エリシア――小さな指が握りしめた、確かな理由
ロスコーは、デルワーズの語り終えた静寂を壊さぬよう、しばらく焚き火の明滅に身を預けていた。薪がぱきりと乾いた音を立てる。手元の新しい薪を火にくべると、炎がふっと息を吹き返し、洞窟の冷えの中へ、じわりと温度が広がっていった。
「……ライルズって子は、本当にいいヤツなんだな」
低い声が、はぜる音に溶ける。
「正直なところ少し驚かされたが……君が幸せそうで、ほっとしたよ」
デルワーズは小さく首をかしげた。肩がそっと落ち、膝の上で指が無意識に絡まる。その仕草は、警戒ではなく、言葉を確かめるためのものに見えた。
「ほっとした……それは、どういった意味でしょうか?」
ロスコーは肩をすくめ、苦笑した。
「いや、俺からすれば、君はほんの少しだけだが見守ってきた我が子みたいなものだからな。君が消息を絶ってからのこの三年、どうしているかって、ずっと心配だった」
「ごめんなさい……わたし、ロスコーさんのこと、気になってはいたんです。でも、いまさら機構の側に戻るなんてことは、もうできないと……」
「こればかりは、仕方がない。だがな、それがまさか精霊族に拾われて、人として生きる道を選んでいてくれたなんてな。俺としては喜ばしい限りだし、だからほっとしたんだ」
「そうですか。そう思っていただけたのならよかったです」
焚き火の熱が頬を撫でる。笑いを隠したロスコーの低い声が、耳の奥でゆっくり震えた。
「……それで、君はそのライルズのこと、好きなんだろう?」
最後のひと言に、わざと茶化すような響きが混じる。デルワーズは炎を見つめたまま、頬を淡く染めた。しばらく黙ったあと、やがて静かに口を開く。
「……はい。もちろん、大好きです。彼も同じ気持ちでしたし……それに……」
「それに?」
「実は、その……」
薪の爆ぜる音が、彼女の言葉を支えるように小さく跳ねた。組んだ指の節がわずかに白み、それから力が抜ける。吐いた息が、炎へ落ちる前にひとつだけ震えた。
「それからわたしたちは、お互いにちゃんと気持ちを伝え合ったんです」
ロスコーは一瞬目を見開き、すぐに口元を緩めた。
「ほう、それで?」
デルワーズは小さく息をつき、視線を火に落としたまま語り出す。横顔には、遠い記憶を追いかける切なさが揺れていた。
「ライルズは、こう言ってくれました……『過去がなんだろうと関係ない。君は僕にとって一番大切な人なんだ』って」
膝の上でそっと開いた掌に、当時の温度が戻ってくるように、指先がかすかに動く。
「その言葉は……わたしにとって、何よりも嬉しいものでした」
「そうか……」
「わたしは、勇気を出して彼に自分の過去をすべて話しました。どうやって生まれて、この手でどれだけ多くの命を奪ってきたのか――一つ一つを、包み隠さずすべて……」
喉の奥が熱くつかえ、言葉がそこに絡んで少し遅れる。焚き火がぱちりと鳴り、その小さな音が沈黙の縁をなぞった。
「怖かったです。彼がどんなふうに受け止めてくれるのかと思うと……本当に怖かった。でも、その時彼は黙ってわたしの手を取ってくれたんです」
夜気が鼻腔をすうと通り、焚き火の煙の甘さが奥に残った。
「彼の手は、とても温かかった。それがどれほどの救いだったか……言葉では言い尽くせません。それから、彼はこうも言いました。『それでも君は今ここにいる。ここに生きている。それが僕には嬉しいし、誇らしい』と」
声の端にかすかな震えが混じる。それでもひと言ごとに、彼女の想いはゆっくり満ちていった。派手な誓いではない。ただ手を取られ、話を聞かれ、そこにいると言われた。その静かな出来事が、彼女には、世界を変えるほど大きかったのだろう。
ロスコーは炎を見つめたまま、静かに問いかけた。
「それで、君はどう答えたんだ?」
デルワーズはほんの小さな笑みを浮かべた。夜気が髪をそっと撫でる。
「……わたしも、彼に言いました。『あなたがいたからわたしは変われた。人になれた。だから、あなたとずっと一緒にいたい』と」
肋骨の内側で、当時の鼓動がひとつ鳴り直すような沈黙があった。間を置いて、ロスコーは静かに息をついた。
「凄いな。君がそうやって、自分の気持ちを言葉にできるようになったなんて。……こんなに立派に成長していたとはな」
デルワーズは小さく頷く。横顔に刻まれた陰影の奥に、静かな強さがにじんでいた。けれどそれは、何かを成し遂げた者の強さではなかった。朝起きて、火を起こし、食卓につき、誰かの帰りを待つ。そういう日々の中で、少しずつ身についたものだった。
「それからどうなったんだ? よければ……続きを聞かせてくれ」
探るような響きはない。彼女の歩んだ時間を、ただ静かに待つ温度があった。デルワーズは一度まぶたを閉じ、短く息を吸う。頬にほんのり紅が浮かび、わずかに震える唇が、これから告げる言葉を探していた。
