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待ち望んだ時~強さの在り処

 扉がきしみ、罠職人トラッパーマティウスが駆け込んできた。息は荒く、額に細かな汗が光っている。その足音が止まると、食堂の湯気だけが妙に重く落ちた。


「おいおい。えらい慌てようだな、マティウス。どうしたんだ? 何かあったのか? まさか魔獣が街に入り込んだのか?」


 食堂の親父さんが口ひげを撫で、逞しい腕を組む。マティウスはカウンターに身を寄せ、呼吸を整える間もなく声を震わせた。


「はぁ、はぁ……ったく、そんなわけねぇだろ。いいか、聞け。ようやく来るんだよ、あれが……」


 酒器の縁がかすかに鳴り、誰かが息を呑む音が混じった。


 その言葉に、ヴィルが眉を寄せる。わたしは椅子から腰が浮きかけて、膝の上で指を握り直した。


「ゴードンの野郎が、南のランドカの街を通過したらしい。来るんだよ、月に一度の定期便が!」


 言い放つなり、食堂に歓声が弾けた。「やったぜ!」の声が重なり、白い息が天井にのぼる。わたしも肘が勝手に跳ね、思わず立ち上がりそうになる。


 ただ一人、ヴィルだけは酒器を手にしたまま、冷ややかに人々を眺めていた。杯の影が、卓に静かに落ちたままだ。


「何が嬉しいんだか、こいつらは……」


 取り残されたような彼の横顔に歩み寄る。靴底が一度だけ鳴って、指先の力がほんの少し抜けた。


「ヴィル、知らないの? この街に隊商が来るんだよ!」


 声が弾む。舌裏の乾きが消えて、唇が勝手にほころぶ。


「隊商だと?」


 酒器を置き、彼は目を細めた。興味の色が差したが、冷ややかさも混じる。


「それしきのことで、どうしたってんだ?」


 湿った熱が頬を撫で、わたしは息をひとつ置いてから言葉を重ねた。


「どうしたって? 街は賑わうし、貴重な品物が手に入るチャンスなんだよ。ほら、辺境のこの街は、特に食べ物で苦労しているでしょ? ゴードンは新鮮なお肉や野菜、それになかなか手に入らない美味しいお酒まで運んでくれるんだから!」


 言葉に熱を込めると、ヴィルの目がわずかに光を帯びた。


「……旨い、酒だと……」


「うん!」


 にっこり笑うと、彼の唇がかすかに綻ぶ。


「それで、騒ぎになってるってわけか?」


 わたしの指先が卓の縁をなぞり、さらに言葉が押し出される。


「そうだよ! 隊商がやって来たら、いつもみんなで集まって美味しいものを分かち合うの! 街を上げての宴になるのよ!」


 想像するだけで、湯の匂いが少し濃くなった気がする。笑いが漏れそうで、息を一度置いた。


「なるほどな……まあ、俺は酒にありつければそれでいい」


 杯をあおる彼の表情に、周囲もほころび、食堂の空気がいっそう明るくなった。


「マティウス、それで到着はいつだ?」


 親父さんが問うと、マティウスは指を折って答える。


「風耳鳥の文面だと、魔獣発生エリアの境界線に入る中間地点まで、あと二日だそうだ。エレダンに到着するのは四日か五日後というところだな。順調にいけばの話だが……」


 言葉が落ちると、湯気の匂いの奥に、鉄の冷えが混じった。


 マティウスの声の端が、乾いていた。


 ざわめきの中、マティウスがこちらへ視線を送る。笑みに込められた意図を悟ったとき、胃のあたりがきゅっと縮んだ。


「そこでだ……」


 彼が声を張り上げる。


「みんな聞いてくれ。商業組合からハンターギルドに依頼が入った。定期便を中間地点まで迎えに行き、この街まで護衛する仕事だ。希望者はギルドマスターに申請してくれ。人選の決定は夜までに済ませるそうだ」


 言い残し、彼は足早に去っていった。床板が一度だけ軋み、扉の隙間から冷気が差し込む。


「ふふふ……」


 笑みを抑えきれない。脳裏に、厚切りのステーキや肉のシチュー、焼き立てのパンが次々と浮かび、湯気だけが先に立ちのぼった。


《《うふへへへ……たまらんたまらん。もう、待ち切れないぃぃっ!》》


 声の調子がひやりとするのに、頬が勝手に緩んで、息が軽くなる。


◇◇◇


 食事を終えたわたしたちは、まっすぐハンターギルドへ向かい、ギルドマスターのベルデンさんに護衛参加を申請した。羽根ペンが紙を擦る音が、広間のざわめきの隙間を縫っている。


