答えを探し求めて
微睡みの底で、空気が肌を薄く撫でていく。羽毛の毛布は身体の線へやわらかく沿い、肋のあたりへ溜まったぬくもりが呼吸の奥へ静かに沁みていた。まぶたの裏では、消えきれない淡い光だけがゆらめいている。
その光へ意識の端が触れた途端、遠ざけたいのに指先だけがそちらへ伸びてしまう気配が広がった。息がわずかに浅くなり、わたしはゆっくり深みへ沈んでいく。輪郭がほどけ、世界から音が剥がれていった。
足裏に若草の柔らかさが触れる。草と土の香を含んだ風が頬をかすめ、懐かしさに似たものだけが口の奥へ残った。けれど景色は薄い膜一枚ぶん脆く、記憶を手繰ろうとするとすぐ霧に遮られる。ここがどこで、なぜ立っているのかもわからない。ただ、このひとときだけがすべてであるかのように、時間だけが止まっていた。
現実と夢の境が薄くなり、耳の奥ばかりが妙に冴えていく。曖昧な狭間を漂っていると、遠くから声が近づいた。霧の湿りが音の縁を濡らし、輪郭だけが先にこちらへ寄ってくる。
《《……つる、みつる……》》
「ん……ぅ……」
眉根がかすかに寄る。まだこの安らぎへ沈んでいたい。そう願った刹那、声が硬い音を立てて頭の中を打ち、夢が裂けた。
《《いい加減、起きなさいよっ!》》
思わず目を見開くと、視界いっぱいにヴィルの顔があった。吐息が触れる距離に、背骨の内側がひやりと固まる。
「きゃぁああぁぁーっ!」
絹を裂くような叫びが喉を駆け抜け、両手で顔を覆って身を縮める。肋の奥で心臓が暴れ、鼓動が耳の内側へひびいた。息を整えようとしても、震えはしばらく収まらない。
「お、おいっ? ミツル……?」
戸惑いの色を含んだ声。恐る恐るまぶたを持ち上げれば、困惑した表情がすぐ間近にあり、みぞおちが小さく縮んだ。
「すまん、驚かせるつもりはなかった。ただ……うなされているみたいで、心配になってな。すまんすまん」
金の髪を無造作に掻き上げ、気まずさをごまかす仕草。その少年めいた照れへ視線が逃げ、わたしはようやく、昼食後の休息に落ちていたことを思い出す。夢の残滓がまだまとわりつき、足裏から地面が遠い。
乾いた舌先で唇を一度湿らせて、ようやく声を探す。
「……あぁ、うん。大丈夫。ただ、夢の中でちょっと迷子になってたみたい」
掠れた声が唇からこぼれ、言葉の輪郭は自分でもまだおぼつかない。
「そうか……。それにしても、凄い悲鳴だったな。森の魔獣だって逃げ出す勢いだったぞ」
冗談めかす調子に、どれほど取り乱していたかを悟る。普段なら荒げぬ声が、今日は小さな拍子で揺れてしまう。
「……ごめんね、ヴィル。驚かせちゃって」
頬へ熱が集まり、咄嗟に視線を逸らす。彼の眼差しは、心配と微笑ましさが半分ずつだった。
「気にするな。だがな、お前、夜眠れているのか?」
ヴィルは言葉を一度噛み、短い沈黙が草の匂いに沈んだ。
「うん、まぁ……正直、ちょっと寝不足かも。いろいろと考え事が多くて……」
軽く返したつもりでも、声の底に疲労がにじむ。夜ごと波みたいに記憶が押し寄せ、気づけば夜明け。前世の断片と今生の記憶が絡み合い、ときに口の奥へ砂を落としてくる。
彼はわずかに眉をひそめた。憂いを含んだ視線が背筋へ刺さり、わたしは草むらへ目を落とす。指先が、草の冷えた芯を無意識に探っていた。
「考えすぎは体に毒だぞ。焦ったところで、どうにもならないことだってある」
息がみぞおちでつかえて、うまく吐き切れない。
「……かも、しれないわね」
小さく肩をすくめ、地平の青に目を上げる。雲ひとつない空の下でも、視界の端に薄い霞だけが居座っていた。
ぽん、と肩に大きな手。ごつごつした感触の奥に確かな温度があり、張りつめていたものがほどけて、息が少し長く吐ける。
「まあ、無理だけはするな。今日はもう狩りは切り上げて、街に帰るとしよう」
衣服越しにも伝わる熱が、指のこわばりをそっと緩めた。
「……うん、そうしましょう」
吸い込んだ空気が肺の隅まで届き、足裏に大地の重みが戻る。
◇◇◇
