前世 深淵の黒鶴~氷の王子様と陽だまりのあなた
柚羽美鶴の物語は、一度死んだ場所から始まった。
すべてを失った日、光に焼かれ、世界が裏返るみたいに遠のいて、次に目を開けたとき、そこにあったのは弟・弓鶴の身体だった。鏡に映るのは見慣れた顔なのに、そこに宿っているのは姉である「わたし」。その事実が胸の奥を冷やし、声という声を凍らせた。あのときの呼吸の浅さと、歯の根が触れ合う微かな音を、いまも忘れられない。
誰をも寄せ付けずに歩くうち、人々はわたしを「氷の王子様」と呼ぶようになった。名は皮膚の上を滑っていくだけで、何も届かない。ただ、夜更けに窓を曇らせる白い息だけが、わたしがまだ生きていることを、かろうじて教えてくれた。
そうして凍ったままの日々に、あなたは光のように現れた。夕暮れの石御台公園。潮の匂いを含んだ風が頬を撫で、遠くで子どもの笑い声が途切れたとき、ベンチの端に座ったあなた――加茂野茉凜が、まっすぐこちらを見た。事故で夢を絶たれても前を向く、その眼差しの温度に、わたしは思わず視線を落とした。胸の奥で、凍った何かがきしむ音がした。
運命は、やさしいふりをして残酷だ。深淵の力に触れて暴走しかけたわたしを、あなたは恐れず抱きしめた。骨の細い腕。汗と風の匂い。鼓動の拍が、わたしの胸の内側へ静かに重なっていく。あなたは「安全装置」だと言われた。わたしを止めるための仕組み。役割の名は冷たくても、その体温だけはあたたかかった。
それでも、わたしはあなたを「道具」と呼び捨てた。言葉の先に壁を置いて、これ以上踏み込ませないための拙い柵。幼稚な柵は、弓鶴の元許嫁である真坂アキラの嫉妬と、火花散る現実の前でたやすく崩れた。崩れた隙間から、あなたが差し出した手を、わたしは掴んだ。黒い翼がひらく。――「ふたつでひとつのツバサ」。
あの手の温度は、いまも指先に残っている。少し汗ばんでいて、掌の真ん中が脈に合わせてじん、と熱を帯びていた。わたしの氷は、そのわずかな熱から溶けはじめたのだと思う。
梅雨入りのころ、二人で傘を差した。舗道に浮いた水の匂い。紫陽花の花弁から落ちる雫の、小さく澄んだ音。わたしが花の縁を指でなぞると、あなたは何も言わず、その指先の震えだけを見つめていた。
夏の陽射しのグランピング。弟として語った「過去」に、あなたは自分のことのように涙を落とした。その雫が、わたしの胸のいちばん冷たい場所へ触れ、静かに融かしていった。
海。アキラに「弓鶴の隣に立つ資格がない」と責められたとき、あなたはわたしの前に立った。砂に埋まる足の重さ、潮の塩気、呼吸の荒さ。あなたは怖れながら、それでも引かなかった。わたしは臆病だった。あなたに「わたし」が「わたし」であることを、どうしても言い出せなかった。
転機は学園祭。ヒロインの名はメイヴィス。純白のドレスと緑のウィッグを身に着け、鏡の前に立ったとき、そこにいたのは弓鶴ではなく、失われたはずの「わたし」だった。胸の奥で、長いあいだ沈黙していた鐘が、ひとつ鳴った。
舞台の上、騎士ウォルターを演じるあなたが、まっすぐにこちらを見た。光があなたの頬の産毛を縁どる。台本にはない熱が胸に込み上げ、わたしは衝動のまま、あなたの唇に触れた。あのキスは、メイヴィスとしてではない。柚羽美鶴としての、わたしの本心だった。
けれど、夢は長く続かない。わたしの身体は、黒鶴の代償――受容結晶体に蝕まれ、限界へ向かっていた。腰の奥には重く刺すような痛みが走り、指の関節には冷たい痛みが不意に来る。夜更けには喉の奥が砂みたいに乾き、息の拍が乱れ、世界の輪郭が薄く滲んだ。
すべてを終わらせるために、「始まりの回廊」へ。【深淵の根源――デルワーズ】は言った。解呪に必要なのは、真の意味で「心を通わせること」だと。
光に包まれ、意識が溶け合う。あなたはわたしのすべてを知った。わたしがあなたを騙し、利用していたことも、臆病で、弱く、ずるいところも。わたしは逃げられなかった。逃げてはいけないと思った。
白い、何もない世界。ベンチの木目を、人差し指がゆっくりとなぞる。指先に伝わるささくれのざらつき。そこで、わたしは「わたし」に戻って座っていた。もう二度と会えないはずのあなたが、静かに隣へ来て、息を整えた。
「やっとつかまえた……もう離さないからね……」
あなたは、すべてを知った上で、わたしを抱きしめた。肩口の体温、服の布目の感触。耳のすぐそばで、あなたの鼓動が規則正しく鳴っている。
「たしかに、わたしは弓鶴くんを好きになったのかもしれない。でも、わたしが見ていた彼を動かしていたのは、あなたなんだから。つまりね、わたしが好きになったのは柚羽美鶴……あなたの心なんだよ?」
その言葉が胸に触れた瞬間、わたしははじめて、自分の心臓の音を、わたし自身のものとして聞いた。
ずっと「氷の王子様」を演じてきたけれど、本当の王子様は、あなただった、茉凜。
別れと再会を誓った。金色の光が、ふたりの影をひとつに重ねる。これは終わりじゃない。はじまりなのだと、信じられた。
わたしたちのツバサは、きっとまた羽ばたく。そう、約束したのだから。