「ミツルさん、今回も頼みましたよ。あなたに参加していただければ、これ以上心強いことはありません」


 三度目の依頼ゆえか、彼の声には確かな信頼が滲んでいた。


「はい。それと彼も、ヴィルもお願いします」


 後ろの腕をぐいと引くと、ヴィルは不満げに眉を寄せながらも、渋々と申請書に筆を走らせた。インクの匂いが、わずかに鼻先に残る。


「俺は……べつにどうだっていいんだがな……」


「だめよ。ヴィルは強いんだから、ちゃんと働いてもらわないと」


 やりとりに、周囲のハンターたちの視線が集まる。ひとりが前へ出て、鼻で笑った。


「よお、あんたかい。最近ミツルに付き纏ってるっていう、腰巾着は?」


 怒りが喉まで上がったが、ヴィルが片手で制して前に立つ。革の袖がかすかに擦れた。


「腰巾着というのはいい喩えだ。否定はしない。それで、何か?」


 声音は平坦。けれど冷気がにじむ。修練場で感じた圧が、広間の空気に淡く満ちた。


 男は後退りし、舌打ちを呑み込む。


「ったく、生意気なんだよ。どんな奴だか知らんが、ミツルのおこぼれに預かって、いい気になってんじゃねぇよ」


 言葉だけ残して引き下がろうとしたとき、ベルデンさんが淡々と割って入った。


「言っておきますが、ヴィルさんは強いですよ。それも、桁外れです」


「マスター、はったりはよしてくれ」


 男はまだ虚勢を張る。ギルドマスターは口元だけで笑い、事務机の方を顎で示した。


「奥の修練場を見ましたか? 壁にヒビが入ってしまいましてね。それはもう酷い有様で、困ったものです」


「それがどうしたってんだい?」


「誰の仕業だと思いますか?」


「けっ、知るかよ」


「……そこのヴィルさんですよ」


「はぁ? たしかにこいつはガタイはいいかもしれないが、どうやったらそんなことができるっていうんだ?」


 ベルデンさんは乾いた声で告げた。冗談めいた響きは一切なかった。


「先日、ミツルさんと手合わせする機会があったのですが、ヴィルさんは彼女が展開した風の障壁を、真正面から断ち割ってみせたそうです。その余波で――あの通りだとか」


 思い出すと、〈場裏・白〉の領域が裂けた瞬間、圧が抜けて壁が鳴った。


 沈黙が落ちる。男の頬から血の気が引き、場の温度がわずかに下がった。羽根ペンの先が紙の上で止まり、掠れた音が消える。


「ば、ばかな……ありえねぇ。人間にそんなことできるわけ――」


 わたしは一歩進み、低く告げた。喉が鳴らず、言葉だけがまっすぐ落ちる。


「それをやってのける男が、ここにいるというわけよ」


「ミツル……それって、本当か……?」


「ええ、このわたしが証人よ。直接打ち合って、身をもって理解したわ。彼はわたしと釣り合うだけの実力を持つ。いいえ――それ以上かもしれない。今やわたしにとって、背中を預けられる前衛なの」


 男はうつむき、小さく舌打ちして早足で去った。油と革の匂いが残る。


「そういうことだから、みんなよろしくね」


 周囲を見渡し、柔らかく微笑む。沈黙のあと、数人が目を丸くし、それから照れたように笑った。


「……そりゃそうだな。黒髪のグロンダイルとつるんでいられるやつなんて、そうそういやしないさ」


「正直半信半疑だったが、今の話で納得した」


 笑い声と靴音が戻る。頷きが連鎖し、場の温度が和らいでいく。ここで、彼と共に立てる――その実感が背中の奥で小さく鳴った。


 ふと隣を見ると、ヴィルは肩をすくめ、視線を逸らしていた。頬にわずかな赤み。


「あのな、ミツル。そういうのはだな……」


 言いにくそうに目を泳がせるので、思わず顔を覗き込む。


「なに? 何かまずいことでもあるの?」


 彼はますます視線を外し、耳まで赤い。


「……恥ずかしいんだよ、そういうのは」


 視線が一度だけ足元へ落ち、靴音が近くで鳴った。


 意外な言葉に、思わず吹き出した。くすぐったさが喉の奥でほどけていく。


「ちょっと、なによそれ? そんな柄にもないこと言わないで」


「俺は力を誇示するのは好まん。だいたい、こんな場所で目立ってどうするんだ?」


「あら? ヴィルってそんなに奥ゆかしい人だったの? もっと自信満々で、俺こそが最強だ、って感じの人だと思っていたのに」


「馬鹿を言うな。それはお前の勝手な思い込みだ。俺はただ、強い相手に挑むのが好きなだけで、自慢したりカッコつけたりするのは性に合わん」


「へぇ、そうだったの?」


 わたしの息が一拍だけ浅くなった。


「ガキの頃は、まあ……血の気が多かったのは否定しない。だがユベルに、お前の親父にこてんぱんにされてから、そういうのはやめた」


「まぁ……」


「あいつはいつだって謙虚で、普段は力の片鱗すら見せない男だった。そこで初めて本当の強さってのは、どういうことかを学んだんだ」


 語る声は穏やかで、目尻がかすかに緩む。その表情に、強さと優しさが同じ輪郭で重なった。


「なるほどね……」


 父さまはそれを体現した人だった。指先が勝手に鞘の縁を探り、温度だけを確かめる。


「うん。それって、とても大切なことだね。わたしもそうありたいって思う」


 そう言うと、彼はふっと微笑み、まっすぐに視線を返した。その瞳の奥に、父さまへの敬意が静かに灯っていた。


「そうか……」


 満足げに頷く仕草は、どこか懐かしさを帯びていた。


「こうしてお前を見ていると、確かにあいつの娘だとよくわかる。顔つきはまるで似てないのに、不思議なもんだ」


 ごつごつした手がそっと頭に乗る。指の重みと体温が、髪越しに優しく伝わる。頬の内側がじんわりと温もりに染まり、わたしはそのまま目を細めた。


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