逃げない背中を、いつか我が子に見せるため
しばらく沈黙が降りた。焚き火が息をつくたび、赤が頬を撫で、デルワーズの横顔だけが暗がりから浮かび上がる。さきほどまでそこにあった微笑みは、まだ消えてはいなかった。ただ、火の音に触れて、少しずつ静かなものへ戻っていった。
ロスコーはその横顔に視線を留め、胸の底の空気をゆっくり吐き出した。松脂の匂いがほのかに喉へ戻り、唇の端に、おだやかな安堵がにじむ。
「それが君にとっての三年か。たった三年。されど三年。しばらく見ないうちに、ずいぶんと頼もしくなったものだ」
焚き火越しにかける声には、ためらいと照れがわずかに混じる。
「……こんなにも幸せそうに笑う君を見る日が来るなんてな……本当に、来てよかった」
彼の低い声は夜気に溶け、火のはぜる音と重なった。デルワーズは目を細めて微笑んだ。その笑みのやわらかさを、ロスコーは黙って受け止める。
「ありがとうございます、ロスコーさん。そう言っていただけて……わたしも、胸がいっぱいです」
火の明かりが頬に淡く宿り、伏せた睫の影を細く落とした。
「もっと早く、あなたに感謝をお伝えしたかった。お話したいことだってたくさん、たくさんあったんです。なのにこんなことになってしまって……ほんとうにごめんなさい」
「そんなことは、もういい。もういいんだ。なんといっても、『娘』がこんなに立派に成長したんだからな。それだけで俺は納得するしかないし、満足している」
ロスコーはすぐには言葉を足さなかった。薪の芯が赤く沈み、短い静けさだけが二人の間に残る。火の向こうにいる彼女が、もう調製槽の中で眠っていた少女ではないことだけが、胸の奥へゆっくり沈んでいった。
しかし、その瞬間、ロスコーの表情に陰が落ちた。焚き火越しの視線が、いまではない遠さへ触れる。口を開きかけて、彼は一度閉じる。火の赤が頬を横切り、その逡巡までもあらわに照らした。薪が崩れて、火の粉がひとつ跳ねる。言葉の行き場だけが、先に冷えた。
「だが、デルワーズ……ひとつだけ聞かせてほしい」
低く慎重な声音には、傷つけまいとする気遣いがかすかに滲む。
「……はい」
デルワーズは軽く頷き、まっすぐに視線を返した。
「夫を愛し、子どもを愛して……ようやく人として生きることを選んだ君が、なぜ、いま、ここにいる?」
焚き火のざわめきが隙間を埋める。その問いは、責めるためのものではなかった。けれど、火のそばに置かれた幸福の記憶を、一度だけ静かに揺らした。
「……せっかく手に入れた幸せを手放してまで――危険な最前線で戦う必要が、本当にあるのか?」
短い間ののち、押し出すように続く。
「……なぜなんだ?」
デルワーズの指がわずかに強張った。微笑は音もなくほどけ、唇は開きかけて止まる。眼差しの奥に、痛みとためらいの層が揺れていた。彼女は視線を落とした。火粉が流れるのを追うように、頬の陰影もまた移ろう。
「……理由、ですか」
それは彼へ向けると同時に、自分自身へ落とした問いだった。唇を噛み、小さく息を吸う。迷いと、それでも掬い上げようとするものが、表情の端で交錯する。やがて、火を見つめたまま、静かな声がこぼれた。
「ずっと、考えていました……どうすれば、エリシアのことを守ってあげられるのか。本当に幸せを手放さずにいられる道が、この世にあるのかって……」
言葉を置くたび、膝の上の指が少しずつ硬くなる。
「わたしは……自分の罪や影を、あの子には、あの子だけには背負わせたくないんです。どれだけきれいごとに聞こえても、本当に、それだけが――」
赤い明かりが、震える指先を拾う。
「だから……逃げずに過去に決着をつけたかった。……それはわたし自身が、これから先を、未来を、家族と一緒に生きていくためでもあるんです」
言葉が落ち、沈黙がやわらかく降りた。焚き火の小さな呼吸だけが、夜の底で続いている。ロスコーは火を見つめてから、ゆっくりと目を細め、デルワーズへ視線を戻した。受け止めるための静けさが、その眼差しに宿っていた。
「……家族を守るために、戦うことを選んだ――そういうことか?」
問いには、理解と確認の両方があった。デルワーズは小さく頷く。迷いと覚悟が、ひとつの温度に溶け合っていた。
「はい」
