滅びの軌跡、しあわせの証
【銀翼騎士団左翼翼長――セバスティアン・ローベルトの日誌より抜粋】
その日、西部国境の広大な大地は前触れもなく破滅に呑まれた。鈍い鳴動が空の骨を鳴らし、雲は裂け、地の底から噴き出す暗黒が森を薙ぎ、岩を砕き、風の筋までも歪ませる。砕けた音は黒紫の瘴気に吸い込まれ、世界は一転して静まり返った。残ったのは、冷えきった空気と、口の奥に張りつく恐怖だけ。
一言で言い表すならば、あれは天がこの地を見捨てた証だ。
◇◇◇
部屋に落ちた先王の声は、深い鐘の音のように重く、静寂を薄く裂いた。
「魔道兵団の観測記録によれば――」
威厳と悲愴を帯びた声が、ハムロ渓谷でわたしが見た悪夢を、容赦なく現在へと引き戻す。耳の奥がかすかに疼き、組んだ掌から急速に熱が奪われていく。
「……前触れなく周辺の魔素濃度が急激に上昇し、直後、黒紫の闇が全天を覆った。そして、爆風があらゆるものをなぎ倒し……その中心に巨大な穴――いや、ただの裂け目ではない。世界そのものが腐って崩れ、闇へ呑み込まれていくような空洞が生まれた」
低い響きの向こうで、先王の瞳は遠い惨景に焦点を結んでいる。言葉にできぬ絶望が、深い緑の眼差しの底で静かに沈殿していた。
「穴の縁からは黒紫の瘴気が滲み出し、空間を歪ませ、渦を巻いて地を這った。その様は、生き物が獲物を探すように――意志を持つかのごとく、蠢いていた。時折、紫と赤の雷光が閃き、周囲を焼き焦がしていった。……それはただの瘴気ではない。命そのものを貪る、異質な飢餓の塊だった」
一語ごとに、古い恐怖が内側で再燃する。裂け目の像がまぶたの裏に浮かび上がり、焦げた土と鉄の匂いが鼻腔の奥へ生々しく戻ってきた。
「それが、虚無のゆりかご――」
自分の声が遠く、頼りなく震えた。胃の底へ、冷えた小石が落ちる感覚がする。
「――魔獣が生まれ出る穴……すべての、元凶……」
先王の目尻に刻まれた皺が、重ねた年月と悲哀の層を物語っている。灰がかった眼差しの陰は、決して言葉では触れられぬ痛みの色を帯びていた。
「そうだ――」
低い声は冷気と混じり、石の床を這うように広がる。
「そこから……黒紫の塊が次々と湧き出した。最初は、ただの粘液のように蠢く形なきものだった。……だが、穴から噴き出す魔素を吸収するたびに輪郭を得て、やがて巨大な獣と化していった。数は尽きない。穴が口を開けている限り、奴らは溢れ出す。そして……」
言葉が途切れ、沈黙が重みを増す。その無音が、希望の砕ける音を代わりに告げていた。肋骨の内側が、音もなくきしむ。
「……駐屯していた部隊は、応戦する暇すらなく、瞬く間に壊滅した」
静かな語りは、凍てついた刃のように身体の奥へ差し込んでくる。
「弓も、剣も、槍も。魔術でさえ――どれほど熟練した兵士であろうと、津波のように押し寄せる群れの前では無力だった。狂気そのものの嵐のように、奴らは隊列を引き裂き、拠点を飲み込み、何もかもを薙ぎ払った。部隊は黒紫の闇に消え……残ったのは血に塗れた大地のみ。希望も、未来も――何一つ残らなかったのだ」
先王の声に、微かな震えが混じる。空気の密度が増し、燭台の炎が息苦しげに短く揺れた。
「それでは……」
声が硬くなり、喉の手前で細る。
「地獄そのものではないですか……」
かすれた音に、足元の絨毯越しに、かすかな震えが返ってくる。先王は視線を伏せ、深く重い息を落とした。
「ああ……」
そして静かに顔を上げ、何もない虚空の先を見据える。
「まさに地獄だ。そして、それは終わる種類のものではない――」
短い句の合間に沈黙が置かれ、次の言葉がいっそう重さを増す。
「無限に続く、と言えよう。活性化が続く限り、奴らは尽きることなく湧き続ける。この大地を呑み込み、空を侵し、命という命を喰らい尽くそうと蠢き続ける。まるで、虚無そのものの意志であるかのように、な」
冷酷な真実が内側を貫き、ゆっくりと暗さが脳髄へ滲み込んでいく。
「その報が届いた瞬間、私は悟ったのだ。……手遅れだと。すべて、メイレアが告げた通りの――未曾有の大災厄だったのだからな」
「母さま……」
無意識の囁きに、膝の上の指が小さく跳ねた。