「……ロスコーさん、実は……」
声は静かだが芯がある。伏せた視線が揺れ、意を決したように顔を上げた。
「それからしばらくして、気づいたんです……わたしのお腹の中に、新しい命が宿っていることに」
薪の芯がぱちりと鳴り、火の粉が暗い天井へ吸い込まれていく。ロスコーは薪をくべる手を止め、瞳を大きく見開いた。
「……本当か? そいつは、びっくりだな」
冷やかしも疑いもない声だった。頬の筋肉がわずかに緩む。それだけで、彼がその報せをどう受け取ったのかが伝わった。デルワーズはその反応にわずかに安堵し、微笑む。
「本当です……。でも、わたし自身最初は信じられませんでした。兵器として生まれたわたしが……母親になるだなんて、考えたこともなかったから」
声はかすかに震えつつも、芯のあるやわらかさが通っていた。ロスコーの目に驚きと喜びが重なる。一瞬だけ、技術者の分析の光が奥を走った。けれど彼は、それを手放すようにまばたきし、目の前の彼女をそのまま見つめた。
デルワーズは視線を膝に落とし、指先で腹のあたりをそっと撫でる。
「正直、自分の身体に何が起きているのか、不安でたまりませんでした。初めて知る感覚ばかりで、怖くて仕方がなかったんです」
瞳がほんのり潤む。吐く息が揺れて、煙に混じった。
「でも……そんなわたしを支えてくれたのが、ニナさんでした。狼狽えるばかりのわたしを抱きしめて、手を取ってくれて、『大丈夫よ、あなたならきっと素敵なお母さんになれる』って微笑んでくれたんです」
肩甲骨の強張りがすっと解け、背中が自然に丸くなる。その記憶の中にあるのは、儀式めいた祝福ではなかった。台所の匂い。畳みかけの布。手のひらの温度。そうしたものに囲まれて、受け止めきれない出来事を、少しずつ日常の中へ置いていったのだろう。
「彼も……ライルズも最初は驚いていました。でも、すぐに笑って、『君が母親になるなんて素晴らしいことだ。僕も頑張らなきゃ』って言ってくれて……」
頬に薄い紅がふわりと差す。ロスコーはじっと耳を傾けていた。
「まだ若いだろうに、大したやつだな……。それで、君はどうだった? 母親になる覚悟なんて、すぐには持てなかったんじゃないのか?」
デルワーズは静かに頷く。苦笑と、今の自分への小さな照れが表情の端に重なった。
「そうですね……本当に、怖かったです」
小さく息を吸い、指先でそっと自分の腹を撫でる。
「わたしなんかに……ほんとうに母親なんて名乗る資格があるんだろうかって、ずっと自問していました。でも……彼や、ニナさんの支えがあったから……」
言葉が一度、震えて途切れる。
「正直言いますと、覚悟なんて持てませんでした。でも……それでもこの子を産みたい。この小さな命を守りたいって……心の底からそう思えるようになったんです」
爪先が靴の中でぎゅっと縮み、冷えた石の床の感触が足裏に戻ってきた。覚悟という言葉は、あとからつけた名前なのかもしれなかった。その時の彼女にあったのは、もっと小さくて、もっとふつうのものだった。怖い。わからない。それでも、明日の朝もこの命と一緒に目覚めたい。たぶん、そんな願いだった。
「そして……あの子が生まれた瞬間、腕の中で命を感じた時――はじめて『生きている』と実感したんです。この命が、わたしに存在の理由を教えてくれた気がしました」
涙が静かに頬を伝い、顎の先で小さな光になって落ちた。ロスコーは短く頷き、そっと薪をくべる。
「なるほど……君は本当に強くなった。ただ強くなったんじゃない。守るべきものができたことで、本当の意味で成長したんだな」
デルワーズは小さく頷き、微笑む。
「それはどうかはわかりませんけど……わたしは、あの子に出会えて、本当によかったと思っています」
ロスコーは薪を炎の中へ押し込み、ぱちりと火勢が増した。ふたりの影が背後の岩壁に広がる。
「……いや、君は本当に変わった。まさかこんな話を聞ける日が来るなんて、夢にも思わなかったよ」
懐かしみを帯びた声に、デルワーズは少し照れたように肩をすくめた。
「でも、あの頃のわたしも今のわたしも、どちらもわたしなんです。変わった部分も、変わらない部分も、全部がわたしの一部ですから」
ロスコーは短く頷き、口元を緩めた。
「そうだな。それでこそ、君だ。……ところで、その子はどんな子なんだ? 話を聞く限り、きっと特別な子なんだろうとは思うが」
デルワーズは一瞬だけ驚いたように瞬き、やがて表情がやわらかくほどけた。
「ええ、それはもう特別です」
「ほう」
手首の内側で脈がひとつ跳ね、母の記憶が指先まで温かく走った。
