人として生きるための、ささやかで確かな日々
ロスコーは炎を挟み、デルワーズの顔を見た。揺れる火が若翡翠の瞳に小さく映っている。その奥で、彼女は自分の過去を、ひとつずつ受け止めようとしていた。乾いた枝がぱちんと爆ぜ、森の樹脂の甘い匂いが夜気へ薄くほどけていく。
「……続けます」
デルワーズの声は低かった。息が一度、喉の手前で止まる。けれど、途切れはしなかった。あの紙片に書かれていた一文は、いまも彼女の胸の奥に残っている。ウサギをたすけてくれて、ありがとう。その意味を、あの時の彼女はまだ理解できなかった。けれど、誰がその静かな時間を与えてくれたのかは、後になって知った。
「実は……わたしを助けてくれたのは、殺害対象に指定されていた重要人物……『レナード・フェン』その人だったのです。そして、炎の中でわたしが見た男の子とは彼の家族、子供でした。……ですが、家族や子供という概念すら、その時の空っぽのわたしにはまったく理解できませんでしたけれど」
ロスコーの眉が、かすかに動いた。焚き火の赤がその陰に触れ、すぐに消える。彼の指先は、火掻き棒として使っていた枝を握ったまま止まっていた。
「では……君を罠に嵌めたというのは、そのレナード・フェンなのか?」
疑いの硬さが声の底に滲む。デルワーズは小さく首を振った。炎を見据える目は逸れない。けれど、膝の上で組んだ指だけが、布を少し強く摘んでいた。
「いいえ、違います。罠を張っていたのは、精霊族の中でも過激な思想に偏った反抗勢力の部隊でした。……本来なら、わたしはそこで確実に殺されていたはずです。彼らにとって、わたしは門徒壱号――同胞を殺し続けてきた、憎むべき殺戮兵器以外の何物でもないのですから……」
言い切るたび、指先が膝の上の布をきつく握りしめる。薪の爆ぜる音が、その震えの端を覆い隠した。短い沈黙のあと、彼女は静かに言葉を繋いだ。
「ですが、わたしを彼らの手から救い出し丸太小屋へ運んでくれたのが、あの男の子と……彼の話を聞きつけたレナード・フェンという方だった。それが真相です」
ロスコーは枝の動きを止めたまま、目を細める。燃えさしが赤く沈み、息がひとつだけ深くなった。
「……だが、それなら彼らには、何かしらの明確な理由や目的があったのではないか? 君は機構が誇る、最新鋭の……」
そこで彼は口をつぐんだ。兵器という冷たい語が、喉の奥で止まる。焚き火の熱は近いのに、その言葉だけが、ひどく冷えていた。その沈黙の重みを受け取り、デルワーズが小さく頷く。
「ええ。機構側の機密情報を握っているだろうわたしは、彼らにとって計り知れない価値があった。それは確かです」
組まれた両手に、さらに力が宿る。白い指の関節が、火明かりの中でかすかに浮かび上がった。
「傷つき、主兵装であるマウザーグレイルもなく、戦う術も逃げ出す術もない。普通に考えれば、わたしは牢屋へ繋がれ、尋問され、拷問を受け、薬物、洗脳……その他考えうるあらゆる手段で情報を強制的に引き出される。……そうなるのが必然でしょう」
ロスコーは炎を見つめた。焦げた木材の匂いが鼻腔をかすめる。あまりに当然の推測だった。だからこそ、否定する言葉を持てなかった。
「……だろうな」
短く、重い返事だった。デルワーズの華奢な肩が、ほんの少し震える。下から照らす火光が、頬の陰影を深くした。
「なのに……彼は決してわたしに何かを強要したり、無理に聞き出すようなことは、ただの一度もしなかったのです」
驚きは、すぐには声にならなかった。ロスコーの喉の奥で、息だけが小さく鳴る。火の粉がひとつ浮かび、闇へ吸われた。彼はゆっくりと顔を上げ、彼女を見る。
「……意外だな。情報源としても、捕虜としても扱われなかった。そういうことか?」