「ここに至って、宰相をはじめとする家臣たちも、己の甘さを思い知った」
抑え込まれた声の底に、濃い悔恨と無念が渦を巻く。
「『あり得ない』と嘲笑っていた者たちでさえ、国土が焼き尽くされ、命が無残に奪われていく事実を前にして、己の過ちを認めざるを得なかった」
喉の奥で息を飲み込む音が、自分の耳にひどく大きく響いた。
「だが……いくら後悔したところで――失われたものを取り戻すことなど、誰にもできはしない」
言葉の端に、わずかに震える呼気が混じる。
「だからといって、諦めるわけにはいかなかった」
刃のように研ぎ澄まされた声音が、空気をビリリと震わせた。
「国を統べる王である以上、逃げ出すことも、無為に時を浪費することも許されない。国土と人民を守るために、どんな犠牲を払ってでも――この地獄を止める。……それが、私の誓いだった」
その眼差しは、玉座の務めを越えて、一人の人間の剥き出しの決意を宿していた。
「それは、ただこの国を守るためだけではない」
言葉の重心が、さらに深く沈む。
「メイレアが尊厳を懸けて伝えてくれた警告を、私は軽んじた。応えられなかった。――その償いだ。父として、王として、私は責任を取らねばならなかった」
一つひとつの言葉に、罪の自覚と己に課した責務が重く血を滲ませている。
「私はただちに全兵力の総動員を決定し、西部方面へ向かわせた。さらに精鋭の国家騎士団を前線に配置した。その中核を担ったのが、わが国の誇りである銀翼騎士団だ」
胸の奥底に、乾いた熱が少しずつ広がっていく。
「そこに……父も、ヴィルもいたのですね」
口をついて出た声は、自分でも意外なほど穏やかな響きを持っていた。
「そうだ……。ユベル・グロンダイル、そしてヴィル・ブルフォード――。二人は銀翼騎士団右翼を率い、最も過酷な前線を渡り歩いたと聞いている。『閃光』の迅速――戦況を一息で変える指揮。『雷光』の冷静――崩れぬ判断と堅実な戦い。どちらも、あの戦場では欠かせない灯だった」
父の名が室内に落ちるたび、幼い日の視界が一瞬だけ蘇る。腰に帯びた剣の重み、使い込まれた革の匂い、鞘の冷たさが掌へ幻のように戻り、肺の奥がきゅっと鳴った。
「彼らの獅子奮迅の戦いぶりは、前線の兵たちを大いに鼓舞した。戦果の報は私の元にも届いていたよ。……彼らがいなければ、戦線の維持も危うかったと言ってよい」
客観的な分析の調子を装いながらも、声の底には微かな後悔の揺らぎが透けている。
「将兵たちの献身の甲斐あって……戦況は一進一退を繰り返しつつも、被害は西部方面にとどめることができた」
血を流して「守る」という行為の途方もない重さが、骨へ直接響いてくる。
「だが――西部一帯は荒れ果てた。村々は蹂躙され、人々は住む場所を奪われ……逃げ惑う難民で溢れかえった。混乱は国中に広がり、私たちは収拾に追われるばかりだった。……もっと早く退避を指示できていれば――そればかりを悔やむ日々だった」
最初に奪われるのは、いつだって名もなき者たちの平穏な生活だ。腹の底で、静かな怒りが熱を持つ。信じようとしなかった者たちの傲慢が、いくつもの無辜の命を奪ったのだ。
先王の目元に、悔いと苦悩の深い影が落ちる。
「戦いは……それから二年以上にも及んだ」
疲労と諦観の色を帯びた声が、ぽつりとこぼれた。
「巣窟の活性はようやく峠を越え、戦乱は――ひとまず収束を迎えた。だが、その間に失われた命の数は……もはや計り知れぬ。数えようとも、それは空虚な数字に過ぎないのだからな」
数字という無機質な響きが、乾いた紙の擦れる音を連れて胃の底へと落ちる。
「西部国境の大地は――荒廃という言葉では足りぬほど変わり果てた。地形そのものが激変し、一部では地図すら役に立たない。……再建は不可能に等しかった」
言葉の質量が室内に沈み込む。灯りが揺れ、石壁に映る影がわずかに長く伸びた。
「確かに……巨大な巣窟の形成により、我が国は安定した魔石の供給源を得た。損失を補えるだけの『利益』も、生じたのだろう」
声が低く落ち、張り詰めた空気がさらに淀む。
「だが――かつての肥沃な大地も、そこに生きていた人々の命も、営みも……すべて失われた。……どれほどの利益があろうと、私たちが失わせたものは、決して帰ってこない」
