背伸びしたい日
休息日といっても、装備の点検や買い物で街を歩き回るのは案外楽しい。ヴィルは修理に出していた装備を見に行ったらしく、わたしはひとり、石畳を踏みしめながら街中をぶらついていた。
靴底の硬い音が、朝の空気に乾いて返る。屋台の鍋から立つ湯気、干し草の匂い、革の油の重たさ――それらが混ざって、エレダンの「生活」の輪郭をつくっている。
革の鎧を締めると、肩まわりが思った以上に窮屈になっている。半年ほど前に仕立ててもらったばかりなのに、体は知らぬ間に変わっていくらしい。胴のあたりは相変わらずで、ひもを結ぶ手がわずかに止まり、苦笑がこぼれた。
気を取り直し、仕上がったと聞いたブーツを受け取りに店へ向かう。軽い皮で作られていて耐久性は心もとないけれど、かかとがほんの少し高い。その分だけ視界が変わり、低い背丈がわずかに持ち上がった気がして、歩幅まで軽くなる。百五十に届かない身にとって、その違いは小さくても嬉しいものだった。
ふと横目に映ったのは服飾店の看板。けれど並んでいるのは彩りの乏しい作業着ばかりで、窓辺の布地も埃を帯びて沈んでいる。硝子の内側で布が微かに揺れているのに、色だけが動かない。
「……そうだよね。しょうがない」
肩をすくめた拍子に、鎧の金具が小さく鳴った。通りをすれ違う人々の袖口は擦り切れ、肘には繕い糸の跡が走っている。飾りのない布が揺れるたび、縫い目の色の違いがちらりと覗いた。わたしはその色を見て、視線をすぐ戻した。
《《まぁ、たしかにここは魔獣狩りの最前線の街だし、気にしても仕方ないのかもしれないね。でも……美鶴にはおしゃれな服を着て楽しんでほしいな》》
鞘の冷たさが掌に残り、指先が無意識に柄をなぞって止まった。
「どうでもいいことよ。いまのわたしじゃ、考えても仕方ないし」
子どもっぽい顔立ちと小柄な体で、流行の服など似合うはずがない。鮮やかな布地を纏えば纏うほど、鏡に映る自分との落差が浮き上がってしまう。
広場のざわめきの中で、ふと向けられた視線がみぞおちを重くさせた。通りをすれ違う少女たちが明るい色のドレスに笑みを咲かせていると、その無邪気さがまぶしすぎて、視界の端で自分が小さく縮んでいくようだった。
《《そんなことないよ、美鶴。きっとお人形さんみたいに可愛くなると思う》》
指先が鎧の下の袖口を探して、何も掴めずに戻った。
――お人形さん、か。
絹を纏った彼女たちを想像すると、指先がひそかに疼く。けれど現実の自分を思い返せば、唇は自然と固く結ばれてしまった。
「そういうの、嬉しくないんだけど……」
口に出した途端、口の奥が乾いて、唾が飲み込みにくくなる。
《《たしかに昔のあなたとは違うけれど……今の姿もちゃんと魅力があるよ。ありのままを受け入れて、おしゃれを楽しんでみて?》》
息を吸ったのに、肩が落ちない。
言葉に肋の内側がきゅっと縮む。せめて心だけでも華やかでありたい――そんな願いが薄明かりのように揺らめく。ドレスの裾がふわりと広がり、色布に頬を埋める想像をしただけで、指先がかすかに温まった。
「せめて……背がもう少し高かったらね」
ひとりごとのように呟くと、夢の中で別人を描いている気分になる。視線は再び服飾店へ。硝子越しに揺れる布地に、つかの間、足を止めた。通りのざわめきが薄れて、靴底の音だけが足元に残った。
ふいに扉が開き、小さな少女が花束を抱えて出てきた。淡いドレスを纏い、誰に渡すのだろうと目を輝かせている。花束の淡い色が目に残って、足が半拍だけ遅れた。笑い声がまぶしすぎて、視線だけが追いつかなかった――そう思った瞬間、茉凜が小さく笑った。
《《ねえ、今の子、すっごく可愛かったね。たぶん、あなたと同じくらいの歳じゃない? 背が低いのも、ああやって魅力になるんだよ》》
「……そうだね」
頷きはしたが、肩の内側に重い影が残った。喉が鳴りそうで鳴らず、舌先が冷えたまま戻らない。
《《み・つ・る?》》
茉凜は、わざと一音ずつ区切って呼んだ。逃げ道を塞ぐみたいに、いまの名でわたしを引き留める。
