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熱と冷えの境界で、娘の明日を祈る

「レナードさんは、わたしのマウザーグレイルを保管しつつ、極秘に解析を進めていたんだそうです」


 ロスコーの目が、焚き火の向こうで鋭さを増した。


「いかにも科学者らしいな。それで、何か掴んだのか? 一介の技術屋に過ぎない俺には到底手の届かないような、何かを」


 焚き火の芯が低く息をするたび、洞窟の壁面に落ちた影がゆっくり伸び縮みしている。デルワーズは膝の上で両手を重ねた。どれだけ火にあたっても温まらない指先を、しばらく見つめていた。


「はい。マウザーグレイルには、搭載されている機能とは別に、システム・バルファの最深部――コアユニットに直接アクセスするための『パスコード』が埋め込まれていた、とレナードさんは言っていました。それも、『門徒』系列の中でも、このわたしだけが扱える特異な形で……ですから――」


 言い切る前に、炭がぱちりと甲高く弾けた。ロスコーの眉間に深い皺が刻まれる。腕を組む動きが、火の不規則な明滅に合わせて硬く見えた。


「まて……」


 地を這うような低い声だった。火の粉が二つ跳ね上がり、足元の冷たい砂に落ちて、瞬く間に消えた。ロスコーは腕をきつく組み直し、洞窟の奥へ重い息を落とした。


「やめておけ。そいつはあまりにもリスクがありすぎる。狂気の沙汰だ」


 デルワーズは、完全には頷ききれないまま、顔だけを静かに上げた。焚き火の熱が頬を撫でている。けれど背中には、岩から滲み出す冷えがべったりと残っていた。


「ロスコーさん……」


 ロスコーは揺れる火から視線を外さない。瞳の奥だけが細かく動き、彼女の言葉の下に隠れた意図を探っていた。


「君も君自身が持つマウザーグレイルも、いわばプロタイプだ。だから他の門徒シリーズにはない特別なものが仕掛けられていたとしても、何ら不思議ではない。ま、誰の仕業かは俺にもわからんが……」


 彼は顎を指でなぞり、爆ぜる音の間に思考を沈めた。


「確かに、中核意識集合体に対する、考えうる限り最強の手札となるかもしれん。……だが、技術的な観点を抜きにして考えても、君という『ノイズ』が直接システム内部に侵入すれば、そこに致命的な矛盾や葛藤を生み出し、システム全体が修復不可能な機能不全に陥る可能性は十分にある」


 薪がゆっくりと崩れ落ち、焦げた火の匂いがいちどだけ濃くなる。デルワーズは煙をわずかに避け、短く、しかしはっきりと頷いた。


「はい。わたしもそう思います」


 ロスコーはそこでようやく、睨みつけていた火から目を上げた。鋭い光を宿した瞳が、デルワーズの静かな顔をなぞる。


「……やりようによっては、システム・バルファの全権を乗っ取り、世界を支配することさえ可能になるだろう。だが、下手をすれば――君自身の意識が膨大な情報の荒波に引きずり込まれ、最悪砕け散って二度と戻れなくなるかもしれない。ライルズやエリシアに、二度と会えなくなるかもしれないんだぞ?」


 戻れなくなる。


 言葉の意味だけが、火より先に胃の底へ沈んだ。名が出た瞬間、ぱちぱちという焚き火の音が不意に遠のいたように感じた。炭の匂いの奥で、幼い笑い声がふっとよぎり、すぐに闇へ溶けた。


「そ、それは……」


 火の粉が虚しく舞い上がり、洞窟の底冷えする湿りがそれを吸い込んでいく。デルワーズは唇を噛み、乱れそうになる息を整えた。


「……リスクがあることは、最初から覚悟の上です」


 ロスコーの顔が、いちどだけ苦痛に歪んだ。焚き火の赤が皺の溝に影を落とす。焦げの匂いに、エリシアの髪に残る石鹸の甘さが混じった気がした。


「ばかなことを言うな。いいか、これだけは父親として言わせてもらう。俺はそんな自殺にも等しい行為など絶対に認めない。だいたい、旦那は……ライルズは何と言った? 当然止めただろうが?」


 デルワーズは、ロスコーの激しい言葉を、反論することなく受け止めた。胸の奥がきしむ。それでも、その痛みに触れないよう、膝の上の手をゆっくり握り直した。炭が崩れ、赤い欠片が灰の底へ沈んでいく微かな音だけが残った。


