、雷光の異名を取るリーディス最強の剣士。二人して呆れるしかないこの光景は、可笑しくて、なぜだか一度だけ息が止まった。


 だが、それこそがヴィルらしい。旅の途中でも、草の匂いの濃い場所を見つけると、昼間から転がって眠った。酒もあおるし、無神経な一言でわたしの神経を逆撫ですることもある。なのに、その気ままさだけは、彼以外の誰にも真似できない。


 けれど、いざ事が動く時彼は別人になる。瞳の光が冷え、余計な甘さが消える。荒野と戦場を渡った歳月が、そのまま姿勢になって現れる。魂の盟友が遺したひとり娘を守る。その誓いが、彼の歩き方を決めているのだろう。


 守られる側、という位置が、首筋に冷たく貼りつく。甘えてはいけないと頭ではわかっている。けれど、愛馬スレイドの背で背中越しに触れる体温や、汗と革の匂いが混じった息遣いが、どうしようもなくわたしを落ち着かせてしまう。


 父を慕う気持ちの行き先を見失って、彼に重ねているだけ。そう言い聞かせれば息ができる。けれど、その言い訳の薄さをすり抜けて、別の気配が零れる。名を呼ぶだけで、息の奥が小さく揺れる。


 年齢も、立場も、越えがたい。幻だ。呪文みたいに繰り返して、やっと平らになるのに、それでも時折、理由を越えた何かが指先をくすぐる。わからないまま、木漏れ日の粒みたいに。


――それにしても……こんなところで無防備に眠るなんて。


 細い指先を伸ばし、彼のくたびれたブーツのつま先にそっと触れた。硬く冷たい革の感触。その傷だらけの靴の冷えが、指先から胸の奥へとしん、と落ちた。


 ブーツから離した指を、彼の無精髭の生えた頬へ伸ばしかけて――空中で、息がひとつ詰まった。


――だめ……。


 触れた瞬間、何かが決定的に変わってしまう気がしたから。


「仕方ない。起こさずに、もう少しこのままでいてあげよう」


 空中に浮いた指をそっと膝の上に引き戻し、わたしはため息の代わりに、微笑む気持ちでその場に落ち着く。


 木々の葉擦れが、子守唄のように耳をくすぐる。やがて、夜更かしのせいで重くなった瞼が落ちていく。


《《こら、美鶴。あなたまで寝ちゃってどうするのよ。もう……》》


 叱るような声さえ、遠い音の欠片へと溶けてゆく。朧な意識の中で、わたしは彼と同じ深い眠りへと落ちていった。


◇◇◇


「おい、ミツル。起きろ……風邪ひくぞ」


 低く響く声が、現実へ引き戻す合図のように脳裏にこだまする。


 はっと瞼を開けば、すぐ目の前に彼の顔があった。朝の光よりあたたかく、少し戸惑ったようで、どこか微笑ましい。驚きで心臓が跳ね、鼓動が耳の奥をどくんと叩く。


「なんだよ、その寝惚けた顔は」


 楽しげに口元を緩める仕草に、頬がふっと熱を帯びる。夢の熱が現実にまで滲んだみたいで、どうにも平静を装えない。


「別に……ちょっと、驚いただけよ」


 差し出された手は大きく、傷跡を刻み、荒々しい風貌のまま不思議な熱を宿している。その指先に触れた瞬間、肩の力がほどけていくのを感じながら、わたしは引っ張り上げられた。


