火粉に溶ける罪と、夜の底の告白
焚き火が細く息をつき、火床がかすかに脈打つ。赤がデルワーズの横顔をやわらげ、瞳の奥に名づけ得ないものを浮かせた。唇がかすかに動くたび、胸の奥の水面がさざめいては静まる。火粉がはぜ、彼女の肩がわずかに跳ねた。それは一瞬、過去の痛みがふいに彼女を掠めたような仕草だった。
「まず、わたしが抹殺命令を受けたレナードさんについて、ご説明します」
静かな声が、夜の空気を裂く。おだやかな調子のまま、炎に照らされた横顔にだけ脆さが残る。
「彼は、もともと統一管理機構の――いわゆるバルファ圏の市民でした。しかし、彼が精霊族の因子を持っていることは、幼い頃は誰も気づかなかった。それは『エクストラクロマチン』という特殊な染色体領域に隠されていて、出生前の遺伝子検査では決して見つからないんです」
火がぱちりと鳴り、煙が細く上った。標準の検査では拾えない場所に沈んでいる。その事実だけを、デルワーズは炎へ落とすように告げていた。聞いていたロスコーが、火越しに短く口を挟む。
「……ああ、そうだ。精霊族因子は、発現するまでは誰にもわからない。それが機構において最大の社会問題となって久しい」
デルワーズは頷き、火床へ視線を沈めた。
「はい。精霊族の因子は第二次性徴を迎えた後、突如として発現しますが、その時期は個人差が大きい。そして発現と同時に、身体の一部に精霊族特有の痣――いわゆる『紋章』が浮かび上がり、システムの監視下でそれを隠し通すことはできません」
膝の上の指が一瞬こわばり、すぐにほどけた。指先の白さだけが、遅れて火に照らされる。
「ですが、レナードさんが統一管理機構にとって本当に問題だったのは、ただ精霊族の因子を持っていたからだけではありません。彼は幼い頃から天才的なハッカーであり、また優秀な科学者でもありました。そして特例中の特例で、機構の外郭研究施設で精霊族に関する研究に関わっていたのです」
言葉が続くほど、薪のはぜる音が遠くなる。焚き火の赤だけが、一拍だけ強く脈打った。
「……そこで彼が目にしたもの――それが、彼を単なる異端に留まらない、体制にとって最悪の危険存在に変えてしまったのです」
「いったい、どうして……」
ロスコーが低く呟く。焚き火の赤が眉間の皺を一筋だけ深くする。
「疑問を抱いたレナードさんは、ハッキングの末……絶対に触れてはならない禁忌に触れてしまったんです。精霊族と、この世界の根幹を揺るがすシステム・バルファの真実に……」
息をひとつ置く。
「そして、その断片に触れた直後――偶然にも、自分自身の因子を発現させてしまった。……それが十四歳の時だったそうです」
そこで一度、言葉を区切る。火のはぜる音が、短い間を受け取った。
「彼は、追われる身となりました。でも、ただ逃げるだけではなかった。精霊族のコミュニティと合流し、自らの知識と技術を生かして、迫害される彼らを助けることを選んだのです。やがて若くして『賢者』の一人に名を連ねるほどに、欠かせない存在になりました」
デルワーズの瞳に、炎の反射が細かく揺れる。
「ですが、彼の存在は結果として精霊族に分断をもたらしてしまった。彼がもたらした最先端の科学技術を手にした一部の者たちは、これまでの『争いを避け、自然と調和する』という伝統を捨て、機構に対して武力で対抗するという道を選んでしまったんです」
痛みがかすかに声に滲む。
「でも、レナードさんは戦いを嫌いました。時間がかかっても、相互理解と融和を目指すべきだと信じていた。そのため強硬的な反抗勢力とは袂を分かち、家族を連れて山奥でひっそりと暮らしていたのです」
言葉をいったん置き、息を細く吐く。横顔は淡く照らされ、どこか儚い。
「ですが、やはり機構からは危険視され続けていました。同時に、反抗勢力からもどうしても取り込みたい対象だった」
ロスコーが短く息を吸い、低い声で問う。
「……抹殺命令を受けた君が作戦に入った時、その思惑で動いていた過激派の部隊もそこに潜んでいた。そういうわけか」
デルワーズは首をわずかに縦へ振る。
「はい。あの場にいた全員が、虎視眈々と彼を狙っていました」