「ええ……もちろん、ひどく反対されました。でも、これだけは譲るつもりはありませんでした」


「あのな……どうしてそこまで――」


 デルワーズは短く息を吸い込み、ロスコーの言葉を静かに遮った。


「ロスコーさんの仰りたいことは、痛いほどわかっています。いまのまま、人目を避けて逃げ惑う生活が続いたとしても、十年、二十年と、家族揃って一緒に生きていくことはできるでしょう。……でも、それではだめなんです。根本的な解決にはならない」


 焚き火の熱に照らされた膝上の手が、ぎゅっと強く握り込まれる。爪が厚い布を掴み、そこに細く深い皺が一本走った。


 ロスコーは反論を飲み込み、しばらく黙っていた。洞窟の奥で、水滴が一定の間隔で落ちている。同じ場所を叩き続けるその音に合わせるように、彼は肺の奥から重い息を吐き出した。


「だが、君には……システムに対抗し、今の危うい均衡状態を保てるだけの絶対的な力があるはずだ。最悪セカンドフェイズ――モード2を解放すれば――」


 デルワーズの華奢な肩が、びくりと小さく跳ねた。焚き火の明かりが一段と激しく揺れ、巨大な影が岩壁に不気味に伸びる。


「だめです。それだけは絶対にだめ……」


 声がひどく掠れた。熱の揺らぎの中で、言葉の輪郭だけが急速に冷えていく。


 ロスコーの低い問いが落ちる。


「どうしてだ?」


 デルワーズが頷くまでに、ほんのわずかな、しかし永遠のような間があった。焚き火が鳴るのを待ってから、彼女は言葉を落とす。


「あれは単なる『神殺し』なんて次元の力じゃありません。下手をすれば、この世界そのものを、物理も、概念も、ばらばらに引き裂きかねない。破滅の力です。いまのわたしでは、『マルチ・ブレーン・オラクル』を限定的に運用して、緊急的な危機回避に応用するのがやっとの状態なんです」


 震える声で言い終えた瞬間、焚き火の熱気が頬を撫でる。それとは反対に、背中を這い上がる岩の冷たさが、いやにはっきりと感じられた。


 デルワーズは膝上で固く結んでいた手をほどき、懐から丁寧に折り畳まれた薄いシートを取り出した。それは紙ではない。微かな光を内側に含んだ、特殊な膜のような素材だった。指先に触れると、皮膚の熱がかすかに引いていく。角の一つだけが、爪でこすったように僅かに欠けている。整いすぎないその傷が、誰の手が最後に触れたかを、黙って示していた。


「スペックシートの写しか」


 ロスコーの鋭い視線が、瞬時にその薄膜へ吸い寄せられる。その目は、単なる文字の羅列を追っているのではなかった。背後に横たわる責任と危険の重さを、正確に読み取っていた。



スペックシート


 第二段階(セカンドフェイズ/モード2)※封印中


  ・超重力制御 ──物質の極限圧縮/対象の完全拘束/高重力フィールド展開


  ・空間歪曲  ──事象の収束・偏向・局所ワームホール形成


Multi-Brane Oracle


 分岐未来を同時計測し、死亡確率最大の世界線を瞬時に破棄。乱用すれば世界線独裁に直結する。


◆ 情報処理能力


  ・量子演算による未来予測的な戦況解析



 デルワーズは薄膜に浮かび上がる無機質な文字列を、震える指先でそっとなぞった。物理法則を無視した超重力制御と空間歪曲のすぐ下に、同じ段階の機能としてオラクルが記載されている。未来の枝を切り落とす計算は、空間そのものを歪める力と同じ束に繋がっていた。


 薄膜の端が焚き火の熱気を受け、わずかに反り返る。表面の光が不気味に揺れて見えた。デルワーズは、それ以上反らないよう、押さえる指に力を込める。


 ロスコーの脳裏に、記録映像で見た半歩だけずれる回避が蘇る。先を読んだように見えて、実際には息を詰めた一瞬の賭けだった。まだ名のないその使い方が、ここに載っている演算と結びついている。


「君のこれまでの戦闘を記録映像で確認したが、極めて限定的だが、モード2の領域に踏み込みかけているように見えた。さらには、それを量子演算による戦況予測と組み合わせて使用していたとはな」


 ロスコーの声には、技術者としての驚きと、深い恐れが同時に沈んでいた。デルワーズは薄膜から目を離さない。指先だけが、文字列の上でわずかに止まる。


「はい。これもレナードさんの解析と指導のおかげです。ですが、いまのわたしでは、演算によって破棄できるのは、ほんの一瞬先の、ごく細い未来の枝に過ぎません。せいぜい、目の前の致命傷を避け、命を拾うための防御的な使い方しかできないのです」


