死神と呼ばれた母
ロスコーは、しばらく火床を見つめていた。薪の芯が赤く沈み、組んだ腕の内側に熱だけが残る。デルワーズの語った三年は、幸福だけで閉じてはいない。その先にあるものを、彼はもう薄く察していた。
「難民キャンプか……そこだって、家族にとって安全とは言えないだろう。ましてやエリシアはまだ……」
彼は低く問う。夜気が声の縁を冷やした。デルワーズは頷き、火床へ視線を沈めた。明滅が頬の陰影を浅く動かす。
「はい。あそこは……安息とは程遠い場所でした」
火の赤が、伏せた睫の影を頬へ落とした。
「精霊族というのは、元々小規模単位に分かれて生活する部族で、自然の懐に抱かれ、その中で調和を重んじる暮らしに慣れていました。けれど、戦火に追われる中では……そうした穏やかな心を保つのはほとんど不可能と言えました。生活基盤を失い、物資も乏しい中で、集団生活を余儀なくされるのですから。そんな状況では不和や争い事が起きない方がおかしいのかもしれません」
ロスコーは腕を組み、眉間の皺を深くする。松脂の匂いがわずかに濃くなった。
「元々彼らは、生きるために自然から最低限の恵みを受けて暮らす人々だ。そんな環境は耐え難いだろう」
デルワーズは静かに頷いた。
「そうなんです。彼らの中にも考え方の違いがあって、これまで通りの調和を大切にしたい人たちがいて、一方では武力を手にして対抗するべきだと考える人たちがいる。そこに、バルファ社会から逃れてきた人たちも加わり、混乱は増すばかりでしたから」
デルワーズの膝の上の指が、知らず火の方へ伸びかけて止まった。
「いま、武力といったな?」
「はい。バルファの技術と経験を持つ人たちが手を貸したことで、精霊族がこれまで持たなかった力――つまり、『攻撃性』をも手にしてしまったんです。それが彼らの中に分断を生んだ。多数派を占めるバルファ出身者が中心となって、反抗勢力が発言力を強めていたんです。封印されていた攻撃に特化した術式まで持ち出して……」
デルワーズは一瞬、瞳を閉じた。火の音が、その間を静かに埋める。
「調和を重んじる人たちにとって、武器を取り戦うという選択肢は、禁忌そのものです。でも、命を脅かされ生活の場を奪われる現実を見れば、戦わなければ生き延びることができないのも確かです……。どちらが正しいかなんて、誰にもわかりません。ただ、その板挟みの中で多くの人々が壊れていく。まるで心のない兵器のように……」
火粉がはぜ、赤がデルワーズの横顔を斜めに撫でた。ロスコーは、彼女の震える声を黙って聞きながら、手元の薪をゆっくりと火にくべた。ぱちり、と火が切れ目を入れるたび、言葉が夜へ静かに沈む。
「そして、とうとう恐れていたことが、起きてしまったのです……」
デルワーズの声は低く、けれども痛みを堪えた響きがそこにあった。
「難民キャンプの中に、わたしの素性を知る人たちがいたんです。彼らにとって、わたしは……統一管理機構が生み出した殺戮兵器『門徒壱型』そのものでした。彼らの仲間を、家族を、そして平和を奪った最悪の存在。何を言ったところで、わたしが『殺戮兵器』であったことには変わりない。彼らの目には、わたしはただの憎むべき敵でしかなかったのです……」
膝上の手が固く結ばれ、顎がわずかに落ちる。
「レナードさんは、わたしのために必死に周囲を説得してくれました。彼は、わたしが『人格抑制とプログラムに従っていただけだ。命令を拒絶し、武装も捨てて、今はただ家族を守るためにここにいる』のだと伝えようとしたんです」
デルワーズは唇を噛み、焚き火の赤を見つめた。火の向こうにあるのは、責められた記憶だけではなかった。レナードが何度も人の輪の中へ入り、言葉を尽くしてくれたこと。怒鳴り返さず、相手の痛みを否定せず、それでも彼女をひとりの人として扱ってほしいと訴え続けたこと。
「でも……その場では、みんな黙るだけでした。レナードさんの言葉を聞いているようで、本当には受け取ってくれなかった。彼ほどの人が、どうして門徒壱型を庇うのか。そんな目が、今度はレナードさん自身へ向けられていったんです」
ロスコーの眉間が、わずかに深くなる。
「……彼まで疑われたのか」