「あの子が初めて笑った時、その笑顔は世界で一番きれいで……夜泣きが続いてへとへとでも、あの小さな手でわたしの指をぎゅっと握るだけで、疲れなんてどこかへ消えてしまうんです。その手に必要とされている。ただそれだけで、わたしは救われていました」
焚き火の熱が頬を撫で、言葉の端に、静かな誇りが残る。
「……今、あの子は一歳になります」
ロスコーの眉がわずかに動いた。
「なんだと、もうそんなに経つのか。一歳といえば、目が離せない時期だろう?」
デルワーズは小さく頷く。
「はい。あの子はとても元気で……いや、元気すぎるくらいです。何にでも興味を持って、よちよち歩きの足で部屋中を駆け回って。目を離した隙に何かを倒したりして、追いかけるのに必死でした」
ロスコーは口元をほころばせた。
「そりゃ大変だな。でも、君のことだから、きっと楽しんでやってたんだろう?」
デルワーズは視線を伏せ、指先で膝をそっとなぞる。焚き火の赤が頬の内側を温め、膝の上で絡んだ指が、ほどけそうでほどけないまま震えた。
「ええ……それはもう。あの子がわたしの指をぎゅっと握ると、守りたい気持ちでいっぱいになって……。最初に『まー』と呼ぶ声を聞いたとき、小さな唇が一生懸命動いていて、それだけで息が止まりそうになりました。よちよち歩きで転びそうになると、わたしが手を伸ばすんですけど、あの子はちょっとだけ得意げに笑って……その笑顔を見るたび、『この子がいる限り、わたしは絶対に負けない』と、そう思えたんです」
言い終えた吐息が薄い煙に溶ける。指先に残る小さな重みだけが、遅れて戻ってきたのだろう。デルワーズの手は、何も握っていないのに、そっと丸まっていた。
ロスコーは静かに頷いた。
「きっと君によく似た、かわいい子なんだろう」
耳朶が熱くなるのを感じながら、デルワーズは小さく唇を噛んだ。
「どちらかというと、ライルズの方に似ているかもしれませんね。人見知りしないところなんかも」
「へーっ」
「膝にあの子を乗せると、小さな手で彼の髪を引っ張って……。彼は『こら、そんなに引っ張るな』とか言いながら、本当は嬉しそうで。あの子がわたしの髪を掴むときも、にこにこと『んー!』って声を上げてくれるんです。その瞬間、あの子の目にわたしたちがどんなふうに映っているのかと思うと、もう……」
言葉が甘く詰まって、続かなくなる。ロスコーは薪を持つ手を止め、苦笑して首を振った。
「まったく、君は親バカが過ぎる」
デルワーズは恥ずかしそうに笑い、胸に手を当てた。
「……だって、あの子がわたしを呼んでくれるんですよ? 親バカじゃなくて、なんなんですか」
ロスコーは短く息をつき、目尻をやわらかく緩めた。
「いやいや、親バカもここまで来ると大したもんだ。けれど、君がそうやって笑って話せるようになったのは、本当に素晴らしいことだ」
薪をひとつ掴み、炎の上にくべる。ぱちりと火勢が増し、ふたりの影が洞窟の奥へ伸びた。
「ところで、その子……名前はなんていうんだ?」
デルワーズは一瞬だけ目を見開き、すぐに頬を笑みで染めた。
「……エリシアです。ライルズとふたりで、希望を込めて考えました」
ロスコーはその名を小さく繰り返し、しみじみと頷く。
「……エリシアか。いい名前だな。君たちにとって、その名前はまさに希望そのものなんだろう?」
「ええ……。ライルズが言ったんです。『この名前には、どんな暗闇にも光を見出せる意味を込めたい』って。それを聞いたとき、わたしも――もうこの名前しかないと、心から思いました」
唇の端がゆるむ。その笑みにあるのは、壮大な希望というより、何度も呼んだ名の手触りだった。朝、寝起きの声で呼ぶ。泣いたあとで呼ぶ。転びそうになった小さな背中へ呼ぶ。ただそれだけで、名は少しずつ彼女たちの家のものになっていったのだろう。
「一度でいい、会ってみたいものだな。君を夢中にさせるほどの可愛い子だというなら、この目で確かめておかないと」
軽く肩をすくめて茶化すロスコーに、デルワーズはふっと柔らかい笑いをこぼした。
「ええ、是非。きっとあなたも、エリシアに夢中になります。覚悟しておいてくださいね」
「そうか……ならば楽しみにしておこう」
ロスコーは新たな薪をくべ、小さく頷く。
洞窟の外では、夜の冷えがゆっくり深くなっている。けれど、火のそばには、赤子の指や、寝不足の朝や、髪を引っ張られて笑う父親や、何度も呼ばれる名の気配が、静かに残っていた。
それは、奇跡と呼ぶにはあまりに小さい。
けれどデルワーズにとっては、その小ささこそが、何よりも得がたいものだった。
誰かに必要とされること。
帰る場所で、名前を呼ばれること。
眠る子の息を聞きながら、明日の火種を残しておくこと。
かつて奪うことしか教えられなかった手が、いまは小さな指に握られている。その事実だけで、彼女の世界はもう、空っぽではなかった。




