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死なないと決めた理由

 デルワーズがふと顔を上げる。火の橙が瞳に微かな揺れを置き、唇がわずかに動いた。


「……わたしが背負わなければならない重みは、決して消えることはないんでしょう」


 小さな声が響き、火影がその芯を濃くして、震える唇にかすかな硬さを灯した。


「それでも……見ず知らずの誰かがわたしを助けたいと思ってくれたその事実こそが、今もわたしを支えてくれている。わたしはそれによって生かされている。そんな気がするんです」


 火の向こうの闇へ視線が伸びる。戻ってくるまでが、少しだけ長かった。


「そして……ロスコーさん、レナードさんやニナさん。ライルズとエリシア。出会った人たちすべて……」


 唇が次の形を探し、見つからないまま閉じられた。指先が膝の上でいちどだけ握られ、ほどける。ロスコーの頷きは短かった。顎の角度がわずかに緩み、沈黙が少しだけ体温を持つ。デルワーズは浅く息を吐き、赤に染まる自分の手を見下ろした。握り、開く。指の節を動かして、現実と呼吸を確かめる。


「……その直後、レナードさんとライルズが無事戻ってきました」


 顔を上げる。頬に薄い色が差し、焚き火の赤が皮膚の上をやさしく洗った。


「彼らはわたしたちを見つけると、迷うことなく防空壕への道を切り開いてくれました。混乱の中でも、彼らは冷静で……とても心強かった。彼らの声が、わたしたちに勇気を与えてくれました」


 礼と尊敬が、言葉の奥に静かに滲んでいた。


「ニナさんが怯えるわたしの手を握りしめてくれて……『一緒に行こう』って言ってくれました。泣きながらも微笑んで……その笑顔がどれほど力をくれたことか」


 唇が細く震え、目尻に温度が集まる。涙はまだ落ちず、頬の内側で熱に変わっているようだった。


「防空壕に着いた時……ようやくエリシアを下ろすことができると思ったんですけど、あの子は、わたしの服をぎゅっと掴んで離さないんです」


 布越しに残る爪の圧を思い出したのか、デルワーズの息が一瞬だけ細くなった。


「どんなに怖かったでしょう……。でも、その小さな手が温かくて、わたしを現実に引き戻してくれた。あの子のお陰で、わたしは生きなきゃって、より強く思えたんです」


 土と汗の匂いが遠ざかり、肺の奥へ冷たい空気が落ちていく。火の明滅が浅く揺れ、横顔の稜線に薄い影を置いた。ロスコーは黙って聞いていた。眉間の皺が一度だけ深く寄り、ゆっくり解ける。


「しばらくして……すべてが静かになりました。外で聞こえていた爆発音も、叫び声も、何もかもが……」


 瞼がそっと降りる。記憶の扉の金具が冷えて、かすかに鳴るような沈黙があった。


「レナードさんが扉を開けて、『もう安全だ』と言ってくれたとき――」


 視線が火へ落ちる。


「その瞬間、全身から力が抜けて、その場に崩れ落ちてしまいました。でも……それはきっと、安心したからだったんだと思います」


 声がやわらぎ、遠い痛みをそっと撫でるような手つきに変わった。


「その日から、わたしの中で何かが変わりました。いえ、変わらなければならなかったんです」


 胸元へ指先が上がる。触れる仕草で、過去の結び目を確かめるようだった。


「わたしにできることを、わたしにしかできないことを、なんでもいいから、精一杯やらなくてはならない。そう強く思いました。あの日、わたしを助けてくれた人や……命を落としていったたくさんの人たちのためにも……」


 火がぱちりと鳴った。デルワーズはその音を飲み込み、表情には影だけが揺れる。受け止める側の沈黙と、話す側の沈黙が、同じ温度を持ちはじめていた。


「だから――」


 視線がまっすぐロスコーへ向かう。


「わたしはレナードさんにお願いしました。マウザーグレイルを使いたい、と」


 言葉は低く、しかし沈みきらない。ロスコーの眉がわずかに動き、反応だけが鋭く光った。


「それは、ただ戦うためだけ……ではなく、だな?」


 静かな声が夜気を切り、二人の間の密度が変わる。デルワーズは一度だけ瞬き、言葉をはっきりと置いた。


「もちろん、守るためです」


 焚き火の明かりが頬に薄く重なり、迷いのない輪郭だけが残る。


「わたしはもう……誰にも傷ついてほしくない。それが理想だと笑われても、夢物語だと言われても、わたしはわたしにできることをしたい。そのために力を使います」


 握っていた拳を、そっとほどく。皮膚に残った爪の跡が白く浮き、呼吸が遅れて整った。


「もちろん、その力はエリシアを守るためのものでもあるからです」


 声の角が丸くなる。炎の呼吸に重なって、静けさへほどけていく。


「だから……わたしは行くんです。システム・バルファの、これ以上の横暴を阻止するために」


「デルワーズ。君は……」


 そのあと、デルワーズはやわらかく笑った。


「安心してください、ロスコーさん。わたしは死ぬつもりなんて、これっぽっちもありません」


「だって……わたしはエリシアの『お母さん』なんですから」


 言葉が落ちた瞬間、焚き火がぱちりと弾けた。短い沈黙が二人の間へ降りる。夜気の冷たさと、子どもの小さな体温の記憶が重なり合い、デルワーズの言葉は火の光とともに胸の奥へ沁み込んでいった。