デルワーズは頷き、炎の踊りに視線を置いたまま口を開いた。
「はい」
ロスコーはわずかに身を乗り出した。問いかける前から、答えの冷たさを知っているような顔だった。
「だが……君のシステムには、確か……」
「はい、自決プログラムが存在します」
彼女は、彼が何を言おうとしたのかを遮るように告げた。
「門徒シリーズには、敵の手に落ちた場合、機密保持のために即座に自決するよう、脳の深層にプログラムがほどこされています。……なのに作動しなかった。いいえ、そうじゃない。できなかったんです……」
声が激しく揺れ、火のゆらぎと重なる。
「心の底から、死ぬのが『怖い』と感じてしまったんです……」
膝上の指が、血の気を失うほど白くなっていく。爪の先が皮膚へ食い込み、三日月の痕を深く刻んでいた。
「おかしいですよね。どうしてなのか……空っぽの兵器のはずなのに。まだ、生きたい。死にたくないって、そんなふうに思ってしまったんです」
細い告白が、焚き火の熱とは別の温度で、ロスコーの胸へ沈んでいく。
「わたしは……そんな自分が、信じられませんでした」
ロスコーは、すぐには言葉を返せなかった。死を命じられていたはずの少女が、死にたくないと感じた。その事実だけが、火の赤よりも重く、彼の内側に残る。慰めに変えてしまえば、きっと軽くなる。だから彼は唇を結び、ただ彼女の震える指先を見た。
「デルワーズ……」
名前だけが落ちた。視線を炎に落とし、震える唇を噛み締めて、彼女は続けた。
「レナードさんは……怯えるわたしに、何も要求しませんでした」
信じがたい事実を運ぶ声は細い。けれど濁ってはいなかった。火が揺れるたび、横顔に複雑な陰影が生まれる。
「そして、彼はわたしを兵器としてではなく、あくまで『ひとりの人』として接してくれました。それがどういうことなのか、最初はまるで理解できませんでした。……レナードさんはわたしに、彼の大切な家族を紹介してくれました。『妻』という存在であるニナさん、そして……二人の間に生まれたという『息子』――ライルズを」
ライルズ、という名が出た瞬間、強張っていた表情がほんの少しほどけた。火が、とても柔らかい影を頬に落とす。
「やがて、彼らはわたしにとって特別な存在になっていきました。家族……その言葉の本当の意味を、わたしは彼らとの生活を通じて、少しずつ学んでいったのです」
ぱち、と乾いた音がした。火の明滅に合わせて、丸太小屋の低い天井と、割った薪の白い断面と、手のひらに残る樹脂の匂いが、少しずつ戻ってくるようだった。
「レナードさんは、いつも穏やかで、わたしのたどたどしい話をじっくり聞いてくれる人でした。何も知らないわたしに、本当に根気強く説明をしてくれるんです。……たとえば、彼が薪を割る手元をわたしがじっと見ていると、『こうやって割るんだよ』と、無骨な斧の柄をそっと握らせてくれて」
ロスコーは、ただ黙って聞いていた。斧の柄を握らされた小さな手が、いま焚き火の前で静かに重ねられている。
「重くて持ち上がらないときは、困っているわたしに『慌てず、ゆっくりでいい』って、横から静かに力を貸してくれたんです」
木屑が頬に触れ、手のひらに残った樹脂の匂いが甘かった。
「薪を割った後は、火を起こすやり方も教わりました。小枝の組み方や、火を大きくするコツ……そのたび彼は少し離れたところから見守り、時折そっと手を添えてくれるんです。火が勢いよく上がると、『よくやった』って、とても嬉しそうに微笑んでくれて。……その笑顔が……本当に、温かくて」
ロスコーは深く頷いた。炎が、刻まれた頬に浅い陰影を刻む。
「ニナさんは、まるで春の陽だまりみたいな人でした……。わたしが慣れない暮らしに戸惑っていると、『無理しなくていいのよ』と、ふんわり優しく声をかけてくれるんです」