スレイドの背に揺られ、前を行くヴィルの背中へ身を預ける。伝わってくる体温に、肩甲骨のあたりから力が抜けていく。規則正しい歩調が身体の芯を撫で、ふと、亡き父と旅をした記憶がよぎった。温かさは、同時に、もう戻らない日々の痛みも連れてくる。
そのとき、腰の白い剣――マウザーグレイルが微かな温を帯び、心へ茉凜の声が落ちる。鞘越しに、指先がわずかに熱を拾った。
《《美鶴、さっきはごめんね。ヴィルが近づいて来るのがわかって、起こさなきゃって焦っちゃった》》
わたしは声を出さず、目の前でそっと手を振る。「大丈夫」と伝える仕草は、ちゃんと彼女へ届く。
《《でもね、彼の言うことも一理あるよ? あなたって考えすぎるから、思いつめると本当に倒れてしまうかもしれない。わたし、それが心配なの》》
頬をかすめる風みたいに沁みる言葉。わたしは短く息を吐き、オーケーのサインを返す。続きは夜、宿で。
《《そこで、わたしからひとつアドバイス。……温めた葡萄酒を少しだけ飲むといいって聞いたことがあるよ。寝る直前はあまりよくないけど、ほんの少しなら心がほぐれるかも》》
不意の提案に、唇が緩む。ささやきの往復は秘密めいて、張り詰めた内側へ柔らかな余白を落とした。
◇◇◇
その夜は少し早く夕食を終え、宿の手前でヴィルと別れた。ふだんなら二人で酒場に寄るのに、今日はそこまで気力がもたない。帰り道の酒屋で量り売りの赤葡萄酒を受け取り、そのまま宿へ戻る。
古びていても清潔な戸口に、いつもの女将さん。魔獣に脅かされる街で、彼女の笑顔は灯そのものだった。
「おかえり、ミツル。今日はどうだったんだい?」
「いつも通り、といったところです」
努めて明るく返しても、鋭い視線はすぐ疲れを見抜く。灯の下で、まつげの影が揺れた。
「うーん……あんた、またちゃんと寝てないだろう? 目の下に隈ができてるよ?」
「あぁ、まあそうかもしれません……。だから、今日は早めに切り上げてきたんです」
葡萄酒の入った土瓶を軽く掲げて見せる。
「それで、これを飲んで、さっさと寝てしまおうかと思って」
女将さんは眉をひそめ、すぐに声音を和らげた。
「そういう時もあるさね。でも、そのままじゃ強すぎるよ。水で割って飲みなさい」
「はい、そうします。それじゃ、おやすみなさい」
意識を手放すほど飲み干したい衝動は喉元まで来ていたが、その母親めいた視線から逃れるように、軋む階段へ足を向ける。踏み板が、かすかに鳴った。
「おやすみ。……あぁ、そうだ、明日の朝はね、久しぶりにパンを焼くからね!」
思わず足が止まった。振り返ると、瞳が自分でもわかるほど明るむ。
「本当ですか?」
女将さんは破顔する。
「ああ、今朝やっと粉が手に入ったんだよ。焼きたてを楽しみにしてておくれ」
「はい、楽しみにしています!」
焼きたての香りを想像しただけで、指先まで温まる。遠い母の面影が薄く重なり、ひとときそこへ包まれた。
◇◇◇
階段を上がり、扉を開ける。土瓶を卓へ置いてランプへ火を入れると、壁に影が揺れた。重い身体を寝台へ沈め、白い鞘のマウザーグレイルを膝へ抱く。鞘の冷えが、掌の熱を静かに吸っていく。
《《今日も一日、おつかれさま、美鶴》》
剣から響く声に、小さな溜息がこぼれた。顎の奥の力が、ふっと抜ける。
《《あんまり無理しないでね。あなたが倒れたら、わたしじゃ看病してあげられないんだから》》
掌に残る冷えのせいで、指が自然に丸くなってしまう。
「心配かけてごめんね、茉凜」
声に出すだけで肩が少し落ちる。息が、さっきより深い。
葡萄酒の栓を抜くと、ぽん、と乾いた音。ひと口含めば果実の甘い香が立ちのぼり、張りつめた糸がゆっくり緩んだ。
《《あ、少し甘口なんだね。軽やかで飲みやすい感じかな?》》
味覚を分け合う感覚に、思わず微笑む。
「そうみたい。それに、今日はなんだか、特に美味しく感じるよ」
《《それならよかった。もっと飲んで、ゆっくりリラックスしてね》》
「調子に乗って、そうやってまたわたしのこと、酔い潰す気でしょう?」
《《うふへへ……バレたか》》
笑いを舌先で噛み、土瓶の縁の冷えが指先へ戻った。