「はい。レナードさんは、キャンプの中でも必要とされていました。物資の割り振り、水場の順番、怪我人の受け入れ、見張りの交替、揉め事の仲裁……そうしたことに、どうしても関わらざるを得なかったんです。リーダーではありませんでした。でも、みんなが彼の知恵を頼っていました」
火がぱちりと鳴る。デルワーズの声は静かだった。けれど、その静けさの底には、どうにもならなかった日の疲れが沈んでいた。
「だから、わたしたちだけを守るために、ずっとそばにいてもらうことはできませんでした。彼が役目を断れば、レナードさんの家族は自分たちだけ守られようとしていると見られてしまう。わたしを庇えば庇うほど、彼の立場も悪くなっていった」
ロスコーは黙ったまま、薪の先を火床へ押し込んだ。赤い芯が崩れ、細い煙が立ち上る。
「ライルズも同じでした。若くて動けるから、周辺の見張りや荷の運び出し、配給の手伝いに駆り出されていました。あの人は、わたしを傷つける言葉を聞いて黙っていられるような人じゃありません。でも、怒れば、それを口実にされてしまう」
「口実……」
「はい。死神の家族が暴れた、と。門徒壱型を庇う者たちも危険だ、と。だからライルズは、わたしのそばにいたくても、外へ出るしかなかったんです」
デルワーズの指先が、衣の端を探った。布の皺を一度つかみ、すぐに離す。
「……昼のあいだは、レナードさんもライルズも、キャンプの仕事で離れてしまうことが多かった。難民キャンプに身を寄せている以上、断れる立場ではなかったのです。ふたりがそばにいない時間が、どうしても……」
火の熱が、ほんの少しだけ頬をゆるめたのに、彼女の声は冷えていく。
「テントを出る前に、レナードさんは必ず言いました」
デルワーズはわずかに顔を伏せたまま、記憶の声をなぞった。
「『大丈夫だ。夕方には戻る。わたしは君を置いてはいかない』って」
胸の奥がきしむような音が、焚き火のはぜと重なった。
「ライルズも……」
彼女の指先が衣の端を探り、そこで止まる。ライルズは、黙って耐えるのが得意な人ではなかった。誰かがデルワーズを傷つければ、すぐにでも前へ出ようとする。けれど、その怒りが彼女たちをさらに追い詰めることを、彼もわかっていたのだろう。だから、テントを出る前の声は、いつも少しだけ硬かった。
「『何を言われても、返すな。エリシアだけを見ているんだ。……合図があったら、すぐ戻る』って」
ロスコーは黙ったまま、火の揺れを見ていた。赤い筋が、彼の眉間の影をゆっくり削っていく。
「ニナさんは、その隙を埋めようとしてくれました。わたしの前に半歩だけ立って、いつも同じように言うんです」
「『わたしが話すから。あなたはエリシアをしっかり抱いていて』って」
デルワーズは小さく息を吐いた。吐いたはずの息が、喉の途中で引っかかる。
「けれど……わたしたちには反論のしようがなかった。周りの人は誰とも目を合わせないし、黙ったまま距離だけを詰めてくる。言葉の行き先が、どこにもなかったんです」
ロスコーの瞳がわずかに細くなる。火の音が、その沈黙を埋める。
「それだけでは済みませんでした。配給の列に並んでも、わたしにだけは物資を渡そうとしない。ふたりが不在の昼間になると、それが露骨になっていきました。最初は目を逸らされるだけでしたが、次第に露骨な態度で接するようになりました。そして、ついには――」
デルワーズの声が震え、目を閉じた。
「『人殺しの人形にやる食料はない。出ていけ』、と言われるようになりました」
「なんだそれは。ひどすぎるじゃないか……」
ロスコーは唇を噛んだ。
「ニナさんが言い返そうとしても、相手は笑うだけでした」
「『そいつに分けてもらえばいいだろ』って」
デルワーズのまぶたが一度だけ強く閉じられ、すぐにほどける。
「冷たい視線や心無い言葉、罵声。それだけなら耐えられると思っていたんです。わたし自身が苦しむだけなら、構わない。でも――」
彼女は小さく息を吐き、瞼をぎゅっと閉じた。
「エリシアにまで矛先が向けられてしまったとき、わたしは……」
ロスコーは、そっと手を膝に置いた。声を急がせることはしなかった。ただ、火越しに彼女を見つめている。