視線は遠く、もはや誰にも触れえぬ過去の地平へ向けられている。王という逃れられぬ宿命が、その横顔の皺に薄く刻まれていた。
「私をはじめ、宰相も、家臣たちも――」
言葉が短く途切れ、視線が足元へと落ちる。
「……自らの選択の愚かさを、呪わざるを得なかった。人民のためにあるべき政治が、最も守るべきものを犠牲にした。……我々は、国の舵取りを見誤ったのだ」
静寂が、いっそう深く冷たく染み込んでいく。自分の呼吸の音さえ、立てるのが憚られた。
長い沈黙ののち、灯りがわずかに揺れ、先王の荒れた唇が動く。
「ようやく戦後処理が一段落し……余裕を取り戻した頃、私は離宮を訪れ、メイレアに会うことを決意した。もちろん、合わせる顔など――ない」
みぞおちの奥が鈍く痛む。どれほどの逡巡と恐怖を越えて、その決意に至ったのだろうか。
「どんな顔をすればよい。どんな言葉を掛ければよい。……それでも、行かねばならぬと思った。父として。……だが」
声がかすれ、不自然に途切れる。肘掛けに置かれた手が、固く結ばれた。
「……あの子の姿は、もうそこにはなかったのだ」
取り返しのつかない空白が、どんな言葉よりも鮮明に、そして重く沈む。
「残されていたのが……あの手紙だったのですね」
驚くほど落ち着いた自分の声に、わずかな戸惑いが滲んだ。
「そうだ……それだけが、残されていた」
まぶたが静かに閉じられ、薄金色の灯りが横顔の起伏に沿って揺れる。
「メイレアが、どうやって王宮の玉座の間に保管されていた聖剣に触れることができたのか……それは、いまだにわからない」
低く、古い紙が擦れるような乾いた声が落ちる。
「誰かが手引したのか、あるいはユベル・グロンダイルだったのかも……今となっては分からぬ。だが――そんなことは、もうどうでもよいのだ」
組んだ手が小刻みに震え、光の陰影が頼りなく揺らぐ。
「あの子をそこまで追い詰めてしまったのは……父親である私だ。ほかでもない」
胃が軋み、喉が詰まる。
「世界に裏切られる宿命を背負いながらも、彼女ほどこの国と世界を愛した者はいなかった。にもかかわらず……父である私は、その切なる願いを拒んでしまったのだ」
強く握られた拳に浮いた白さに、灯りの影が細く落ちている。
「だからこそ、私はあの子の選択を責めることができなかった。……外へ出れば、自由に生きて、幸せを掴めるかもしれない。そうでも思わなければ、立っていられなかった……」
声が徐々に細り、最後の音が風に溶けるように消えかける。
「たとえ二度と……あの笑顔を見られなくても。……それでも、いい。……それでいいのだと……」
目頭にじわりと熱が滲み、鼻腔の奥がツンとするのを、深く息を吸い込んでこらえる。
「……申し上げるならば、母はきっと幸せだったのだと思います。父――ユベル・グロンダイルを、心から愛していたはずです。だからこそ――このわたくしが、ここに生きているのですから」
自然と微笑がこぼれ、頬の裏側の熱が静かに広がっていく。
「先王陛下のお気持ちは、きっと届いております。そして、母は……今もどこかで生きていると、わたくしは信じております」
王の瞳に驚きの光が揺れ、次いで、張り詰めていた眼差しに柔らかな温度が戻る。
「……ありがとう、ミツル。そうだな。君は、メイレアが幸せを掴んだという確かな証だ。君を見ていれば、それがよくわかる」
言葉が静かに内側へ染み渡り、冷え切っていた身体に小さな温もりが満ちていく。
「メイレアの娘である君に真実を打ち明けることができた。それだけで……救われる。感謝しているよ、ミツル」
わたしは深く頷き、細い息を整え、応えた。
「もったいないお言葉です。わたくしこそ……ずっと探していた答えを、ようやく得られました。陛下がどれほど母を慈しみ、思い続けてくださったか――メイレア王女の娘として、これほど嬉しいことはありません。ありがとうございます」
魔道ランプの柔らかな光の中、終わりのない苦しみと静かな赦し、そして小さな救いが重なり合って、石造りの室の温度がほのかに上がった気がした。