軽口を交わし、もう一口。甘さがするりと滑って、張っていたものがさらにほどける。部屋の静けさが一段深くなる。
「でも……やっぱり、あなたとこうして二人でいるのが、一番心が安らぐ……」
ぽつりと落ちた独白が、薄い闇へ溶けた。
火が一度だけはぜ、壁の影がすこし深く沈んでいく。
《《わたしも同じだよ、美鶴。身体がなくたって、あなたの五感を分けてもらえるだけで、こうして十分楽しめてるからね》》
膝の上で指がしばらく解けない。白い鞘だけが、灯を鈍く返していた。
「茉凜?」
《《なあに?》》
口の中が乾き、言葉がひっかかる感触を抱えたまま、わたしは続きを選ぶ。
「わたしは……お別れのときに、ほとんど思いつきで『生まれ変われたら』なんて言ってしまったけれど……今になって、少しだけ後悔しているの……」
《《えっ、どうして……?》》
葡萄酒の匂いが鼻腔の奥へ入り、息が一瞬だけ途切れる。頬の内側は熱いのに、指先だけが冷えたままだ。
「……わたし、やっぱりどこかおかしいのかもしれない。わたしは、一応二十歳を越えているはずなのに……些細なことで感情に振り回されてしまうことが多くて……時々、自分が自分でないような気がして、怖くなる」
《《うん……わかるよ。そう感じてしまうのも、無理はないと思う》》
剣身が微かに震え、掌の芯がじんと熱を拾った。
《《前世のあなたの人格と、この世界で生まれ育った『ミツル』という子の感情が、まだ馴染まずにぶつかり合っているんだもの。混乱してしまうのは、当たり前のことだよ》》
「うん……」
息を吐くと、舌の先に甘さが残った。人前では理屈で抑え込む前世のわたしと、感情豊かな「ミツル」。その溝は、いつも呼吸を浅くする。
「でも、どうして……どうしてこんなにも、子供っぽくなってしまうんだろう? 嬉しいとか、悲しいとか、寂しいとか……そういう起伏が、知っていたものよりずっと純粋で、激しくて……我慢しようとしても溢れてきてしまって……わけがわからない」
言葉を吐くたび、舌の付け根がかすかに痛む。理屈の鎧の継ぎ目から、熱が滲んでしまう。
《《それって、悪いことなの? 我慢しなくちゃいけないことなのかな?》》
少し悪戯っぽい軽やかさで問う声が、肩のあたりへふっと降りる。天井の影が、一度だけ揺れた。
《《嬉しい時に笑って、悲しい時に涙を流す。そういうふうに、純粋に気持ちを表すのは、とても自然なことだと思うけどな》》
「そうかな……? なんだか、自分が馬鹿みたいに思える時があって。もっと……昔のわたしみたいに、冷静でいられたら、それで良かったのに……」
爪が掌へ食い込み、微かな痛みが動揺の形を教える。
《《そんなことないよ》》
鞘を押さえる指の腹に、じんと温みが戻った。
《《大人びていてクールな部分も、素直で時には子供みたいに感情豊かな部分も、どちらも今のあなたを形作っている、かけがえのない大切な一面だよ。無理にどちらか一方を否定する必要なんて、どこにもないんだから》》
目を伏せ、浅く息を吐く。まつげの影が、鞘の白へ落ちる。
「でも……」
声が震え、内側の葛藤がまた強く揺さぶる。冷静であろうと努める殻が、ふとした拍子に崩れそうで。
「どっちが、本当のわたしなのか……それが……怖いの……」
《《『本当の自分』っていうけどさ、そういうのって、べつに一つだけの決まった形じゃないと思うよ? 元の世界のあなただって、表向きは冷たい顔を作っていたけれど、なんだかんだ言って、根っこはすごく優しかったじゃない?》》
葡萄酒の甘い残り香が鼻へ残り、唇を噛む前に息がひとつ短く漏れた。
「優しいとか、そんなの……ただ臆病だっただけよ」
茉凜の笑いが剣の奥でくすりと弾み、鞘を押さえる掌がわずかに温む。
《《そうね、あなたってそういうとこある。だから、今のあなたもきっとそれと同じ。慣れないから戸惑っているだけで、無理に我慢しようとしているだけなんじゃないかな?》》
肩の内側に貼りついていた固さが、ゆっくり離れていく。離れたぶんだけ、空気の冷えが皮膚にわかる。