 ロスコーは沈黙のまま見守っていた。鋭い眼差しの奥で、言葉にならない重さだけが沈んでいる。やがて、低く呟いた。


「システムを止める、か……。確かに、それが解決の一番の早道なのかもしれないが――」


 ロスコーの声は落ち着いていた。けれど額の皺は深く、火影がその硬さを細くなぞっていた。


「成功すれば統一管理機構は完全に統制を失うだろう。システムに依存しきっているかぎり、体制の瓦解は避けられない。それだけじゃない――システムが人工子宮プラントの管理を担っている以上、精霊族の因子を持つ『異端者』の発生だって抑えられるだろう。因子の発現そのものが、いまの歪みの火種なんだからな。だが……」


 彼は炎を見つめ、言葉をいったん宙で止める。火の中で、乾いた木が小さく沈んだ。


「システム・バルファの庇護の下で生きてきた人々にとっては……どうなのだろうな」


 ロスコーは唾を飲み込んだ。火の熱が頬を撫でているのに、喉の奥だけが乾いて、舌がうまく動かないようだった。


「現実として、彼らはシステムの管理なしでは存続できない。それに、バルファ市民は生殖能力さえ持たされていないんだ。システム・バルファを止めるということは、我らにとって緩やかな死を意味する」


 乾いた薪が小さく割れ、音だけが夜へ滲む。


「だが――精霊族因子が発現した個体は違う。そもそも精霊族とは自然に根ざした種族だ。発現は、市民にとってはじめての『次』になり得る。システムの支配から逃れ、子を残せる可能性が生まれるんだ」


 ロスコーの声がわずかに沈み、火の影が口元をかすめた。


「だから管理機構は怯えた。救いの芽でもあるからこそ、同時に統制を壊す。……救いと脅威が、同じ場所に刺さっている」


 デルワーズは短く息を吐き、片腕をもう片方の手で強く掴んだ。


「はい、ロスコーさんのおっしゃる通りです。システムを破壊したり停止させたりすれば、いまの世界を根幹から揺るがすことになります……分かっています」


 顔を上げる。視線がまっすぐ結ばれた。


「では、どうするつもりだ?」


 焚き火が一度だけ強く明滅し、火の粉がひとつ、暗闇で消えた。


「わたしが目指すのは、社会と市民の管理を担うシステムの表層ではなく、その最奥に位置するコアユニット――中核意識集合体。その名は『ラオロ・バルガス』」


 名が落ちる。火の音がふっと遠のいた。ロスコーは眉根を寄せ、身をわずかに前へ傾ける。


「……なんだと? 中核意識集合体だと?」


 驚きが声の縁に立ち、額の皺が深く刻まれた。


「いや、そもそもそんな名称があったとは……知らなかった。それを、どうして君が?」


 デルワーズは短く息を吐き、うつむく。膝の上で握った指の節に、火の赤が薄く乗った。


「……レナードさんから聞きました」


 細い震えのなかに、真実の重みだけは揺れない。


「レナードが……」


 ロスコーは眉間を押さえ、低く唸る。


「彼がどうしてそこまで知っている?」


 火の音が、布に沁みる雨のように静かに周囲へ広がる。デルワーズは顔を上げ、瞳の奥に炎の揺れを映した。


「はじめに、レナードさんについてお話ししましたよね?」


「……ああ、特異な技能を持つ存在だとは聞いた。両勢力から目をつけられているとも」


「その彼だからこそ、分かったんです」


 デルワーズは一度だけ視線を落とし、息を整える。


「なるほど。つまり、知りすぎたがゆえに統一管理機構から抹消指定されていた、というわけか。納得だ」


「はい。そして、これは彼がまだバルファ圏の市民であった頃の話です」


 声に、かすかな寂しさが混じる。


「彼はシステムのコアユニットに内包された中核意識集合体――『ラオロ・バルガス』の存在を知り、その正体に興味を抱いたのだそうです。そして、防壁を破るために、何度も何度も危険なハッキングを繰り返して……ついに、その一端に触れました」