膝上の手が固く結ばれ、指先に小刻みな震えが走る。
「そして……レナードさんは、燃え盛る森の中でわたしを目の当たりにした瞬間、その正体にすぐ気づいていたそうです」
「君の正体に?」
「ええ。わたしが対精霊族戦専用に開発・調整された、特殊な個体であることに」
デルワーズの視線が一瞬だけ火から外れ、ロスコーをとらえる。
「でも彼は、決してわたしにそのことを告げることも、機構の情報を尋ねることもしませんでした。後になって聞いた話ですが、その時はただ、人の命を弄ぶ統一管理機構に対する憤りしかなかったそうです」
その一節だけ、声が硬くなる。喉元に鉄の味が微かに戻った。
「だから、彼はわたしからマウザーグレイルを遠ざけ、人として生きる道を指し示し、促してくれたのです。それは言葉ではなく、日々の営みを通して……」
しばしの沈黙。焚き火だけが夜を刻む。やがてロスコーが、重い息を吐き出して口を開く。
「……なるほどな。理解できる。それが機構の非人道的なやり方への、彼なりの反抗だったのだろう。俺だって……同じ立場ならそうするかもしれない」
声音に淡い哀しみが混じる。
「君を兵器から人へ戻すこと。それが彼の選んだ戦いだったんだ。だが、それは単なる復讐でも哀れみでもない。根底には君に対する深い思いやりがあったことは確かだろう。でなければ、君たちは本当の家族にはなれなかったはずだ」
デルワーズはふっと息をつき、小さな笑みを浮かべた。ぎこちなさの奥に、確かな温度がある。
「そう思います。本当に、レナードさんには感謝しています」
声は穏やかで、安堵の色を帯びていた。
「だって、彼はわたしのことを、本当の娘のように扱ってくれましたから」
「ほう……」
「つまり……これって、わたしには『お父さん』が二人いるってことになりますよね?」
デルワーズが、少しだけいたずらっぽく小首を傾げる。ロスコーは目を丸くし、それから照れくさそうに頭を掻いた。
「そ、そういうことになるのかな。育ての親が俺ならば、彼は人の心を教えた義理の父、ということになる」
「ふふ、そうですね」
火が小さく音を立て、橙の揺らぎがやわらかな表情を縁取る。肩の力がほんの少しだけ抜け、背筋に残っていた冷えがゆるやかに退いた。
「……でも。エリシアが一歳を過ぎた頃……戦火が、わたしたちの住む場所に迫ったのです」
声は急激に温度を落とし、凄惨な記憶の縁へ降りていく。
「……なんてこった」
ロスコーが低く漏らす。デルワーズはそっと頷いた。
「すぐに家族全員で避難することにしました。その時、隠されていたマウザーグレイルのことは……気にも留めませんでした。あんなものは、もう一生不要だと思っていたんです」
火床へ視線を沈め、舌に焦げた煤の渋みを覚えながら続ける。
「そうです……。わたしはただ、家族と一緒にいられればそれでよかった……」
ロスコーの浅い息が赤を揺らし、火がひとしきり明滅する。デルワーズは視線を動かさず、静かに言葉を継いだ。
「避難する途中のことです。わたしたちの前にバルファ軍の部隊が立ちはだかりました。レナードさんが精霊魔術で戦おうとしてくれたけれど……多勢に無勢で、どうしようもなかった。彼らがライルズとエリシアに銃口を向けたとき……」
喉が乾いた音を立てた。声に激しい震えが混じり、手首の脈が急に速くなって、指先が白くなった。
「まさかとは思うが――」
ロスコーの声が遮るように低く走った。
「君が出たんじゃないだろうな? 無茶だ。主兵装であり制御中枢であるマウザーグレイルがなければ、君は精霊子の過剰負荷で……」
焚き火がぱちりと爆ぜ、火の粉がひとつ暗い天井へ吸い込まれた。夜気に鉄の匂いが濃くなる。技術者としての彼には、それがどれほどの自爆行為か痛いほどわかっていた。
デルワーズは目を伏せ、短く答えた。
「ええ。安定装置がない状態では、精霊魔術を安定して使うことすらできません。脳に負荷がかかりすぎれば、暴走して自我を失い、自滅する可能性が高い。……でも、それでも……それしか方法がなかったんです。大切な家族を失うくらいなら、わたし自身が壊れてもいいって――覚悟を決めるしかなかった」