《《前世の記憶があったとしても、今あなたがここで感じている気持ちは、全部、紛れもなく本物なんだから。それを否定しちゃうのは、なんだかとても勿体ないことだと思うな》》
奥歯が一度噛み合い、指先が鞘の白を探って止まったままになる。
「でも、茉凜……」
視線が落ち、心の底がざわつく。唾を飲み込む音だけが大きく感じて、わたしは息を一度置いた。
「『昔の氷の王子様』みたいに……冷徹にならないと、わたしはきっと、この過酷な世界で生き抜いていけない気がするの……」
《《そんなことないよ。わたしは、素直で優しくて、迷って泣いて、それでいていざという時にはちゃんと強い、そういう自然なままのあなたが見たいな。だってあなたの笑顔って、とーっても素敵だもん。……アキラちゃんの言葉を借りるなら、『マジ天使』ってね》》
息が詰まり、思わず顔を上げる。
「そんなこと……思ってたの?」
冷静で強くあろうとしても、彼女の前では素直が顔を出す。頬の内側が熱く、口の端がうまく動かない。
《《わたしが美鶴のことを好きになったのは、あなたがただ格好良いからじゃないよ。その強さも、時折見せる弱さも、そして何より、その不器用な優しさも……ぜんぶひっくるめて、大好きなんだから》》
肋の内側で、薄い紙がそっと折れるような音がした。言い返す言葉が見つからず、鞘の白だけを見つめる。
「ありがとう、茉凜……」
頬に残る熱を隠すように笑ってみせても、声の端が揺れてしまう。
《《それにね、今の美鶴は……うん、とっても可愛らしいと思う。前の世界のあなたより、もっと好きになったかも》》
土瓶の縁に触れていた指が、ぴくりと跳ねた。
「か、か、かわいい……!?」
《《うん、かわいいよ。なんだか、前よりもずっと素敵になった気がする》》
羞恥がこみ上げ、わたしは土瓶の縁を指で押さえた。硬い感触に、視線だけを預ける。
「も、もうっ、からかわないでよ……! 恥ずかしいこと言わないで……」
《《ねぇ、美鶴。その時その時に抱いた感情を、もっと素直に出していこうよ。せっかくこうして、もう一度生きるチャンスをもらえたんだからさ。ありのままのあなたで、ちゃんと生きていこう?》》
窓の継ぎ目を風が細く鳴らし、冷えが指先を撫でた。
「うん……」
温度が少し戻る。わたしは意を決して、内側で燻っていた問いを切り出した。
「茉凜、さっきの……生まれ変わりの話の続きなんだけど……」
《《うん、どうしたの?》》
鞘を抱える腕に、ほんの少しだけ力が入った。
「デルワーズは、あの時、『またいつか会える』と言った。わたしはそれを、精霊子の中に保存された『わたし』と転写された『あなた』が、あの幻想の空間で再び巡り会える意味だと解釈していた」
土瓶の底が、卓に触れて低い音を残した。
「けど……実際にはそうはならなかった。デルワーズは約束を破ったんだ……」
《《たしかに……そう言われれば、そうかもだけど……》》
階下で食器が触れ合う音が、ひとつだけ遅れて届いた。
「転生とか、ほんとうはどうだってよかった。ただ……ただあなたともう一度、言葉を交わすことができたら、それで十分だったのに。なのに、どうしてこんな形で……」
《《でも、わたしはあなたがこうして生まれ変われたことが、ほんとうに嬉しいよ? それも、ちゃんと女の子としてね。それに、名前だって前の世界と同じ読みの『ミツル』だなんて……》》
甘い残り香が鼻に残り、唇の裏側が少しだけ乾く。
「あなた、気づかないの?」
《《え……? なにが……?》》
わたしは息を吸い直す。葡萄酒の甘さの奥に、ほんの少し渋みが残っていた。
「あなた、どうしてメイレア母さまが、わたしに『ミツル』なんて名前をつけたか、理由を知ってる? 母さまが言うにはね、わたしがまだお腹の中にいた時、『あなたがそういう名前にして』って、囁く声が聞こえた気がしたんだって。……そんなこと、ありえると思う?」
《《うーん……でも、なんだかとても素敵なエピソードだと思うけどなぁ……》》
あまりに純粋な返事に、力なく笑うしかなかった。
「そんな……そんなお伽話みたいに出来すぎた話が、どうして起こるの? どう考えてもおかしいでしょう?」