「そんなことより、あなたどうしてこんなところで寝てたの? わたし、ずいぶん探したんだから……」


 ドレスの裾の草を払いながら少し拗ねた口調で言うと、彼は素っ気なく返した。


「すまんな。ちょっと眠かっただけだ。それに、昼間は衛兵がしっかり固めてる。別に俺がべったり護衛する必要もないだろう?」


 その言葉の裏に、隠しきれない疲れの色が滲んでいるのを見逃せなかった。


「なによ、それ。まさか……あなた、夜にちゃんと寝てないんじゃないでしょうね?」


 問い詰める声音に、苛立ちが混じる。ヴィルは大きな手で無精髭を撫でながら、事も無げに言った。


「実はな、最近夜になるとネズミがちょろちょろしてるみたいなんだ」


「なんですって?」


「王宮の手の者か、他国の間者か。よくは分からんが、放っておくわけにいかんから、夜な夜な見張っている」


「どうしてそんなものが忍び込むの? 一体、何を狙っているわけ?」


 胸の奥がじくりと痛む。さっきまで頬に残っていた眠気が、冷たい水を浴びたように消えた。濃い不安がわたしを包む中、彼は底の見えない瞳で答えた。


「そりゃあ、お前に決まってるだろうが」


 あまりに平然とした物言いに、言葉を失う。訝しさが喉にせり上がり、声が裏返った。


「えっ……!?」


「いいか、お前はすでに『重要人物』なんだ」


 低く落ち着いた声が、ひんやりとした冬の空気に静かに溶けていく。細かな針のような言葉が、一つずつ胸に刺さり、じわり染み込んでいく。


「突如として選定の儀式に現れた、稀代の魔術師と噂の黒髪のグロンダイル。その裏の事情や正体、そして実力を測りたいと思う者がいても、何ら不思議じゃない」


 いつの間にか、指先が冷たく強張っていた。


 確かにカテリーナも言っていた――国家間の均衡が、不穏に揺らぎ始めている、と。


「それであなたは、わたしを守るために夜通し……」


「ま、それが俺の役目だ。なんたって専任の護衛騎士なんだから、当然だろう。違うか、ミツル?」


 軽く肩をすくめた仕草に、余裕の影が差す。けれど瞳の光は真剣で、それが冗談ではないと告げている。


「いや、ここはミツルお嬢様。あるいは『王女殿下』とお呼びするべきかな?」


 からかうような言葉とは裏腹に、彼がふざけてみせた一礼の角度は、皮肉なほど綺麗だった。


「もうっ、何言ってるの。からかわないでくれない?」


 わざと拗ねて返すが、彼は動じず、真っ直ぐにわたしを見据えた。


「何を言っているんだ。お前は第三王女メイレアの娘だぞ。血統的には何ひとつ不足ない。生まれ持った気品はもちろん、言葉遣いや礼儀作法だって申し分ない。俺から見ても、お前は十分にその資格を満たしている」


 その言葉とともに、彼が自然な動作で半歩だけ踵を引いた。忠誠心にも似たその視線が、手を伸ばせば届くはずの距離を、一瞬で遠ざける。


――違う。


 わたしが「お姫様」でいられるのは、前世の記憶と演技への慣れのせいだ。本当のわたしは誇れるものなど何一つないのに、彼はわたしの中に「王族としての資質」を見てしまう。


――そんなの嫌だ。


 わたしはただ、一人の人間として、彼と対等の場所で触れ合いたい。行き場のない感情に押し潰される前に、わたしは振り切るように言葉を紡いだ。


「そんなことはどうでもいいから……」


 視線を横に逸らす。思った以上に声が震え、頬がくすぐったい。


「ちょっと、ヴィルに頼みたいことがあるの」


「なんだ?」


「明日、少し外に出かけたいの。だからその……わたしに付き合ってくれない?」


 吐き出した瞬間、みぞおちの奥で小さな泡が弾けた。期待とも不安ともつかない名前のない気配が、心をゆらりと揺らす。


「それと……王都から少し離れた、できるだけ広い場所へ行きたいから、スレイドも連れてきてほしいの。……いい、ヴィル?」


 いつの間にか、彼の表情を切実に追っている。彼が断れば、その一瞬で脆い願いが砕け散ってしまう気がした。


「外に、か?」


 静かな問いに、彼の眉が動く。


「街に遊びに行くわけではない、ということか。では聞く。お前、そこで一体何をするつもりだ?」


「それはまだ、ないしょ」


 慌てて落ち着いた笑みを口元に貼り付ける。


「……怪しいな。お前、また何かしでかそうってわけじゃないだろうな?」


「あら、ひどい言われよう。心配しなくても、そんな大したことじゃないわよ」


 陽射しの揺らぎのような心持ちで、穏やかに装いながら、さりげなく付け加えた。


「それと、ちゃんと……『銘無しの聖剣』も持ってきてね。約束よ」


 わたしの言葉に、ヴィルは小さく首を傾げ、戸惑いを見せる。その仕草が、喉元をかすめる緊張の刃となって内側に痛みを落とす。それでも彼は短く息を吐き、うなずいた。


「何だかわからんが……了解した。ただし、余計なことはするな。手間が増えるのはごめんだ」


 低く澄んだ声が、息の奥を心地よく引き締める。荒れ野の草を撫でる風のように、優しく力強い響き。


 その答えを耳にした瞬間、抑え込んでいた息がゆっくり溶けた。張りつめた糸が緩み、切なさを含んだ軽さが身体の奥へ広がっていく。


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