遠くで荷車の鉄輪が石畳を叩き、耳の奥に小さく残った。
「なに?」
茉凜の声が、懐かしさを帯びて寄り添う。
《《あなたは、わたしの誕生日の時、素敵な魔法のドレスを着せてくれたじゃない?》》
柄に置いた指が、ほんの一拍だけ止まった。
「……そうだったね」
思い出すのは、茉凜のために選んだ艶やかなドレス。眩しい笑みの奥に、一瞬だけ走った戸惑いの瞳――その揺らぎまで鮮やかに蘇る。
《《わたしね、あの時……こんなの着てもいいのかなって、不安で仕方なかった。でも、美鶴が「絶対に似合うから」って言ってくれたから、踏み出せたんだ。……あの時、あなたはどう思ってたの?》》
往来のざわめきが遠のいて、靴底の音だけが急に大きくなる。
「本当に似合うと思ったからよ。あなたに、自信を持ってほしかったの」
《《……だからね、今のわたしも同じ気持ちなんだよ》》
柄に触れていた指が、わずかに強くなる。あのときの布の重みと、戸惑い混じりの笑みが、湯気の向こうで重なった。息がひと呼吸遅れる。
「けど……茉凜はモデルさんみたいに背も高くて、すらりとしてて……わたしなんかとはぜんぜん違う」
視線が自然に伏せる。賑わいの音は遠のいたのに、指先が柄から離れなかった。
《《そんなことないよ、美鶴。あなたが思う以上に、ちゃんと素敵だよ。……だから、自信を持って》》
柄をなぞっていた指の力が、ふっと抜けた。
「そうね」
言葉を返した瞬間、肩に残っていた硬さがふっと緩む。笑みが自然に滲み、歩幅まで軽くなった。
「茉凜、ありがとう……もし別の街に行くことになったら、その時考えてみるよ」
《《うん、そうしよう》》
彼女の微笑が背中をそっと押した気がする。往来のざわめきは薄れ、代わりに内側へ柔らかな光が差し込んだ。
《《過去のことはもう関係ない。あなたは今、この瞬間を生きているんだから》》
息を一つ整えてから、言葉を落とした。
「そうだね、茉凜。わたし、ちょっとは頑張ってみるよ」
声にした瞬間、自分の耳にその言葉が跳ね返り、心臓の鼓動と重なった。背中の芯に細い熱が灯って、足が一歩だけ前に出やすくなる。
◇◇◇
昼を過ぎたころ、ようやくヴィルと合流した。陽射しを受けた大柄な影は一層たくましく、広い背と厚い肩が真っ直ぐに映えていた。
「どうだこれ、なかなかいけてるだろう?」
新調した籠手を掲げる顔は、少年のように得意げだ。磨かれた金属が陽を弾き、きらりと一閃する。けれどわたしの目には、どこか心もとない光に見えた。
「うん、でも……そんなに薄っぺらいので大丈夫なの?」
手首や指先が覆われていないのが気になり、声に思わず力が混じる。
「ああ、手甲のことか? そんなものはいらん。俺の流儀には合わんからな」
腕を組むと、影が足もとに濃く落ちた。
「手首の柔らかさと、指先の感覚が要だ。そうでなきゃ、ユベルの奇っ怪極まる変化には対応できやしなかった」
「へえ……」
自然に頷く。眼差しは熱を帯び、過去を語るときだけの真剣さが滲む。
彼はもとは力任せの突撃を好んだという。けれど騎士団に入り、父と剣を交わすうちに鍛えられたのだろう。
「あいつの剣筋は予測不能も甚だしかった。だから柔軟に応じられるようにしなきゃならなかった。この剣にしてもそうだ」
腰から抜かれた刃は、ロングソードより短く幅広で、中央に深い溝が走る。鞘鳴りの余韻が空気を震わせ、光を受けた瞬間、彼の剛力と意志が凝縮したような圧が周囲に広がった。
「でかい剣じゃ勢いがつきすぎて、かわされればすぐ反撃を食らう。それがユベルの十八番だった。だから――こいつを作らせたってわけだ」
言葉の裏に、苦い教訓と確かな自負が同居している。彼の選んだ装備は、戦いの記憶と信念そのものだった。
「さて、腹が減ったな。飯でも食いに行くか?」
「そうだね。お腹が空いた」
並んで市場近くの食堂へ歩き出す。午後の陽射しが石畳を白く照らし、背丈の違う二つの影が路地に伸びていった。
歩きながら、ふと考えてしまったのは――傍目に、わたしたちはどんな関係に映っているのだろうということ。親子のように見えるのか。あるいは師と弟子。……それとも。