《《それじゃ……もしかして……?》》
卓の木目が、灯を鈍く返した。
「わたしたちがこうして、この世界で再び出会えたのは……何者かの壮大な計画の一部だったのかもしれない、ってことよ」
膝の上の白い鞘だけが、言葉を吸って重く沈んでいた。
「デルワーズの『またいつか会える』は、気まぐれや優しさの言葉じゃない。彼女が何らかの意図に基づいて緻密に舞台を整え、わたしたちを駒のように配置し、この場所へ導いた――そう思えて仕方ないの」
《《でも……もしそれが本当だとしても、今のわたしたちには、それをどうこうすることなんてできないんじゃないかな……? それより大切なのは、わたしたちが今こうして一緒にいる、この現実なんじゃない……?》》
わたしは土瓶を置いた。木の卓が、低く短い音を返す。
「だとしてもよ……わたしは真実を知りたいの。このわたしが、いったい何のために存在しているのか。その理由を、はっきりと」
声を落として、自分に言い聞かせる。息が白くはならないのに、口の中だけが冷える。
「もし、デルワーズの掌の上で踊らされているのだとしたら……そんなの嫌。操られるのはもうたくさんよ。何も知らないまま、運命に流されて生きていくなんて……」
しばし、沈黙。耐えきれず柄を握る指へ力がこもり、硬質な冷たさが掌に現実の重さを刻む。
《《……わたしは……あなたが本当にそうしたいと願うのなら、その道を進んでほしいと思う。けれど……もし、そのせいであなたが深く傷つくことになるのなら……わたしは……》》
息を吸うと、肺の底で小さく痛んだ。
「……傷つくことには、もう慣れっこよ」
自嘲の笑みが、唇へ淡く乗る。
「それより、何も見えない霧の中にいる方が、ずっと……ずっと辛い」
土瓶を傾け、ためらいなく喉へ流し込む。熱が広がり、喉を焼く刺激。そうでもしなければ、こみ上げるものが収まらない。
ひとつ大きく息を吐き、わたしは続けた。
窓の継ぎ目を風が細く鳴らし、夜気が指先を撫でた。
「まず、この子のこと……つまり、今のわたしのことよ。どうして前世のわたしと寸分違わず、深淵の血族の――しかもデルワーズに最も近しいとされる『黒』の適性で生まれてきたのか」
腕の内側へ抱えた鞘の重みが、ゆっくり沈んでいく。
「そして、どうしてわたしの家に、マウザーグレイルの本体であるこの白い剣があったのか。まるで、わたしの転生を待ち受けていたみたいに……」
《《たしかに……言われてみれば、不思議なことばかりだね。わたし自身、いつ、どうやってこの剣の中に入れられたのか、まったく覚えていないの。意識を取り戻したのは、美鶴が前世の記憶を思い出した、あの瞬間だったから……。でも、もしそれが本当にデルワーズの仕業だったとしても、今のわたしたちにはどうすることもできないんじゃないかな。……それよりも、今を生きているこの瞬間を大切にした方が、きっと……》》
わたしは鞘を抱え直し、腕の内側へ硬い冷たさを受け止めた。
「あなたの気持ちは、痛いほどわかるつもりよ。でも……ただ『今を大切に』なんて、そんな綺麗事だけじゃ、わたしは到底納得できないし、許せないの」
土瓶の縁が、指先へ冷たく触れた。
「約束が反故にされたことだって、もちろん許せないけど。それだけじゃない。かつてわたしが儀式で開いてしまった『門』を利用して、デルワーズがこのマウザーグレイルを召喚した……。もしそれが、母さまがどこかへ飛ばされてしまった直接の原因だったとしたら。あの転移現象のせいで、父さまと母さまは引き裂かれ、わたしたち家族は……」
《《美鶴の言いたいことは、ちゃんとわかるよ。とても、とても辛かったよね……。でも……それは、あなたのせいじゃ、決してないんだよ》》
息の奥が熱くなるのに、指先は冷えたまま戻らない。
「だから、それが甘いって言ってるのよ、茉凜!」
土瓶の底が、掌に鈍く当たった。
声を荒げかけ、震えを隠すように静かな調子で続ける。
「すべてが仕組まれていたとしか思えないの。わたしの名前が前世と同じ『ミツル』であることも、このマウザーグレイルが家にあったことも」