「エリシアに何か……?」
デルワーズは唇を噛み締め、焚き火の明かりに照らされる顔に影が落ちた。
「配給が滞って、エリシアに食べさせるものが足りませんでした。授乳はまだ続けていましたが、出が少なくて……少しでも分けてもらわないと、この子が持たない。それで、わたしは列の前で膝を折り、声を削るように言いました。『わたしはいりませんから、この子の分だけでも』と……」
彼女の瞳から涙が零れ落ち、頬を伝って消えていく。
「ニナさんも、同じように頭を下げてくれました」
「『お願い。子どもに罪はないでしょう』って……」
焚き火がぱちりと鳴り、言葉の端を切った。
「でも、それでも配給は渡されませんでした。それどころか、近くにいた子供たちが、わたしたちに向かって石を投げつけたんです。……肩口に当たった鈍い痛みが、今もまだ皮膚の下に残っている気がします」
ロスコーの顎が固くなり、拳が膝の上でわずかに握られた。
「ニナさんが間に入って、止めようと叫びました。でも子供たちは、足元の小石を拾う手を止めなかった。子供たちは言いました。『死神の親子だ』って。『人殺しの子だ』って……」
言葉の切れ目ごとに、火の音だけが夜を占めた。
「その場でわたしは、ただエリシアをかばおうと抱きしめていました。どんなに石が当たっても、罵声を浴びせられても……ただ抱きしめて、それしかできなかった。腕の中のちいさな体温だけが、崩れそうな意識を辛うじて支えていました」
その日の夕方、戻ってきたレナードは、彼女たちの衣についた土と、エリシアの泣き疲れた顔を見て、何があったのかすぐに察したのだろう。彼は怒鳴らなかった。ただ、ひどく静かな顔で配給所へ向かい、長い時間、戻ってこなかった。
「あとになって、子どもの分だけはなんとか分けてもらえました。レナードさんが、何度も何度も掛け合ってくれたからです。……でも、それは助かったというより、その日だけを越えられた、というだけでした」
デルワーズは、膝の上で手を握りしめた。
「次の日も、その次の日も、同じことが起きるかもしれない。レナードさんやライルズがいなければ、またエリシアの分まで奪われるかもしれない。そう思うと……わたしは、もう眠れませんでした」
焚き火の赤が、彼女の白い指を淡く照らした。
「『死神』、『人殺しの人形』、『血も涙もない悪魔の兵器』、『暗黒の使徒』……そんな言葉を浴びせられるたびに、わたしは……わたし自身が何なのかわからなくなりました」
ロスコーは火越しに彼女を見据え、低く声を落とした。
「何の非があるというんだ。かつての君は考えることも判断することも許されず、プログラムという呪いに縛られていたに過ぎない。理不尽にも程がある」
「それでも、わたしが人を殺してきたという事実に変わりはないんです。その過去もわたしの一部で、罪は消すことも忘れることもできないんです」
デルワーズの声は静かに震えていたが、その言葉には深い覚悟が宿っていた。彼女はロスコーを見上げることなく、焚き火に目を落としたまま続けた。
「わたしがこの手で奪った命は、誰かにとってかけがえのない存在だった。だから、どれだけ罵られても退ける権利はわたしにはありません。むしろ……罵られることくらいでしか償えないのだと――そう思うしかなかったんです」
ロスコーはしばらく沈黙していた。焚き火がひとしきり明滅し、目元の影を薄く削った。やがて彼は深く息をつき、低い声で言った。
「償いだと……。そんなものでは何の救いにもならない。結局は、君自身を壊すだけだし、子どもだって……」
デルワーズは眉をわずかにひそめ、彼をちらりと見た。その視線には、かすかな反発と、自分でも答えの出ない問いへのもどかしさが滲んでいた。
「ええ、いいことなんて何もない……わかっているんです。だから、わたし……これ以上家族の迷惑になりたくないから、エリシアをニナさんに託して一人で出ていこうと思いました……」
小さな焚き火の炎を見つめ続ける瞳には、今でもその苦しみが色濃く残っているようだった。
