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若緑色の髪が結ぶ絆

「この香り……どこか懐かしい気がします。なぜでしょうか?」


 ふと漏れた声に、先王は微笑をゆるめ、注ぎ終えたカップをわたしの前へそっと置いた。高台が木の面に触れてかすかに鳴る。


「そうか、そう感じるかね……」


 先王は一度だけ湯気へ目を落とし、指で取っ手を撫でた。


「実はこの茶葉は、昔メイレアが好んでいたものなのだよ。もしかすると、君もどこかでその香りを覚えているのかもしれないな」


 胸の奥で小さな熱がひらく。蒸気の揺れに重なるのは、母の笑みの輪郭。


 幼いころ、父が遠い街から茶を持ち帰り、台所がふんわりとあの匂いで満ちた夕暮れ――手の甲にまで蘇る気がした。


「さあ、どうぞ召し上がれ」


「はい。いただきます」


 両手でカップを包む。釉薬越しのぬくもりが指へ移り、唇に触れた液はまろやかに舌を撫でる。香りが口内から鼻へ抜けると、遠い日の明るさが一拍、胸の裏で灯る。


「美味しいです……。香りは記憶を刺激するといいますけれど、確かに懐かしい感じがいたします」


 わたしの言葉に、先王は目尻をやわらかく細めた。王の威厳を越えて、人の温かさが室内の温度を少し上げる。


「だからかな、私はこの茶葉を選んだのかもしれない」


 遠い時間の埃をそっと払うような声だ。静かな視線の奥に、変わらぬ強さが潜んでいるのがわかる。


 わたしはカップを受け皿へ戻し、先王を見上げた。胸の内で、まだ言葉にならないものが形を探す。


「陛下……」


 名を呼ぶと、視線が真っ直ぐに返ってくる。その眼差しは、未来を託す者の意思の色をしていた。


「君が受け取るべきものを、ようやく手渡すことができた。それだけでも、私は救われた気がするよ」


 低く、深い声が胸の裏へ静かに響く。その重みは、見守る決意の温度を帯びていた。


「これから君がどんな道を選び、どんな未来を描いていくのか――その全てを、私は見届けたいと思う。もっともこのような老いぼれでは、そうもいかないだろうが」


 先王の指が一度だけ止まり、すぐ何事もなかったように動く。


「必要なものがあれば、出来うる限り手配しよう。私にできることはそれくらいだ」


 背筋が自然と伸びる。指の中の微かな震えが、前へ踏み出す合図のように思えた。


「身に余るお言葉です。母の想いに応えるためにも、わたくしは自分の選んだ道を恐れず進む所存でございます」


 自分の声が、湯気の向こうで確かな輪郭を帯びた。頷くと、胸の中心に小さな芯が通る。


 立ちのぼる白が、過去と未来のあいだに細い橋を架けていく。いま踏み出す一歩を、見えない誰かが祝福してくれる気がした。


◇◇◇


 グレイハワード先王陛下――かつて「グレイ」と名乗ったひとは、磨かれた石を掌で温めるみたいに、静かな声で過去を差し出した。言葉は角をもたず、長い時間をくぐった記憶の粒が机上に並ぶ。


「私はね、幼い頃から魔術の持つ可能性に、すっかり魅了されてしまったのだよ」


 遠景を見る目だ。瞳の底に、夜更けの灯と開きっぱなしの書、乾いた羊皮紙の匂いが揺らぐ。


「残念ながら、魔術適性には恵まれなかった。それがどれほど悔しかったか……どうすれば人並みに近づけるのか、そればかりを考えていたよ。結局、術式構築や理論研究に没頭することで、ようやく居場所を見つけたようなものだがね」


 苦さを懐かしむ微笑がうっすらと浮かぶ。指先が、昔の羽根ペンの感触をいまも覚えているかのようだ。


「王太子だった頃は、周囲からずいぶん呆れられたものだ。『王位を継ぐ身が、そんなことにかまけている場合ではない』とね。それでも、どうしても諦められなかった。……まあ、そういう性分なのだろうな」


