第八章エピローグ――空白が告げる結末
焚き火の熱が、頬だけを撫でていた。背中の冷えは抜けない。暖かさと冷たさが同じ身体の中にあって、息の落としどころが見つからなかった。火はまだそこにある。ロスコーさんの影も、岩肌の湿りも、煤の匂いも、ちゃんとここにあるはずなのに、わたしの奥だけがどこか遠い場所へ置いていかれている。
母親だから強い、と誰かは言う。
――ちがう。そんなんじゃない。強くなんかなれるわけがない。ほかの道が、見えなくなるだけ……。
喉の奥に薄い吐き気が居座っていた。深く吸おうとすると、胸の内側がきり、と鳴る。夜中に目が覚めて、暗闇の中で何度も同じ問いを繰り返すことも、怖さにひきつることも、当たり前だった。
それでも、エリシアがこの理不尽の中で削られていく未来を思い浮かべた途端、痛みの置き場が変わる。
――消えてしまうわけじゃない。ただ、我慢できる形へ並び替わってしまう。
肋の奥に、一本の線が引かれる。子どもが死ぬ世界よりは、まだ耐えられる。どんなに惨めでも、どんなに怖くても。
――だから、生きて帰らなきゃ。
約束は嘘じゃない。けれど、その言葉の陰に、死んでもいいと思ってしまう影が寄り添うのも事実だった。
――ほんとうは、戻りたい。
あの台所の湯気の中へ。ライルズの低い声の届く距離へ。指を握りに来る、小さなあの手のところへ。手放したくないのだ。それを口にできないだけで。
わかっている。死んだら終わりだと。残されたエリシアが、わたしと同じ恐怖を背負う。あの小さな背に、この冷えを乗せる。
――それだけは、絶対に許されない。ロスコーさんの「生きて帰れ」という言葉は、慰めじゃないんだ。
死ぬなという現実を、正面から押しつけてくる。残酷で、だから優しい。怖さが消えるわけはない。怖さごと抱えて、這いつくばってでも戻る道を探す。
――だいじょうぶよ、エリシア。お母さんは、帰るから。必ず。そうしたら、いーっぱい……。
その先は、心の中でも言い切れなかった。小さな背中を抱き寄せる腕の形だけが、ほどかれずに残った。
――ずっとそばにいたい。あの温かな日々に帰りたい。
言えなかったその言葉だけが、遅れてからだの底へ落ちた。焚き火の音がふっと薄くなった。炎の赤が遠のくというより、こちらの耳だけが急に膜をかけられたように鈍くなる。
◇◇◇
焚き火越しに彼女を見ていた目が、いつのまにか彼女の内側から火を見ていた。その遠さが、ふっと薄れた。
ロスコーの影も、デルワーズの震えも、洞窟の湿りも、まだそこにあるはずだった。なのに、輪郭だけが先に崩れていく。指先に残っていた薄膜の冷たさが、最後にひと撫でだけ残った。
息を吸ったのに、肺に入ってこない。
暗転の後、わたしの周囲から洞窟は消えていた。
焚き火もない。ロスコーの声もない。けれど、焦げの匂いだけが、まだ鼻の奥に引っかかっている。火が消えたあとの、熱を失った灰の匂い。あれは、帰り道の匂いじゃない。
見えたのは、紅蓮の炎だった。
空を裂く赤の中に、黒髪の少女が立っている。淡い緑の瞳は、燃えるものの先ではなく、もっと遠い時間を見ていた。頬には乾ききらない涙の痕が残り、手にした白い剣だけが、灼ける色の中でひどく澄んでいた。
剣を握る指が、わずかに緩む。その手が、胸の前で何かを抱こうとするみたいに動きかけた。けれど、そこには何もない。小さな背中も、服を掴む幼い指も、泣きそうな息もなかった。ただ、焼け跡の熱だけが、掌の内側へ戻ってくる。
白い輝きが、彼女の背後で翼めいた輪郭を取る。羽ばたきに合わせ、灰が押し分けられ、炎の勢いが鈍った。冷たく澄んだ光が、焦げた空気を割っていく。
少女は一歩だけ踏み出した。足元の燼が、さらりと鳴る。
「――ライルズ、愚かなわたしをどうか許して。……ごめんね、エリシア。だめなお母さんでごめん……ごめんなさい……」
その声は、赦しを求めているのに、赦されることを待っていなかった。別れを告げているのに、まだ帰り道を諦めきれていなかった。
わたしの内側で、何かがきゅっと縮む。知らないはずの名。知らないはずの痛み。けれど、その響きだけが、炎よりも深く、身体の底へ沈んでいく。
白い光がさらに満ち、景色の輪郭を押し流した。黒髪も、涙の痕も、翼の白も、ひとつずつ眩しさへほどけていく。
最後に残ったのは、抱けなかったものを探すように強張った、細い腕の影だけだった。
それも、白に呑まれた。
そこで、光景は途切れた。
帰れたなら、きっと残るものがあったはずだ。
扉の軋み。
床板の音。
子どもの足音。
抱き上げたときの軽さ。
腕に押しつけた小さな背中。
泣きそうな息。
石鹸の甘さ。
呼ばれる声。
叱る声。
笑う声。
そういう、生活のざらついた音が、必ず一度は混じるはずだった。
けれど、混じらない。
残ったのは、冷えと、焦げと、切断されたような静けさだけだった。
腕の内側が、何かを抱く形のまま強張っていた。
わたしは唇の内側を噛んだ。痛みで今を繋ぎ止める。喉の奥がひりつき、言葉にならないものがそこに詰まった。
デルワーズは、生きて帰ると言った。
約束だって、言った。
エリシアの母親だと。
それだけなんだと。
けれど――その先がない。
この空白は、知らないからじゃない。
最初から、ここで終わっている。
わたしには、わかってしまう。
彼女は、戻れなかったのだと。




