記憶の残響
突然、世界が四角く切り取られるように、真っ暗になった。
光も音も、わたし自身の輪郭さえも、誰かの手ですっと片づけられていく。空気が一段階深く冷え、耳の奥に薄い膜が貼られるような感覚――あまりに不自然で、圧倒的な冷たさだった。
確かにわたしは、つい先程までデルワーズとロスコーの声を、水底から覗くような他人事の気分で聞いていたはずだ。感情はまだ薄く濾過され、わたしの身体には届いていなかった。
それなのに――次に目を開けたとき、わたしは魔術大学・禁書庫の冷えた石床に膝と掌を突いており、指先に返る硬さと、異常に早い鼓動だけが現実を繋ぎ止める証だった。湿ったカビの気配と、古い紙と埃の乾いた匂いが鼻の奥を刺す。
淡い燐光がゆらめいている。金と銀の微粒が、荒い吐息に揺れて頬をかすめる。そのたび壁の奥で小さな音が生まれ、耳鳴りの残響みたいに、狭い部屋じゅうへ薄く広がっていく。
――この場所は、生きている。
いや、それよりも、どこか全く別の空間に侵されつつある。光のざわめきが、みぞおちの奥へそっと囁きかけてくる。
白いものが視界の端をかすめた。
翼だ。真っ白な先端。音も風も起こさず、ただ静寂の中で羽ばたく白。眩しいはずなのに、背骨の内側で得体の知れない違和感が疼く。
それは、わたしの黒鶴ではない。優雅で、あたたかな気配の傍らに、底知れぬ冷酷の刃を隠している――デルワーズ。その痕跡だ。
壁に張り付くように展開された薄い光の幕が、じり、と肘から骨へ微弱な震えを伝える。名前だけが、遅れて浮かぶ。
――IVGフィールド。
次の瞬間、頭の奥がすん、と完全に凪いだ。
風のうなりも、古い紙の擦れる音も、遠くの廊下を歩く足音も、すべてが境界で切り落とされる。目は開いているのに、世界だけが唐突に音を失っていく。
薄い半透明の層が、すぐ外側に張りついているのが皮膚感覚で分かる。頬を撫でるはずの空気の動きは一切届かず、茫然とするほどの静けさだけが息のまわりに溜まっていく。
その代わりに、鼓動と呼吸音が石の冷えと一緒にひどく生々しく残った。無音の底に置かれると、体の内側だけがやけに大きい。
外は絶対的な無音のはずなのに、すぐ背後で衣擦れの音だけが確かに聴こえた。近い。ありえないほど近い。彼はもう、境界の内側にいた。
重い体温が寄った。視界の外で膝が石床に当たる鈍い音がして、大きな影がわたしの肩に落ちる。耳の高さに息が降り、内側の空気だけが乱暴に揃え直される。
「しっかりしろ、ミツル!」
声が近い。息遣いの湿り気まで、はっきり聴こえる。外の空間が死んだように静まり返っているぶん、その声だけが一本の太い綱みたいに、わたしの意識を現実へと引き戻した。
パーン、と乾いた音がして、右頬の内側に血の味が広がった。頭が揺さぶられ、返事は出ない。
情報の奔流と、こみ上げる感情。その渦に足首を掴まれたように、体がまったく動かない。肋骨の裏で何かが裂け、これまで名前を付けたことのない熱が内側を満たしていく。鼓動が針のように跳ね、呼吸が浅くなる。指先が石の硬さを確かめるたび、現実の輪郭が少しずつ戻ってくる。
――デルワーズ。
前世の世界へわたしたちを弾き出し、世界の崩壊を止めるためだけに人の遺伝子を改変し、逃れられない呪いの連鎖を血族へ押しつけた張本人。
――『必ず再生させて、この世から深淵の呪いとともに消し去ってやる』。
わたしはずっと、そう心に決めていた。あの白い幻想空間での独白は、加害者の身勝手な言い訳にしか聞こえなかった。
けれど今、この瞬間――記憶から注がれた鼓動だけが、わたしの中の答えを強引に変えていく。触れたくないのに、触れてしまった。飲み込むには、まだ圧倒的に時間が足りなかった。
◇◇◇
わたしたちは、魔術大学の図書館棟を弾かれたように飛び出し、人気のない裏手の茂みに逃げ込んでいた。
状況は最悪だった。
禁書庫――あの狭い部屋の中で、わたしは溢れ出す感情と力を制御できず、無意識に展開したIVGフィールドで外壁を内側から圧迫し、危うく天井ごと建物を崩してしまうところだった。あの瞬間、間近にいたヴィルが物理的にわたしを現実へ引き戻していなければ――。
頬を叩かれ、その強烈な痛みでようやく正気を取り戻したわたしは、彼に半ば抱えられる形で禁書庫を脱出したのだ。
今も右の頬がじんじんと熱を持っている。
「いたい……ひどい……」
指先でそっと触れると、皮膚の下に細い熱の芯が残っていた。わたしは少しふてくされたように頬をさすりながら、〈場裏〉・赤の熱操作で、頬に残った熱をそっと逃がした。皮膚の下に細い冷えが広がったが、火照りきった頭には、それがむしろ気持ちよかった。
「仕方ないだろうが。まったく、世話の焼ける」
ヴィルは腕を組み、やや投げやりな口調で続けた。
「まさかあんな狭い部屋で、いきなり本気の力を使うなんて。お前、いったいどうしたんだ?」
茂み越しに空を見上げながら、彼は膝に肘をつき、わたしを一瞥した。呆れの色は隠していない。けれどその下に、硬い心配があるのが分かる。