 自嘲の色に、少年めいた無邪気が混ざる。執着の火は、小さくても消えずに残るらしい。


「特に、後に宰相を務めてくれた親友には頭が上がらなかったよ」


 声に、温かい重みが差す。


「彼はとても優秀で、私とは真逆の冗談の通じない堅物でね。だが、その頑なさが、私には支えだった。私が羽目を外しても、彼は一歩もぶれずに国を動かしてくれた。だから私は、心置きなく魔術の研究に潜れたのだ」


 語る表情に、いまも隣にいるかのような親愛がよぎる。机の端を軽く叩く仕草に、昔の呼吸が宿る。


「いや、彼だけではない。どうしたわけか、私の周りには才気あふれる者たちが集まってきてくれた」


 困ったように肩がすくむ。


「皆によく言われたものだ。『お前は危なっかしくて放っておけない』とね。私のようないたらぬ者を心配して、口も手も出さずにはいられなかったのだろう。……まあ、彼らがいなければ、今日のリーディスの繁栄はなかったに違いない」


 言葉尻に、謙虚さが静かに沈む。重ねた手と手が土へ根を張り、国という樹を支えたのだと、空気が伝える。


「平穏な時代の王というのは、どうやら少し鈍感なくらいの方が向いているのかもしれないな」


 小さな冗談が、室内の張りをほどく。


「いや、もちろん自分を褒めているつもりはないのだが」


 真面目な弁解に、笑いが喉の奥で弾む。飾らなさが、ひとの輪郭をやわらかくする。


「そして……」


 そこで声の底が少し深くなる。指先で記憶の水面をすくうような調子だ。


「……メイレアが誕生した時のことは、昨日のことのように覚えているよ」


 表情がほどけ、一瞬、春の陽だまりのような笑みがのぞく。


「あの子は――春先に咲く、一輪の花のようだった。触れることさえ躊躇われるほどか弱く、愛らしかった。……だというのに」


 そこで言葉が薄く途切れ、まぶたが影をつくる。目に見えないざわめきが、静かに部屋へ広がる。


「あの髪と瞳を見た時、部屋の空気が変わったのを感じた。祝いの場であるはずが緊張が走り、誰もが顔を見合わせた。不吉だと――声には出さずとも、そう思われた。……あの子は、まだ何も知らないというのに」


 拳が机の上でわずかに動く。昔の空気の冷たさが、皮膚の内側に戻る。


「王家に生まれる黒髪と翡翠の瞳の姫は、精霊の巫女とされている。……そして黒髪の巫女の誕生は、必ず国を揺るがす災厄の兆しだと――長き歴史の中、そう信じられてきた」


 苦い諦観が混じる。


「理性では分かっている。巫女の証がもたらす不吉など、ただの迷信に過ぎないと。それでも、理屈だけではどうにもならないのが人の心というものだ」


 視線は遠い。疫病、飢饉、天災――名を呼ぶだけで、冷えが皮膚へ浮かぶ。


「疫病や飢饉は、どれだけ克服しても、人々の記憶から消えることはない。そして――絶え間ない魔獣の襲来だ。あれは、恐怖そのものだった」


 石壁が、言葉の重みを静かに返す。わたしの胸のなかにも、低い震えが落ちる。


「だが、私は――どうしてもそんな伝承を認めたくなかった」


 声の奥に、父としての芯が現れる。


「メイレアは他の誰とも違う、唯一無二の存在だ。あの子は私の娘であり、かけがえのない家族だ。巫女だろうが何だろうが関係ない。私が守る。――それだけは、どんな状況でも変わらないと誓った」


 愛と責務の間に置かれた刃。握り直した指に、昔の痛みが淡く残る。


「だが――現実は、そう甘いものではなかった」


 伏せられた瞼の陰が深くなる。


「成長するにつれ、巫女としての兆候が次第に明確になっていった。幼いながらに精霊とされるものの声を聞き、見えないものの気配を感じ取る力を示したのだ。それは――彼女自身にとっても、受け入れ難い事実だったに違いない」