唇の端に残る甘さが、急に遠のく。
「そして、この異世界で異常なほどの深淵の力を、なぜわたしが生まれつき使えてしまうのかも――。そのすべてが偶然や幸運なんかじゃない。何者かによって周到に計算され、結びつけられているとしか、わたしには考えられないの!」
《《……そんなふうに……考えていたの……?》》
灯を受けた白い鞘は、膝の上で熱を返さない。
《《でも……もしそれが本当だとしても、わたしたちに何かを変えることができるのかな? わたしたち、二人だけの力で……》》
わたしは土瓶の口を指で塞いだ。指の腹がわずかに白む。
「それを、見つけ出さなければならないのよ。何が、何でも……」
白い鞘を強く見据える。視界の端で影が揺れ、息が浅くなる。
「デルワーズが、いったい何を考えているのか、わたしたちに何をさせようとしているのか……その真意を突き止める。そうでなければ、わたしたちはいつまで経っても、彼女の手のひらの上で踊らされるだけの、哀れな人形のままだから」
《《美鶴……わたし、あなたの気持ちちゃんとわかってるつもりだよ。せっかくもう一度会えて、これから幸せになれるかもしれないって思った矢先に……これだもんね。腹が立たないはずがないよ。悔しいよね……。それでもね、今わたしはこうしてあなたのそばにいる。そして、あなたもここにいる。わたしたちが、こうしてまた一緒にいられること――そのことだけは、決して無駄なんかじゃないって、わたしはそう信じたいんだ》》
わたしは目を閉じ、息を一つ分だけ置いた。まぶたの裏で、赤い残光が一度だけ跳ねる。
「……そう、それだけは間違いない。でも……だからこそ、答えを見つけたいの」
呼吸を整え、静かに置く。指の関節が白くなるのを、わたしは見ないふりをした。
「わたしたちが、どうして今、ここでこうしているのか。その本当の理由を。行方知れずの母さまのためにも、今は亡き父さまのためにも……そして、この『ミツル』という、幸せになる権利があるはずのこの子を……今度こそ、不幸にしないためにも。悲劇なんかじゃなく、ちゃんと、ハッピーエンドへ連れていくために」
《《うん……わかったよ、美鶴。あなたが答えを探すというのなら、わたしも一緒に探す。あなたがどんな道を選んだとしても、わたしはずっと、あなたのそばにいるからさ》》
膝の上の重みが、ほんのわずかにやわらいだ気がして、わたしは肩の力を抜いた。
「……ありがとう、茉凜。あなたがいる……ただそれだけで、わたしは強くなれる気がするわ」
視線を伏せる。真実を諦めない熱が、腹の奥で灯っていた。まだ小さい。けれど、消えにくい場所にある。
「でも……」
小さな声で独りごちる。
「もしよ……もし、わたしたちがこれから選ぶ道も、予め想定されているシナリオの範囲内なのだとしたら。……それで自由な意思で生きていると、本当に言えるのかしら?」
《《ねえ、美鶴。たとえ誰かの計画の一部だったとしてもだよ? 迷ってるのも、悩んでいるのも――それはぜんぶ、美鶴自身の気持ちなんだよ。誰かの言いなりなんかじゃない。自分の心で感じて、自分の頭で考えてる。それだけでも、わたしたちにはちゃんと生きてる価値がある。わたしたちは、操り人形なんかじゃない》》
一瞬、呼吸を忘れた。肩の内側がすとんと落ち、遅れて指先の冷えがほどける。
「相変わらず無茶苦茶ね。でも、あなたが言うとそれでいいんだって思えちゃう……」
闇の中に、ほんのわずかな笑み。
「そうね。どんな運命が待っていようとも……わたしたちが選び取ろうとすること自体に、きっと意味がある。もしそれが誰かの用意した舞台の上の選択でも……限られた条件の内側で、自分の生き方を見つけていくしかないのよね」
《《そうだよ。きっとそう。だから、わたしたちで一緒に頑張ろう。大丈夫、美鶴ならきっとできるって。わたしは信じてるから》》
彼女の励ましに、指先の冷えが少し引く。すべてがすぐ解けるわけではない。けれど一歩ずつ――ゆっくりでも――前へ進めると、今は信じられた。