 ロスコーの目が細くなる。横顔に緊張が薄い線を引いた。


「その頃のレナードはまだ子供だったはずだ。にもかかわらず、そこまで踏み込んだのか。信じられない天才だな……」


 デルワーズは口元だけで小さく笑う。


「そうですね。でも……わたしから見れば、ただのお父さんという感じなんですけどね」


 ロスコーは目を見開き、口元を一瞬だけ緩める。すぐに真顔へ戻った。


「だが、それほどのリスクを冒してまで、レナードは何を知ろうとしていたんだ?」


 デルワーズは短く間を置き、炎へ視線を落とす。


「彼が知りたかったのは……『ラオロ・バルガス』がもたらす支配と混沌の正体でした。なぜ統一管理機構が精霊族を排除し、異端者と断定するのか。その根底にあるシステムの設計理念と、ラオロ・バルガスの意思……それらを突き止めるためだったんです」


 ロスコーの瞳が硬く光る。赤い明滅が、皺の谷を行き来していた。


「……聞かせてくれ」


「はい」


 焚き火の赤が二人の間を薄く渡り、灰の匂いが少し濃くなったようだった。


「バルファ圏の市民の中から、なぜ精霊族因子を持つ者が生まれるのか……。機構側の公式見解によると、『精霊族の遺伝子はエクストラクロマチンという特殊な染色体領域に隠されており、それは出生前の検査で検出できない。第二次性徴を迎えて以降発現する。これが最大の特徴である』とのことでしたが、彼はそれに対し懐疑的でした。そして、その真相をついに突き止めた……」


「何をだ?」


「結論から申し上げると、純粋な精霊族には、そのような発現過程は見られなかったそうです。つまり、彼らは『生まれながらにして精霊族である』……と」


 言い切る声に、微かな震えが混じる。指先が衣の裾を一度だけ摘んだ。


「むう……」


 ロスコーは炎を見据え、低く唸る。


「それが本当だというなら……何もかも矛盾だらけじゃないか。だが、その違いとは何だ? 何が原因だと言うんだ?」


 デルワーズの手が無意識に拳を作る。火の赤が、節の山に淡く宿った。


「レナードさんは……ラオロ・バルガスが、意図的にその因子を埋め込んでいるのではないかと推測していました」


 ロスコーの瞳孔がわずかに開き、驚きと困惑が交差する。


「つまり、中核意識集合体そのものが、何らかの意図を持って人工子宮プラントに介入していた。そう言いたいのか?」


「はい。そして……その真意はまだ分かりません。でも、統一管理機構が精霊族を憎悪しながらも、彼らを完全には排除しきれない矛盾の背後に、ラオロ・バルガスの意思が関わっているのではないかと……彼はそう結論付けました」


 ロスコーは火を見つめたまま、声だけを落とす。


「バルファ社会を構成する『市民』の設計はすべてシステム・バルファが担い、人工子宮プラントが出生に至る流れをすべて握っている。……つまり、『外から混ざる道』などありはしない。突然変異や隔世遺伝では説明がつかないんだ」


 火が瞳に二つの窓を作り、その中で謎だけが揺れていた。やがて、ロスコーは低く息を吐く。


「……もしそれが本当なら、これは単なる迫害ではない。システム自身が生み出したものを、機構が異端として排除していることになる。なんという矛盾だ」


「はい。だからこそ、レナードさんはシステムの表層ではなく、その奥にいる存在を見なければならないと考えていました」


 デルワーズは火を見つめたまま、膝の上の手を静かに重ねる。


「わたしも、そう思います。止めるべきなのは、ただの軍でも、ただの制度でもない。命を盤面の上に置き、争いと排除を繰り返させる、その奥にある意思なのだと」


 ロスコーは返事をしなかった。焚き火の芯が小さく沈み、赤い光が二人の顔を低く照らす。夜気は冷たいのに、火のそばだけが苦しいほど近かった。


「……危険すぎる道だな」


 ようやく落ちた声は、かすれていた。


「はい」


 デルワーズは小さく頷く。


「それでも、行きます。わたしは死なないために。エリシアのもとへ帰るために。あの子が大きくなったとき、この世界が少しでもましな場所であるように」


 火がぱちりと鳴り、デルワーズは一度だけまばたきをした。


「わたしは、もう誰かの命令で動く兵器ではありません。……母です。だから、守りたいものを自分で選びます」


 ロスコーは長く沈黙した。やがて、ゆっくりと薪を取り、火の芯へ押し込む。乾いた木肌が赤へ触れ、細い煙が立った。


「……なら、俺も聞かなければならないな。君がどこへ向かおうとしているのか。何を背負っているのか。すべてを」


 デルワーズは、かすかに微笑んだ。その笑みは、もう少女のものだけではなかった。母のものでもあり、かつて兵器と呼ばれた者が、それでも人として立とうとするものでもあった。


「ありがとうございます、ロスコーさん」


 焚き火の光が、組まれた指先を淡く照らしている。指はまだ震えていた。けれど、その震えはもう、逃げ出すためのものではなかった。恐ろしさを知ったうえで、それでも前へ進むための、小さな呼吸のようにそこにあった。


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