 焚き火が小さく鳴り、燃え尽きた炭が音もなく崩れた。赤い火の粉がひとつ跳ね上がり、すぐに頭上の深い闇へ溶けて消える。


「それでも、禁忌であることには変わりがありません。この力を使い続ければ、必ず未来を選ぶ癖がつく。自分の都合の良いように、他者の運命すら選べると思い始めてしまう。……その傲慢な思考に囚われた瞬間から、わたしはもう、人としての心や感覚を失っていくかもしれません。それが一番恐ろしいのです」


 ロスコーは光る薄膜を見つめたまま、肺の底から重い息を吐き出した。吐き出された息は夜気に触れて冷え、洞窟の奥の闇へ消えていく。


「だからこそ、モード2の扉は絶対に開かない。開いてしまえば、もはやどちらが勝つか負けるかという次元の話ではなくなる。勝ったあとに残る焼け野原の大地が、もう人が住める大地ではなくなってしまうのですから」


 デルワーズの声は柔らかく、静かだった。けれど、その芯は少しも曲がらない。ぱちりという焚き火の音だけが、少し遅れて二人の間に追いついた。


 ロスコーの目がすっと細くなる。揺らぐ火の芯を見つめたまま、確認するように低く問い返した。


「だからって……」


 デルワーズは深く息を吸い込んだ。吐き出すまでの間を、長く、慎重に取る。


「レナードさんに、はっきりと言われました。あれは……モード2の解放は、『システム・バルファそのもの以上に危険な力かもしれない』と。ロスコーさんだって、マウザーグレイルの本来の仕様と潜在的な危険性は、技術者として十分に理解しているはずです」


「では……結局のところ、君がシステム中枢にダイブするしか、他に手段がないと言うのか?」


「はい……そうです」


 重い沈黙が、ふたりの間に落ちた。炭の赤が沈むのを見ているだけで、時間まで重くなる。


「だって、それしかないじゃないですか。このまま目を背けて何もしないまま、いつかわたしが死んでしまったら、その後に残されるエリシアはどうなりますか? さらにその先、彼女の子どもはどんな世界を生きるのですか? ……システム・バルファという狂った管理者が存在し続ける限り、この理不尽な苦しみが、永遠にずっと続いていくんですよ?」


 灰が舞い、瞳の縁がひりつく。デルワーズは瞬きを一度した。けれど、痛みだけは残った。


「………君がどれほど固く決意を固めたところで、俺にはとてもじゃないが承服できない」


 ロスコーは膝の上で太い腕を組み、怒りを押し殺した声を低く洞窟へ響かせた。


「まだ幼いエリシアが、どれだけ君という存在を必要としているか、君がどれだけあの子の小さな世界を支えているのか、本当に分かっているのか? もし君がいなくなったら、あの子にとっての未来どころか、今この瞬間すらも崩れ去ってしまうんだぞ」


 その言葉は、洞窟の冷たい床へ深く沈み込んだ。デルワーズは膝の上の手を見つめる。ロスコーもまた、言わずにいられなかった己の痛みを噛みしめるように、奥歯を固く噛んだ。


「……さっき、『死ぬつもりはない』と断言したじゃないか? あれは俺を安心させるための嘘か?」


 デルワーズは頬を伝う涙を拭おうとしなかった。ただ、彼の厳しい視線を正面から受け止める。


「嘘なわけないじゃないですか……。あれが、わたしの偽りない本心です。絶対に、生きて帰ります。それでも……」


 痛む胸もとを、ぎゅっと握りしめた。浅い呼吸の端が震え、置いてきた小さな手の温度が、指の奥へ戻ってくるようだった。


「わたしはもう、命令で動く兵器ではありません。誰かの理想を証明するための器でもありません。……わたしは、エリシアの母親です。それだけなんです」


 その言葉だけは、震えなかった。


「だから、わたしは帰ります。ラオロ・バルガスに辿り着いて、確かめて、止めるべきものを止めて……そして、エリシアのところへ帰るんです。きっと、寂しい思いをしていると思うから。はやく……」


 最後のひと言だけが、火の音よりも小さく落ちた。ロスコーはゆっくりと顔を上げ、炎越しにデルワーズを見つめる。激しい困惑と深い諦念の底に、彼女の決意を受け取ろうとする色が、かすかに灯り始めていた。


「……君の言うことは、理屈としては正しいのかもしれない。だが、ただ正しさだけで生き抜けるほど、現実は決して甘くはないぞ」


 彼は視線を火から戻し、静かに揺れる暗がりを見つめたまま、自分自身に言い聞かせるように語り始める。


「俺には、君が抱いているような凄まじい覚悟は持てん。もし俺があの子の親だったなら、きっともっと臆病にもっとみっともなく、這いつくばってでも逃げ延びることだけを考えるだろう」