霧のように小さな声の奥で、かすかな火が息づく。
「――争いは……日に日に広がっていくばかりです」
焚き火の熱が指先に触れ、指の腹がわずかに引いた。瞳に映り込んだ炎の揺れが、黒い翳を底へ沈めていく。
「豊かだった大地は焼かれ、空気は澱み、空は……闇に包まれていくばかりで。終わりの見えない戦乱がすべてを侵していく――そんな気がして……」
震えは、恐れだけではなかった。自責と無力の影が、声の奥に潜んでいた。彼女は膝の上で指をゆっくり握り直す。言葉を搾るための支えに、火の熱が薄く染みていく。
「なのに……安全な森の奥で、わたしだけがただ幸せに暮らしていていいなんて――そんなこと……許されていいはずがない」
最後の一語が、静かに落ちる。ロスコーは黙した。火の赤が横顔の稜線を鋭く縁取り、選ぶべき言葉がその内側で形を探している。
「だが……君は、もう兵器なんかじゃない――」
声音には、哀しみと苛立ちがつかず離れず寄り添う。
「戦う必要も、義務も、もうないはずだ」
視線は温かさを含みながら、その奥で問いを鋭く保っていた。
「君は……人の喜びも、悲しみも、痛みも知ってしまった。その君が、本当に戦えるというのか?」
デルワーズは瞼をいったん下ろした。深く息を満たし、ゆっくりと目を上げる。その若翡翠の奥には、揺れながらも折れない芯があった。
「……おっしゃる通りです」
低く、静かな声だった。炎がひとつ小さく鳴り、彼女の横顔に薄い影を重ねる。
「戦うことが怖くないわけではありません。誰かを傷つけることも……もう、平気ではいられません。自分の力が何を壊してきたのか、今はもう、知らないふりなんてできない」
唇がわずかに震える。けれど、彼女は視線をそらさなかった。
「それでも……わたしには、見過ごすこともできませんでした」
火の粉が短く舞い、すぐ闇へ消えた。
「目の前で誰かが苦しんでいるのに、わたしはもう戦えないから、怖いからって……ただ背を向けて、あの子を抱きしめて暮らしていく。それが本当に、エリシアを守ることなのかって……何度も考えました」
声が細くなる。それでも、細さの奥に、消えない熱が残っていた。
「……答えなんて、今もありません」
デルワーズは小さく息を吐き、膝の上の手をほどいた。ほどいた指は、すぐまた自分の膝の布をつかむ。何かを握っていなければ、そこから零れてしまいそうだった。
「でも、わたしは……あの子が大きくなったとき、母親が逃げなかったことだけは、知っていてほしいんです」
ロスコーの目が、わずかに揺れた。デルワーズは、火の赤を見つめたまま続けた。
「……わたしは、止まるわけにはいきません。エリシアが大きくなったとき、母親が……自分の罪や痛みから目を逸らしてまで、生き延びようとした――そんな情けない姿だけは、見せたくないんです」
炎を見据えたまま、確かに言葉を重ねる。
「わたしは……あの子の前で、胸を張っていられる母でありたい。だから……進むしかないんです」
ロスコーは短く息を吐いた。薪をくべる手が途中で止まり、彼は焚き火越しにデルワーズを見つめる。その表情に浮かんだのは、納得ではなかった。許しでもない。もっと重く、もっと静かなものだった。
「……すべては、統一管理機構とシステム・バルファのせいだ……」
低い声音は、揺るぎない確信を帯びていた。
「君が歪められた形で生を受けさせられたことも……無理やり戦うための機能を与えられ、心までも封じ込められてしまったことも……全部、あいつらの仕業だ」
デルワーズは火の明かりの中で頷く。それは重い事実を認める、静かな痛みだった。
「ええ……そうです。すべての元凶は、システム・バルファです。この世界全体を統括管理する仕組みそのものです。――そして、その中核にいる意識集合体。それこそが、この争いの源なんです」
ロスコーの表情に驚愕が走った。疑念と困惑が交錯し、目の奥に緊張が立つ。
「な、なんだと……?」
「……わたし、知ってしまったんです」
声は震えを帯びながら、決意で支えられている。
「すべてというわけではありません。けれど……システム・バルファが何を望み、何を仕掛けようとしているのか――その断片に触れてしまった。……それが、この争いの本当の原因なのだと」
