空っぽの心を満たした、太陽みたいな人
デルワーズは、そこでふっと短く息を吸い、ひどくやわらかく微笑んだ。火床の赤が、白磁のような頬に淡い陰影を落としている。ほどけきれずに残っていた緊張が、夜気に触れてゆっくり緩んでいくのがわかった。
「……ライルズは、本当に……いつも明るくて、底抜けにまっすぐで、太陽みたいな人でした。暗い森を歩くたびに、彼のよく通る声が木々のあいだを抜けていくのを聞いているだけで、冷え切っていたわたしの心のどこかが、じんわりと温まるような気がしたんです」
視線は揺れる炎へ落としたまま、その若翡翠の瞳の底には、当時の森の緑が淡く揺れていた。乾いた薪がぱちんとはぜ、樹脂の甘い匂いが洞窟の底を低く流れる。
「そして、彼は空っぽだったわたしに、本当にたくさんのことを教えてくれました。足元に咲く小さな草花の名前、季節を運ぶ風の音の違い、気配を消して歩く動物たちのこと……」
ロスコーは何も言わず、火の向こうの横顔を見ていた。デルワーズの喉が、言葉を選ぶように小さく動く。
「わたしが何を聞いても、彼は面倒がるどころかちょっと得意げに笑って、すごく優しい声で丁寧に説明してくれるんです。……わたしが理解するまで、何度でも」
薪の節目を視線でなぞりながら、彼女は首をわずかに傾けた。暗い膝の上で絡んだ指先が、かすかな衣擦れの音を立てる。
「最初は……どうして彼が、わたしなんかにそんなふうに親切にしてくれるのか、まったくわかりませんでした」
焚き火の熱は近いのに、彼女の肩には、記憶の中の冷えがまだ薄く残っているようだった。
「わたしなんて、何の役にも立てないただのお荷物だったのに……。それでも、ライルズはいつも『そんなこと、気にするなよ』って、あっけらかんと笑ってくれた。その裏表のない笑顔を見ていると、わたしは何も言い返せなくなってしまって……」
小枝がはじけ、彼女の声もひとつ柔らかく落ちる。吐く息が浅く、細く整っていった。
「ある日、彼がわたしを連れて行ってくれた秘密の場所がありました。……集落からずっと離れた森の奥深くに、苔に覆われたとても静かで透き通った泉があって……『ここは僕だけが知ってる、とっておきの特別な場所さ』って、わたしの手を引いて案内してくれて」
炎の熱だけではない薄紅が、頬にゆっくり差す。膝の上で組まれた指がきゅっと強まり、重心が無意識にほんの少し内側へ寄った。
「泉に手を入れてごらんって言われて、おそるおそる水に指を浸したとき。雪解けの冷たい水が指先に触れて、それが……痛いんじゃなくて、すごく心地よかった。でも……何より、隣にいたライルズが、後ろからわたしの肩越しに覗き込んで、『どう? 冷たいだろ?』って、すぐ耳元で笑う……その声と、息遣いが――」
言葉が一度、熱を帯びてほどけた。耳朶の裏に残る気配だけが、遅れて意識に昇ってきたのだろう。水の冷たさと、彼の体温の境界が、今も指の腹に淡く残っているみたいに。
「……胸の奥底が、ぎゅっと息苦しいほどに締めつけられるような……そんな気持ちになりました。その時は、その感情が何なのか、全然わからなくて……」
手首の内側で、見えない脈がひとつ打つ。デルワーズはその音を聞いているように、ほんの少しだけ目を伏せた。
「ただ、彼と一緒にいると、何かが決定的に違っている。わたしの内側で、制御できない何かが暴走している……その感覚が、わたしにはじめてのものでした」
ロスコーは深い沈黙を守った。火影の明滅が壁の影となって、言葉にならない速さだけを静かに刻んでいた。
「ライルズは、わたしを特別扱いしたり、過保護にしたりはしませんでした。ただ……いつも、わたしのことを見守ってくれていた。わたしがわからないことに戸惑って立ち止まっていると、彼がいつも『こっちだよ』と、振り返って手を引いてくれる。そのたびに、わたしの中の凍りついていた何かが、少しずつ溶けて変わっていくのがわかるんです」
足先がわずかに動き、冷えた岩肌の温度が靴底を通して戻ってくる。彼女はその感触で、いまの自分の場所を確かめているようだった。
「……ずっと怖くて、自分の殻に縮こまっていたわたしが、ゆっくりと自分の足で前に進めるようになったのは、間違いなく彼のおかげです」
彼女はゆっくりと目を閉じ、ひと口だけ熱い息を吐き出す。肋骨の内側で絡まっていたものが、甘い痛みを伴ってほどけていった。