 ロスコーは拳を握り直し、指の関節が白くなるのを隠すように膝へ押しつけた。


「だが、それでもただ一つだけ確かなのは……君のその覚悟が、いつかエリシアにとっての光になるかもしれないってことだ。今の最悪な状況を見据えれば、だがな……」


 低く沈んでいた声に、わずかに温もりが差した。彼はちらりとデルワーズを見上げ、厚い唇の端に微かな笑みを浮かべる。


「ええい、こうなったらもう仕方ない。デルワーズ、そこまで言う君がそれでも進むというなら、俺が全力で背中を押してやろう。その代わり、一つだけ約束をしてくれ」


「え……?」


 デルワーズは驚きに目を瞠った。


「……約束、ですか?」


「そうだ。どんなに惨めな手を使ってでも、這いつくばってでも必ず生きて帰るという約束だ」


 焚き火の芯が一段だけ沈み、音のない時間が指先に絡みついた。


「いいか、デルワーズ。よく聞け。君が死んだら、君が戦う理由そのものが完全に無くなるんだ。君は他の誰でもないエリシアの未来のために戦うんだろう? だったら、絶対に死ぬな。……それだけは、たとえどんな犠牲を払ってでも絶対にあってはならない。俺の言っている意味が、わかるな?」


 ロスコーの不器用な言葉には、娘を想う親としての切実な実感が混じっていた。デルワーズは深い暗がりを見つめる。やがて、息を深く吸い込み、力強く頷いた。


「ええ……約束します。わたしは絶対に生きて帰ります。そして、エリシアに心から誇れる母親でいるために、わたしのすべてを懸けて、生き抜きます」


 その決意の眼差しに、ロスコーは短く安堵の笑みを漏らし、やれやれと肩をすくめて重い腰を上げた。


「それならよし。俺も手伝おう。ただし、あくまで俺のやり方でな。君一人だけに危険を背負わせるつもりは毛頭ない」


 デルワーズははっと顔を上げた。驚きと深い安堵、そして共闘への小さな期待が、瞳の奥で揺れる。


「ロスコーさん……あなたが一緒にいてくださるなら、これ以上なく心強いです」


「礼も遠慮もいらないさ。……侵入ルートの構築については、すべてこの俺に任せろ。だがな、一つだけ忠告しておく」


「はい……」


「独り善がりな悲劇のヒロイン気取りだけは勘弁してくれ。見ていて胃が痛くなるからな」


 冗談めかした軽い調子の奥で、彼の視線はひどく真剣だった。デルワーズの強張っていた頬に、ようやく微かな笑みが戻る。


「君のことだ。どうせチューブの広大なネットワーク網が怖くて、世界中を飛び回って物理的に寸断しようとでもしてたんだろう?」


「はい……お恥ずかしいですが、その通りです。末端をいくら破壊してもすぐに自己修復されてしまって……どうしたらいいのか、ずっと悩んでいました」


 デルワーズの声が、自身の無力さを恥じるようにわずかに沈む。膝上の指が、そっと申し訳なさそうに握りしめられた。


「やれやれ、娘ながら無茶が過ぎる。なら、水先案内人くらいはこの俺がやってやろう。レナードほどではないが、機構のネットワークを掻い潜るくらいはお手の物だ。それと俺の生体IDが、中枢セキュリティの突破に必ず役に立つ」


「……それでは、あなたの立場が完全に無くなってしまいます。機構側に真っ向から反逆する、取り返しのつかない行為ですよ?」


「そんな些末なこと、いまさらどうした。闇の底を知ってしまった以上、もはや引き下がるわけにはいかん」


「ロスコーさん……」


「いいか、デルワーズ。俺は、君の父親のつもりでここにいるんだ。だから、俺にも少しでいいから、その重い荷物を背負わせろ。でなければ、親としての格好が全くつかんだろ」


 ぶっきらぼうな言葉だった。けれど、焚き火のそばで聞くその声は、どこまでも穏やかだった。デルワーズはゆっくりと顔を上げ、彼の真意をじっと見つめる。震える唇に、柔らかな弧が宿った。


「本当に、ありがとうございます。……ロスコーさん。いえ、お父さん……」


「そうだ。俺は君の父親だ。だから、一緒に行こう」


 少し気恥ずかしそうに言い切った自分の声に、彼は誤魔化すように小さく咳払いをした。


 デルワーズは静かに目を伏せ、きつく握っていた拳をゆっくり開いた。焚き火の熱が、二人の間で静かに揺れている。


 夜の冷えは消えない。けれど、そこにはもう、ひとりで背負うための沈黙だけではなかった。二人ぶんの影が、岩壁の奥で小さく重なっていた。


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