ロスコーは言葉を失い、炎の揺らぎに視線を奪われた。火は影と光を交互に彼女の頬へ置き、吐息すら夜の静けさを細く裂いていく。沈黙を割くように、声が落ちる。
「デルワーズ……お前は何を知った? 一体、何を言おうとしているんだ? システム・バルファが……この争いを引き起こしていると、本気で思っているのか?」
疑念と、答えを恐れる気配が同居する。デルワーズは火から視線を外さず、小さく頷いた。
「……ええ。そうです」
短い返事の重みが、彼の胸を打つ。彼女は膝上の手をぎゅっと握りしめ、内側の渦を外へ出さぬよう支える。
「わたしは……彼らの戦略的意図に基づく規格と、その影響下で生み出された存在です」
指先の体温がすっと引き、爪の先だけが白くなった。焚き火のはぜる音が、言葉の切れ目を受け止める。
「兵器として、争いの道具として……ただ目的のために作られた命。でも――」
短い沈黙。
「その本質を知ったとき、わたしは……わたし自身という輪郭が、すべて崩れ落ちてしまったように感じました」
炎の奥へと伸びる視線が揺れ、失われた答えを探す。
「システム・バルファとは、表向きにはこの世界の均衡を保つための仕組みです。理想的な秩序を掲げているように見えます。けれど――本当は違う。彼らが求めているのは均衡ではなく、意図的に『歪み』を生み出すことなのです」
ロスコーは眉根を寄せる。彼女の言葉の底にある痛みが、火の揺れに具体を得ていく。
「歪みを……作り出すだと?」
低く落ちる声。
「それは……どういう意味だ?」
デルワーズは深く息を吸い、拳を固めた。皮膚へ食い込む爪の痛みで、言葉を繋ぐ。
「システム・バルファは、この世界のすべてを管理し、制御することで理想を描いているように見えます。でも……それは仮初めにすぎません」
ひと呼吸。
「彼らは……争いそのものを利用しているんです。文明を、命を、進化を加速させるために。この世界で繰り返される戦いは、彼らにとってはただの道具……『一つの実験』に過ぎないのです」
苦痛の熱が言葉に移り、夜気へじわりと広がる。ロスコーは炎だけを見つめていた。火の中で崩れる薪の形を追いながら、彼はその言葉がどこまで届くのかを測っているようだった。
「……わたしたちがどれほど苦しもうと、命がいくつ失われようと、彼らにとっては必要な試行の過程に過ぎない。それを知ったとき……わたしは、ただ黙って受け入れることなんてできませんでした」
膝上の拳が小さく震え、白が強まる。ロスコーは短く息を吐き、遠いものを見るように目を細めた。
「つまり……君が戦う理由とは、罪の償いだけじゃない、ということか」
一拍ののち、静かに続く。
「システム・バルファの意思に抗うために、君は戦っているんだな?」
デルワーズはゆっくり視線を上げる。火の光が瞳できらめき、決意と痛みが同じ深さで並んだ。
「……はい」
短い答えが、場の温度を一瞬だけ引き締めた。
「わたしは……エリシアが、ライルズが……こんな歪んだ世界で生きることを望まない。だから、戦うしかないんです。たとえ、それがどれほど無謀だとわかっていても」
震えは残るが、折れない。ロスコーは、ゆっくりと手元の薪を火へ寄せた。乾いた木肌が赤い芯に触れ、細い煙が立ち上る。
「君の考えは理解した……だが、デルワーズ。システム・バルファが何を目論み、何を仕掛けようとしているのか――その具体を、俺にも教えてくれないか?」
驚きにわずかに見開かれたのち、デルワーズは小さく頷いた。長く押し込めていた真実を解く覚悟が、瞳の奥で確かな形になる。
「……はい。長くなるかもしれません。でも、あなたにはすべてをお話しします。ただ――それを知れば……ロスコーさん、あなたはもう元の世界には戻れなくなるかもしれません」
ロスコーの口元が、静かに緩む。
「構わない。俺には……すべてを知る覚悟がある」
デルワーズは目を閉じ、短く息を整えた。焚き火の炎が小さく踊り、夜はさらに深まっていく。洞窟の外では、風が木々の葉を低く揺らしていた。遠い戦場の音は、ここまでは届かない。けれど、彼女がこれから語ろうとしているものは、その音よりも深く、二人のあいだへ降りてこようとしていた。
そして――静かに語り始めた。