 声のひだに、幼い孤独の冷えが宿る。わたしは息を潜めて聴いた。


「どれほど精霊からの囁きだと訴えても、周囲は耳を貸さなかった。それどころか、口にした途端、奇異の目を向けられるばかり。……メイレアの面差しは私にも妻オルフェリアにも似ず、血統を疑う声すら上がった。その重圧に追い詰められた末――オルフェリアは心を病み……ついには、自ら命を絶ってしまった……」


 その名を口にしたあと、先王はしばらく茶器へ目を落とした。湯気はもう薄いのに、そこだけ時間が止まっているようだった。


 静かな痛みが部屋の温度を下げる。胸骨の内側が、音もなく軋む。


「そして、あの子はこの離宮へと押し込められた。理由はただひとつ――黒髪の巫女が公に知られれば、無理解という刃が真っ先に彼女を貫くだろうと恐れられたからだ。あの子は外の世界を奪われた――」


 遠い一点を見つめる目に、悔いの影が確かに揺れる。


「メイレアは、状況を自分なりに受け入れようとしていたのだろう。外出を許されぬ日々のなかで、それでも健気に、明るくあろうと努めていた……」


 ふっと口元がゆるむ。記憶が、今だけ明るい色を帯びる。


「生来の天真爛漫さゆえか、離宮の者たちを何度も困らせたそうだ。ちょっとしたいたずらで皆をかき回してな。それでも誰ひとり本気で怒る者はいなかった。むしろ、その純粋さに――皆、救われていたのかもしれない」


 その微笑に触れて、胸の奥の冷えが少しだけほどける。


「私は、公務と研究に追われ、なかなか離宮に足を運べなかった。それでも週に一度はどうにか時間を作り、あの子の顔を見に来た。末の子だったからな……可愛くて仕方がなかったよ。『目に入れても痛くない』というのは、まさにこのことだ」


 言葉は波紋のように広がって、わたしの胸の水面にも触れる。そこに、たしかなぬくもりが生まれる。


「ある日のことだった……」


 声色が変わる。遠い窓辺の光が、室内へそっと差し込む。


「窓辺に、一人佇むメイレアを見かけた。その姿が、どうにも胸に引っかかった。あの子の表情が――言葉にするのもためらわれるほど寂しげでな。……あれは、見ていられなかった」


 広い廊の寒さ、閉ざされた窓の冷たい光。小さな背に映る世界の遠さ――音のない寂しさが、皮膚へ降る。


「当然だ。多感な年頃でありながら、同じ年頃の友人もいない。外の世界も知らない。大人たちが示すのは、無理解と遠巻きの冷たい視線ばかりだ。……私はどうしても、あの子を笑顔にしてやりたかった」


 声がわずかに弾む。


「そこで、私はある妙案を思いついた。まあ、実に単純なものだったがね――黒髪を隠してしまえばいいと考えたのだ」


 胸の奥で驚きと可笑しみが同時に跳ねる。けれど、その先の言葉に、頬がほころぶ。


「王女という立場上、髪を染めるなどという行為は到底許されるはずもない。だが、付け外しのできるかつらならどうだろう、とね。腕のいい職人に作らせれば、きっとメイレアにぴったりのものができる――そう思った」


 父親の愛情は、ときに真剣すぎて愛おしい。


「そこで、腕のいい職人を探した。隣国の『クワルタの街』に腕の良い人形師がいると聞いてね、依頼することにした。王都の貴族の間では、髪の細工に優れると評判だった。……だから私も、任せられると思った」


 その地名に、胸のどこかが小さく反応する。指先が微かに冷える。


「クワルタの、人形職人……」


 自分の声が、記憶の引き出しをそっと開ける。


 ミース・フォリノール――彼女の父であろうその手つきが、脳裏に浮かぶ。


「完成したかつらは、それは見事なものだった」


 先王の微笑が温度を上げる。


「春の新緑を思わせる、瑞々しい色合いでね。森の息吹を宿したように清らかで、それでいて決して目立ちすぎない。控えめな中にも品のある輝きがあった。……まさに、メイレアに相応しいと思ったよ」