答えの出ない問いに肩が緩み、思わず口もとに小さな笑みが漏れた。
◇◇◇
木のテーブルには、塩気の強いソーセージと、ルナパッタの粒が沈んだ薄いスープ、歯を立てると歯が跳ね返るような硬いパンが無造作に並んでいた。匙で掬った瞬間、湯気に鼻をつく粉っぽさが混じり、眉間に皺が寄る。
「はぁ、さすがに飽きたわ……毎日同じものばかりでうんざり。いっそお酒でも頼もうかしら」
ため息を落としながらパンを千切る。酸味のある匂いが鼻に残り、思わず顔が歪んだ。
ヴィルはそれを見て、硬いパンをかじりながら目尻を細めた。
「おいおい、ちゃんと食べないとでっかくなれないぞ?」
何気ない一言に肩がぴくりと跳ねる。唇を結んで睨み上げると、頬はぷくりと膨らみ、声もわざと尖った。
「どうせわたしは小さいですよ。ふん」
反抗に、ヴィルはにやりと口角を吊り上げる。瞳の奥で悪戯の火がちらりと揺れた。
「それとだな……出るとこ出なくなってもしらんぞ?」
「なっ……!?」
耳まで熱が走り、思わず両手で顔を覆う。
「ひ、ひどい。そんなこと言うなんて……いくらなんでも失礼じゃないの?」
彼は慌てて手を上げ、声を詰まらせる。
「ああ、いや……すまん。冗談が過ぎた。本気じゃない」
指の隙間から抗議の視線を投げる。耳の裏で火照りと恥ずかしさが渦巻き、軽く叩こうと伸ばした手は結局宙に止まった。
ヴィルは頭をかき、照れ隠しの笑みをこぼす。
「安心しろ。俺の見立てじゃ、お前はあと何年かすれば、きっといい女になるはずだ」
思いがけない言葉に息が跳ね、指先がわずかに止まる。褒めているのか、言い逃れなのか――その曖昧さが、いっそう頬を熱くした。
「そんなこと言ったって、許さないんだから。もう……」
顔を背け、パンをかじる。噛みしめる音に紛れて、まだ消えない赤みを誤魔化した。
茉凜の声が、苦々しげに耳の奥で響いた。
《《ヴィルっていい歳して本当にバカね。男の人ってどうしてこう無神経なのかしら。もう少し女の子の気持ちを考えてほしいよね》》
舌先が一度だけ冷えて、返事が喉に残った。いちばん触れられたくないところを突かれたら、誰だって傷つく。尊敬しているし頼りにもしているけれど――こういう時ばかりは、どうしても納得できない。
ヴィルはそんなわたしを見て、真面目な声で頭を下げた。
「本当に口が過ぎた。俺が悪かった」
いつもの軽さを欠いた声音に、横目でそっと彼を見た。
「言い訳になるかもしれんが……たとえ口に合わなくても、食える時には意地でも食わなきゃならん。お前は成長期だし、その分しっかり栄養を取らないとな。それに魔獣狩りは体が資本だ。経験から言わせてもらえば……西部戦線にいたころは、腐りかけた塩漬け肉でも、腹に入れば命がつながった。湿気た乾パンを水で流し込むだけで精一杯だった。好き嫌いなんて言ってる余裕はなかった」
言葉とともに、彼の横顔がかすかに翳る。湯気の向こうで目が一瞬だけ遠くなり、わたしの指はパンをちぎるのをやめた。
パンをちぎる指の力が、いつの間にか抜けていた。
《《言いたいことはわかるけどさ。だったら最初から普通に言えばいいのに……》》
茉凜の声はまだ不満げだったが、息がようやく腹まで落ちて、湯気の匂いが戻った。
「確かにあなたの言う通りね。食べなきゃ生きていけない……」
わざと上目遣いで睨む。
「ああ、そうだな……」
「よーし……わたし、必ずその“いい女”とやらになってみせる」
その言葉に、ヴィルの目が一瞬ぎょっと見開かれる。
「おっ……?」
思わぬ反応に喉がつまったような声が洩れる。
「そのときのあなたの顔、楽しみにしてるわ。ふふ……」
「お、おう。き、期待しているぞ……」
挑むように視線を重ねると、彼の肩がぎこちなく強張る。その狼狽が余計に可笑しく、口の端がほどけた。
取っ手の金具がからんと鳴り、湯気の層が一枚、空気にほどけた。
次の瞬間、食堂の扉が乱暴に開き、一人の男が駆け込んできた。