デルワーズの声に、ほんの少しだけやわらかな熱が差した。湯気が指先にまとわりつき、塩の匂いの奥で、青い香りがほどけていく。まだ知らない台所の音が、彼女の言葉の下で静かに鳴っていた。
「食卓にはいつも温かい料理が並び、敵であるはずのわたしの分まで、きちんと一緒に用意してくれていました。……食事をとること自体、わたしにはよくわからなくて、何度もスプーンを取り落としてしまって……。けれど、そのたびにニナさんは笑いながら拾ってくれるんです」
ロスコーは、デルワーズの手元を見た。いまは火明かりの中で静かに重ねられている手。かつてスプーンを取り落とし、そのたびに誰かが拾ってくれた手。兵器としての操作ではなく、食べるという動作を覚えようとしていた手。
「彼女が作る料理は、どれも素朴で、けれど本当に温かなものでした。……スープの作り方を教えてもらった時、ニナさんが『これを作れるようになれば、あなたも一人前よ』って、笑いながら言ってくれて……その普通の言葉が、どんなに嬉しかったか。今も、胸のどこかに大切に残っています」
若翡翠の瞳が、ふわりと潤む。記憶のなかに、丸太小屋を満たしていた湯気が淡く立ちのぼるのが、ロスコーにも見えるようだった。
「そうして暮らすうちに、わたしは少しずつ、家族との日々に馴染んでいきました。朝はレナードさんが割った薪で火を起こし、ニナさんが焼いたパンの香りが家中に満ちていく。ライルズが……」
ライルズという名が出た途端、炎がひとつだけ大きく揺れた。
「彼が『今日はどこへ行く?』と弾む声で聞き、わたしを光の差す森に誘ってくれる――何気ない朝の光景のひとつひとつが、わたしにとってはどれも新しくて、胸が痛くなるほど大切なものに思えたんです」
炎の向こうで、デルワーズは静かに息をつく。言葉になりきらない想いが、わずかな吐息にほどけた。
「家族とは何か、人と人がただ寄り添い、支え合うとはどういうことか――わたしは彼らと過ごすなかで、それを少しずつ学びました。ニナさんの優しさ、レナードさんの力強さ、ライルズの笑顔……そのどれもが、わたしにはじめて触れる『人間の温もり』だったんです」
ロスコーは手元の焚き木をひとつくべ、せき止めていたものを解放するように短く息を吐いた。火の腹が大きくふくらみ、洞窟の冷えの中に、確かな温度の差が生まれる。
「デルワーズ……。君にとってその温もりが、本当の意味で『生きる理由』になっていったのかもしれないな」
デルワーズは小さく、けれど深く頷き、焚き火の明かりに照らされた指先をそっと重ねた。
「はい……。彼ら家族との日々が、わたしにとっての人としての始まりだったと思います。そして、その愛おしい時間は、今もわたしの胸の中で続いているんです。……ライルズも、レナードさんも、ニナさんも――今は遠方に避難中ですけど、わたしに『人としての居場所』をくれた彼らには、感謝しかありません」
ロスコーは何度も頷いた。炎の向こうにいる彼女は、もう調製槽の中で眠っていた少女だけではなかった。薪の重さを知り、湯気の匂いを知り、誰かの名を朝の光の中で呼んだ者だった。デルワーズはわずかに声を緩めて、祈るように続きを紡いだ。
「あのささやかな暮らしが、わたしにとっての始まりでした。わたしが『人』であることを、はじめて感じられた場所……。家族と呼べる人たちに囲まれて、わたしは――本当に生きていると、そう実感できたんです」
言葉のあと、短い沈黙が残った。焚き火の光が、組まれた指先をそっと照らしている。洞窟の外から流れ込む夜気は冷たかった。けれどその冷えの中で、彼女が語った朝のパンの匂いと、スープの湯気だけが、ロスコーの胸の奥にゆっくり残っていった。