「わたしにとって、ライルズと過ごす時間は、本当に……何にも代えがたい宝物みたいなものでした。彼と過ごした日々があったから、わたしは今も、こうして人の心を保っていられるんだと思います」
火勢がふくらみ、頬にやさしい熱が触れる。白い灰がひとつ、静かに炭の上へ落ちた。ロスコーは薪を静かにくべ、その告白のまぶしさに目を細めるように、ぽつりと呟いた。
「……君にとって、そのライルズという少年は、ただの恩人以上の、とても大切な人になったんだな」
デルワーズは、恥じらうように小さく頷く。瞳の底には、単なる友情や恩義という言葉では言い尽くせない色が灯っていた。
「はい。彼は……わたしの、大切で、特別な人になっていきました」
炎がふわりと揺れ、頬に差した薄紅がそっと深まる。組まれた指先が、ほどけそうでほどけないまま固く絡んだ。
「ライルズのあの笑顔が、いつの間にか……わたしの空っぽだった心の、一番になっていったんです。彼と過ごす時間が増えるたび、わたしの中の何かが、戻れないくらいに変わっていくのがわかって」
うなじを夜気が撫で、彼女はほんの少し肩をすくめた。
「……彼の声を聞くだけで安心できて、そばにいるだけで、胸が痛いほど嬉しくて……。でも、そんな自分に気づくと、どうしようもなく怖くなって」
膝の上で指がもどかしく絡み直り、掌に、当時の迷いの温度が蘇る。
「……それが何なのか、最初は本当にわからなかったんです。ただ、ライルズと一緒にいるだけで、モノクロだった世界が、急に鮮やかに色づいて見えるような気がして。……彼が他の誰かに笑いかけているのを見るだけで、胸のあたりがチクチク痛んで」
焚き火がぱちりと鳴り、火の粉が短く跳ねた。
「彼が不意にわたしの手を繋いだときの、あの大きな手の温かさが……どうしようもなく嬉しくて。でも、わたしのような血塗られた人間が、こんな温もりを知ってはいけないんだと怖くて……」
指先が自分の膝の布をつかみ、爪の白さだけが強く残る。
「それなのに、もっと触れていたい、ずっとこの手を離したくないと、願ってしまったんです。そんな気持ちが、自分のなかにあることが信じられなくて。……わたしは、そんな人間らしい感情を持つ資格なんて、絶対にないと思っていたから」
視線が焚き火から離れ、冷たい夜の黒へ一度だけ逃げる。唇が小さく震え、言い訳を探すようにすぐに閉じた。
「でも、彼のまっすぐな優しさや、あの笑顔に触れるたびに、彼を求める気持ちが止められなくなって……。彼の呼ぶ声が、わたしだけに向けられるたびに、嬉しくて、それでいて苦しくて……」
火は静かに燃え、うつむいた横顔の陰影が、やわらかく濃くなる。
「彼と一緒にいるたび、胸の奥底がふわりと溶けるように温かくなって。夜、ベッドで目を閉じても、朝目覚めた瞬間も、どんな時でも彼のことばかり考えてしまう自分に気づいて……。それが『好き』ってことなんだと、後になってやっと……気づいたとき、わたしは自分の胸を両手で押さえて、声も出せずにただ震えていました」
声の震えは消えないが、彼女はもう、その感情を隠そうとはしなかった。炎より低い温度の、けれど消えない光が、言葉の底にともっている。
「いろいろありました。……でも、彼のあの笑顔は今も変わらないんですよ。本当に、あの頃のまま……少しも」
ぽつりと落ちた声が、熾のぱちぱちという音に溶けて消える。愛する者を語る小さな誇りが、淡い余韻となって場に残った。
ロスコーは言葉を足さない。足す必要などなかった。彼は静かに薪をくべ、デルワーズの横顔をじっと見つめた。火影に照らされた厳しい顔立ちの目元が、ほんのわずかに和らいでいる。ただ、その温かい沈黙が、彼女の告白を静かに支えていた。
「この世界に、わたしが生きる理由なんて、もともとどこにもなかった。でも……彼と一緒にいることで、彼を愛することで、わたしの中に生きる意味が、静かに芽吹いていったんだと思います」
ぱち、と炎の芯が鳴る。彼女はそっと長く息を吐き、溢れたものを自分の中へ包み直した。
「……本当に、彼はわたしにとって、かけがえのない人なんです」
視線を、揺れる火から洞窟の入り口の夜空へ移す。暗い森の向こうの星が、遠くで凍れて光っている。冷たい夜の空気が、火照った頬をそっと撫でた。その冷えと焚き火の熱が交差した瞬間、泉の水と、耳元で笑った息遣いが重なったのかもしれない。
デルワーズは、静かにまぶたを伏せた。愛を知った人間として、いまもここにいる。その事実だけが、胸の奥で消えない火種のように疼いていた。