ぱちり、と火が弾ける。両手を膝に置いたまま、指先のわずかな震えを彼女自身が自覚する。
「……力を解放している間、わたしは泣いていたのかもしれません。いえ、それすら覚えていない。ただ、エリシアを抱きしめることはもう二度とできないとわかっていました。それでも、力を振るわざるを得なかった……」
遠くで夜の虫が一度だけ鳴いた。
「気づいた時には、敵は……一人残らず息絶えていました。わたしが殺した。この手で、皆殺しにしたんです」
火がひとしきり明滅し、涙の縁をかすめた光が、頬の影を細く断った。
「もう殺さないって誓ったのに……それでも、やってしまったんです。制御の利かない力に呑まれて、湧き上がる負の感情と破壊衝動に完全に支配されて……」
吐息が長く抜ける。爪が掌の皮膚に深く沈み、その物理的な痛みだけが意識をかろうじて繋いでいる。
「でも、その時……ライルズがわたしを止めてくれました。彼がマウザーグレイルを抱えて、暴走するわたしに近づいて……抱きしめてくれたんです」
「……暴走している状態の君を、だと? ばかな……」
ロスコーが慄然として問う。デルワーズは静かに頷いた。
「はい。触れるものすべてを引き裂こうとする荒れ狂う力の中を、彼が生身で飛び込んできて。……剣を握り、わたしの手に無理やり触れさせてくれた。それで、なんとか自我を取り戻すことができたんです」
声の端に、後悔と感謝が同じ濃さで滲んでいた。
「我に返った時……ライルズは、わたしのせいで傷だらけでした。それでも、彼は泣き叫ぶわたしを強く抱きしめて『もう大丈夫だよ、よく頑張ったね』って言ってくれたんです。……その時、わたしは初めて自分がどれだけ恐ろしいことをしてしまったのかに気づきました。そして……そこで意識を失いました」
「……しかし、どうしてマウザーグレイルがそこにあったんだ?」
ロスコーの問いに、彼女はしばし沈黙し、炎の動きに視線を預ける。
「再び目を覚ました時……」
熱に包まれながらも澄んだ声が、そっと過去に触れる。
「マウザーグレイルは、わたしの手元にありました。暗い洞窟に横たわりながら、わたしはそれをしっかりと抱きしめていたんです」
ふう、と短く息を吐き、瞼を閉じる。ほんの一瞬、傷ついた少女のような無防備さが覗く。
「理由がどうしてもわからなくて、レナードさんに尋ねました。すると彼はこう言ったんです。『君にはこの忌まわしい剣のことなど忘れて、ただの人として生きてほしかった』、って。でも『同時にこれは、君にとっての命綱であることも間違いない。もし万が一君が力を解放するようなことがあれば、暴走を止めるために絶対にこれが必要になる。だから、こっそり保管させてもらっていたんだ』、と」
その言葉を噛みしめるように語る。火の赤が瞳の奥で揺れ、伏せかけた睫が、一度だけ影を落とした。
ロスコーは低く唸る。
「……論理的に、そして君を守るために、極めて正しい判断だ」
デルワーズは小さく微笑み、再び炎を見つめる。
「そう思います。レナードさんは、いざという時、わたしが何もかも投げ出して壊れてしまわないようにと考えてくれたんでしょう。同時に、あの時のライルズの気持ちも……。幸いにも彼の傷が浅かったことを知った時は、本当に安堵しました。わたしがあの状態で彼を殺してしまっていたらと思うと……」
声に震えが戻るが、唇を固く結び、涙を堪えて俯いた。
「エリシアはいつも通り元気で、それが何よりでした。けれど、もし『あの血に塗れる恐ろしいわたし』を見ていたのだとしたら――小さな心に、消えない傷を……」
膝の上の拳が白く強まり、肩甲骨のあたりに夜の冷えが薄く貼りつく。ロスコーは言葉をのみ込む。火の音だけが間を埋める。
デルワーズはしばらく目を閉じ、深く息を吸って顔を上げた。震えていた唇が、ゆっくりと結ばれる。
「それから……どうにか追手を振り切り、逃げ延びました。ひとまずの避難先は、精霊族の難民キャンプです。そこで、家族の新しい暮らしが始まりました」
ぱちり、と火花が闇へ散った。