「そんなの、わたしにもわからないわよ」
深く息を吐くと、湿った草の匂いが肺の奥まで入ってきた。
「しょうがないじゃない。目を開けたら……ああなってたんだから」
口答えするほどに、混乱が逆に深まっていく。底知れぬ記憶の海に飲み込まれたのに、その正体だけが手のひらからすり抜ける。
頬の熱が落ち着いたころ、ようやく一つの疑問が形になった。
「ところで、ヴィル?」
「なんだ?」
「わたし……どのくらい意識を失ってた?」
痛みが薄れると同時に浮かんできた問いを、そのまま口にする。
「あの黒い記録媒体に剣をかざした時、急に光が溢れてきて、それに飲み込まれて……それから、ずいぶん長い時間が過ぎたように感じるんだけど。どのくらい時間が経ったのかなって……」
ヴィルはわたしの顔をまじまじと見つめる。困惑と警戒が入り混じった目だ。
「光だと?」
怪訝そうに深く眉を寄せる。
「俺にはそんなものは一切見えなかったぞ。それと、お前が動かなくなったのは、ほんの一瞬だった」
――ほんの一瞬って。そんな、嘘でしょ。
わたしの中では、焚き火の前の対話が、もっとずっと長い時間のように感じられていた。肌で感じた熱も、煤の匂いも、胸を締め付ける痛みも、濃すぎて、逃げ場がなかったというのに。
「そうしたら急に、例の『目の錯覚だって言っていた黒い翼』が出てきて。しかもそれが、だんだん白く変色していったんだ」
続く言葉が、さらに胸を冷やす。
「それから、理由のわからない薄い膜のような何かに包まれた。それが広がって、周りの壁を押し潰し始めたんだ。ガラスが割れる音も、壁が軋む音も、まったく聞こえなかった。あれは一体何なんだ?」
――黒い翼が白くなった? 音がしない?
息が喉で止まりかけて、わたしは目を閉じたまま深く吸い込んだ。
金と銀の燐光が、瞼の裏でまだ淡く揺れている。その残像が消えないまま、体の内側で鼓動が打っている――わたしのものなのに、どこか他者の感覚が混じっている。
ほんの一瞬の間に、わたしが見たもの――それは何だったのだろう。
あの小さな黒い欠片。記録媒体が膨大なデータを内包していることは分かった。しかし、あれは単なる情報ではない。生々しい記憶そのもの――ロスコーという不器用な父親が生きた証であり、彼が愛した世界そのものだった。
そして、その記憶の中で彼が向き合っていたのは――デルワーズ。艶やかで漆黒の長い髪と若翡翠の瞳。わたしの知らなかった、彼女のはるか過去の姿。
兵器として生まれ、定められた残酷な宿命。抱えていた深い苦悩。やっと掴み取ったささやかな幸せと、愛する家族。そして、血を吐くような思いで選び出した答え。息を継ぐ間もなく流れ込み、言葉の手前で胸が詰まった。
「デルワーズ。あなたって人は……」
あまりに多く、あまりに重い。恨むべき巨悪ではなく、ただ一人娘を愛し、不条理な世界に抗おうとした「母親」の姿。整理する術などなく、ただ渦に翻弄される。
「おい、ミツル。なんだ、なんで泣いているんだ? どうしたってんだ」
ヴィルの焦ったような低い声が耳に届く。
熱い涙が止めどなく頬を伝っていた。こらえることもできず、こぼれ落ち続ける。
「なんでもない……なんでもないよ……」
口にした言葉は空っぽで、自分にも届かない。本当は、なんでもないはずがないのに。
感情が抑えきれず、息が細く刻まれる。
《《美鶴……わたしも、見てたよ》》
茉凜の声が、剣から微かに響いた。軽口はなく、震えだけが残っている。
《《ちょっと……なんて言ったらいいかわかんないよ……あんなの、ありえないよね……》》
普段なら白黒はっきり言う彼女でさえ、言葉を失っている。それほど、あの記憶は重すぎた。
「だって……」
息に絡みつく声で、わたしはやっと言葉を紡いだ。
「わたしたちにひどいことをしてきた彼女が、なんで、なんであんなことに、なんでなの……」
言葉にするたび、矛盾が内側を掻き乱す。
「どうして、あんな優しい顔して笑えるの……?」
声が涙に滲み、息の終わりが掠れる。
「こんなものを見せつけられたら……わたしたちの怒りは、どこにぶつければいいっていうの……!」
拳を握りしめても、殴るべき相手がいない。そこにいるのは、泣きながら未来を祈るひとりの母親だった。行き場を失った怒りが、わたしの内側だけを削っていく。
《《わたし……ずっと思ってたんだ。いつかあいつに会ったら、絶対にぶん殴ってやるって。でも、できないよね。あんな顔、あんな覚悟を見せられたら……ずるいよね……》》
怒りでも悲しみでもない。そのどちらもが絡み合い、形を成せないまま暴れている。
「はぁ……」
ヴィルが深いため息をつく。その音に、妙に救われる。
彼は理由を知らない。それでも、何も聞かずに手を伸ばしてきた。大きな傷だらけの手が、そっとわたしの頭に触れる。
不格好に乗せられた重みが、温かい。
それだけで、涙がまた溢れてくる。わたしは何も言えないまま、その温もりに身を委ねることしかできなかった。