「エリシアはまだ何もわからない幼子です。けれど、いつか大きくなれば自分の生まれを呪い、わたしが負わせた烙印を憎むかもしれない――そう思うたび、胸が張り裂けそうでした」
彼女の声は低く、静かな響きだったが、その中にある深い痛みがロスコーに届いていた。彼は眉をひそめ、焚き火に視線を落とした。
「そう思うのは勝手だが、エリシアにとって君がいなくなる方がもっと辛いはずだ」
ロスコーの声は低かった。けれど、その低さは揺れなかった。誰かを失うことの重さを、もう知っている者の声だった。
しかし、デルワーズは首を横に振り、言葉を重ねた。
「その時は、そうは思えませんでした。わたしがここにいるかぎり、彼女は傷つき『死神の娘』と呼ばれ続ける――考えれば考えるほど、いっそわたしがいない方があの子は楽に生きられると……本気で信じていました」
デルワーズの手が膝の上で握られ、その指先が微かに震えているのが見えた。彼女は自分の言葉を絞り出すように続けた。
「だから、わたしはライルズに頼みました。『ここを出ていくから、どうかエリシアを守ってほしい。わたしがいることで彼女がこれ以上苦しまないように』と……」
ロスコーの目がわずかに細まり、唇が固く結ばれた。火の赤が頬の稜線を鋭く縁取り、表情の陰影を深くする。
「それで……ライルズはなんと言ったんだ?」
デルワーズは睫を伏せ、火床へ視線を沈めた。赤い明滅が頬を伝う涙の筋を細く揺らす。
「彼は……ひどく怒りました。それはもう、今まで見たことのないくらいに……。わたしの手を掴んで、こう言ったんです。『エリシアにとって、母親がいなくなることがどれだけの悲劇になるかわかっているのか』って……」
声の縁が震え、雫が膝布に小さな円を咲かせる。指先が衣の皺を探るように丸まり、呼吸が浅くなる。
「わたしは言い返しました。『あの子が苦しむくらいなら、わたしなんかいない方がいい』って……。でも彼は、わたしを抱きしめて言ったんです。『君がいなければエリシアは生きていけない。俺だって同じだ』と」
ロスコーは眉間にしわを寄せ、深い溜息をついた。
「ライルズの言う通りだ。自責は子の糧にならない。エリシアの母は君一人だ。その喪失がどれほど残酷か……」
デルワーズは涙を拭い、弱々しく笑みを浮かべた。それは、少しだけ希望を取り戻したような表情だった。
「……はい。今ならわかります。あの言葉が、わたしを引き留めてくれたのだと。ライルズの怒りも、優しさも――ぜんぶ。だからわたしは、もう一度エリシアと生きることを選びました」
はぜた火花が夜気に消え、静けさが戻る。その音が二人の間に短い静けさをもたらした。
「それでよかったんだ、デルワーズ」
ロスコーは静かにそう言い、焚き火へ視線を戻した。デルワーズは小さく頷いた。吸い込んだ息はまだ震えていたが、吐き出すころには、ほんの少しだけ長くなっていた。
「ええ……それでよかった。きっと……それで……」
デルワーズの言葉が途切れると、焚き火の音だけが夜空の静寂に溶け込んだ。炎の揺れが彼女の横顔を淡く照らし、涙の痕が微かに光を反射している。ロスコーはその姿を静かに見守りながら、長く息を吐いた。
「それで……?」
ロスコーの問いかけに、デルワーズの瞳がわずかに動いた。彼女は顔を上げずに頷き、また静かに語り始めた。
「……それからは、この生活がいつまで続くのか考えないようにしていました。毎日を生き延びることで精一杯で。わたしはエリシアを抱いてテントに籠もり、外へ出るのを避けました。石を投げられることも、罵られることも……もう、耐えられなかったんです」
彼女の声には、当時の恐怖と苦悩が生々しく滲んでいた。
「その間、ニナさんがずっとわたしに寄り添って、支えてくれました……でも、結局あの日が来てしまった。わたしたちの安息が……完全に崩れ去る日が……」
ロスコーは顔をしかめ、次に来る話を予感しながらも、静かに続きを待った。デルワーズは小さく息を吸い、声を震わせながら語り続けた。
「突然、統一機構軍の空爆が難民キャンプを襲ったのです。爆音と地鳴り……最初は何が起きているのか分からなくて。空を仰ぐと、火の粒が次々と降り注いできて――」
ぱちり、と火が弾け、語りの縁に小さな切れ目を入れた。