 言葉の中に、娘を見る眼差しの優しさが満ちている。


「もちろん、あの子は大喜びだった。かつらを被ると、ぱっと顔を輝かせてね、『わたし、メービス姫に変身した!』と言って、くるくる踊ってみせた」


 カーテンが揺れ、靴先が床を弾む気配。小さな歓声が耳の奥で弾ける。


「その色を選ばれた理由ですが、何かあるのですか?」


 自分でも自然に出た問いだった。


「もちろん、伝説のメービス王女にちなんで選んだものだ。彼女は若緑の髪のかつらで身分を隠し、世界を旅した――そう言われている。それにあやかり……メイレアにも、彼女のように自由に世界を見てほしい。そう願ってね」


「そうだったのですか。わたくしはてっきり、王家にとって不都合だったから、黒髪である事実そのものが改ざんされたのではないかと……そう考えていました」


 驚きと納得が、胸のなかで静かに位置を入れ替える。知らなかった記録の温度が、指先に淡く伝わる。


「後にそういった話が広まったのは確かだ。だが、真実は違う。……これを知るのは、王位継承権を持つ者だけだがね」


 声の重みが、歴史の核心に触れた気配を運ぶ。


「そして――その時から、メイレアの冒険の日々が始まったのだ」


 目元に灯がともる。あの子が初めて自分の足で扉を開けたときの空気の清新さが、こちらの頬にも触れるようだ。


「あの子にとっては何もかもが新鮮で、輝いていたのだろう。まさに……自由と解放、そのものだったに違いない」


 声の明るさに、わたしの胸にも風が通る。


「ただ、問題がなかったわけではない」


 先王の視線が揺れ、笑みの名残がきれいに畳まれた。


「と、いいますと?」


「メイレアが、単独で行動したがったということだ」


「まぁ……」


「あの子の好奇心と行動力は、桁外れだったと言えるだろう。父親としては心配で仕方なかったが、護衛には遠巻きに見守らせることにした」


 やっぱり、母さまはどこかネジが飛んでいる。苦笑いの気配が、自分の頬にも同じ角度で落ちる。


「連日上がってくる報告書によればだが……気になるものを見つければ、迷いなく首を突っ込み――困っている人を見かければ、即座に手を差し伸べていたそうだ。時には食べ過ぎて動けなくなり、親切な町人に介抱されたことも少なくなかったとか……」


 王都の路地の匂い、焼き菓子の甘さ、屋台の油の跳ねる音――幼い彼女がくるくると世界を撫で回す光景が、目にやさしく浮かぶ。


「まさに冒険、そのものですね」


「まったくだ。護衛の者たちが常に胃薬を欠かせなかったという話も、……冗談には聞こえなかったよ」


 先王の口元に、笑みの名残がひとひら残った。


「私も、仕事の合間を縫って――『ただのグレイ』として、彼女に付き添ったことがあった。……だが、振り回されることの方が多かったよ。あの無鉄砲さには何度も肝を冷やされた。……それでも、一緒に過ごした時間は何にも代え難いものだった」


 思わず、喉の奥で小さな笑いが転がる。先王も釣られて、目元に穏やかな皺を刻む。


「『君を街で見かけた時、あの子が帰ってきたように錯覚した』と言っただろう? それはね。こういうことだったんだよ」


 受け皿へ戻した指が、縁で一度だけ止まる。


「……わかります。陛下のそのお気持ち……」


「君の姿が、まるで時を遡ったかのように私には感じられた。だから、緑色の髪の人物を探せと命じていたのだ。無論……ただの願望にすぎないがね。だが、君が現れた。あの子の娘として。……これを僥倖と言わず、何と言おう」


 静かな言葉が、胸の底へ澄んだ水のように沁みていく。喪失のあとにも、こんなふうに光は残るのだと知る。


「そうでしたか……なんだか、とっても嬉しいです」


 言葉が口を離れた瞬間、室内の空気がひと呼吸やわらいだ。


 縁は不思議だ。ミースの手が整えた若緑も、彼女の父であろう人がかつて作った若緑も、いつかの願いと今を細く繋いでいたのかもしれない――そんな予感が、胸のあたりに静かに灯り続けていた。


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