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黒髪のグロンダイル 〜黒髪の巫女と雷光の騎士の誠実幻想譚〜   作者: ひさち
第六章 前世回想ダイジェスト編 深淵の黒鶴~柚羽美鶴
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ほんとうの王子様は、あなた

 微笑みが差し込む。息がほどける。……すぐに凍る。


 心の奥で、乾いたものが小さく砕けた。もう逃げ場はない。


 白い明度の底で、衣擦れだけが残響みたいに揺れた。抱擁の輪郭が、ほどけそうでほどけない。


 彼女の優しさに甘えることだけは、違う。喉が渇く。舌裏が熱を持つ。


「ほんとに、どうしようかと思ったよ。ぜんぜん答えてくれないんだからさ。わたし、もうあなたに嫌われちゃったのかなって……。でも、こうして触れて、あなたがちゃんとここにいるんだってわかって、本当に嬉しいんだ。これからは一緒だよ」


 鼓膜の内側で、その願いの温度が静かに膨らむ。肋の裏がきしみ、口は開くのに声が出ない。


 首が、わずかに横へ動いた。


 ここに留まることは、彼女の魂をこの檻に閉じ込める。そういう確信だけが、喉の奥を焼いた。


 無言のまま、腕を解こうともがく。指が空を掴む。ほどけない。


 弱いはずの彼女の左腕が、驚くほど強くわたしを戒めていた。衣類から移る微かな陽だまりの匂い。羽毛みたいな感触が、逃げられないと告げる。押し当てた額から伝わる鼓動の熱に耐え、浅い息を繰り返す。


「……だめ……そんなの、だめ。だめだよ……」


 擦れた声が空気を震わせた。彼女は吐息だけで笑った。その気配が背筋にひやりと走る。


「だめなんてことない。もういいんだよ。何もかも一人で背負うなんてこと、もうしなくていい。だから、一緒にいよう?」


 甘い言葉が内側へ沁みる。熱が傾く。――首を、横に。視界の縁が滲む。まっすぐな優しさに触れるたび、息が詰まる。


「ごめん、ごめんね茉凜……それだけはだめなの。だから、離して……」


 声は細く震え、頬を伝う熱が指の甲へ落ちた。落ちたところだけ、痛いほど現実だった。


「あなたがいくら拒んだって、わたしは絶対に離さないからね。わたしの性格はよく知ってるでしょ? 欲望には忠実だってこと。わたしにとって、あなたと一緒にいることが一番の幸せなんだから」


 その声音の芯が、みぞおちの中心へまっすぐ届く。握られた腕の圧が、もう解けないと告げる。


「やだ……やだよ……」


 嗚咽がこぼれ、呼気が浅く乱れる。肩がこつこつと震えた。


「わたしは……ただの罪人(つみびと)。あなたを騙して、優しさに縋って……利用していただけ。そんなわたしが、あなたと一緒にいられるわけないでしょう? お願いだから、離して……わたしのことなんて、もう放っておいて……」


 言葉の棘が自分へも返る。白に吸われる衣擦れだけが、やけに大きい。


「あのね、それのどこが罪だっていうの? だって、どうしようもないじゃない。もし、わたしがあなただったら、わめきちらして、何もかも投げ捨てて逃げ出してたかもしれないよ」


 彼女の声は軽いのに、抱き締める腕だけが揺るがない。笑いの形をして、逃げ道を塞ぐ。


「違う。あなたはわたしなんかとは違う……あなたは、強いじゃない……」


 唇の裏が乾く。言い返すほど、嘘が増える気がした。


「そんなことないって。鈍感なフリをするのが得意なだけ。傲慢だしね」


 短い髪が頬で跳ねて、すぐ落ち着く。あえて明るいところへ置き直す手つき。


「どこが……」


「美鶴はさ、優しすぎるんだよ」


 その呼び方だけで、胃の奥が一段冷えた。名前が、直接ここへ触れてくる。


「……勘違いしないで。わたしなんか自分勝手で、あなたの気持ちなんてなにも、なにも……」


 言い訳の糸が、喉の奥で絡まってほどけない。


「ほーら、そういうとこ。わかってる。そうやって一人で全部抱え込んで、ずっと悩んで、苦しんで、それでもずっと必死に堪えていた……。あなたは人一倍責任感が強くて優しすぎるから、どうしても言えなかった。それだけのことじゃない」


 まっすぐな調子が鼓膜に刺さる。呼吸が乱れ、喉が焼ける。抱きしめられているのに、逃げたくてしかたがない。


「何を言っているの? わたしは弓鶴の顔と言葉を借りて、あなたに偽りの希望を抱かせた。あなたの気持ちをわかっていながら、深淵の呪いを解くことしか見えていなかった。わたしの醜い心を知っているでしょう? あなたのこと、最後に裏切って捨ててしまえばいいとさえ考えていたの。わたしは、わたしは最低よ……」


 言い切った瞬間、腕の力が抜けそうになる。支えるものがなくて、骨だけになりそうだった。


 沈黙が落ちる。彼女の瞳には揺るぎない光。そこに、わたしの逃げ場はない。


「どうして、そんなに自分を責めるの? あなたはそれを罪だっていうけど、わたしはそうじゃないって思う。あなたが抱えているものは、あなた一人のものじゃないんだよ? はっきり言うけど、それはあなたの罪じゃない」


 言葉の端に、柔らかい断定が混じる。優しさというより、決意の硬さ。


「えっ……!?」


 息が逆流し、胃の底で何かがきしむ。


「そう、それは決して罪なんかじゃない。すべての原因が自分にあるだなんて、間違ってると思う。それは罪じゃなくて、デルワーズに掛けられた『呪い』なんじゃないのかな?」


 童話みたいな言い換えが、白い空気に落ちた。悪意の刃ではなく、外側からねじられた構造の名前として。


「――呪いって……」


 足元がふっと揺れる。自分の声のかすれに、自分が驚いた。


「そうだよ。悪い魔法使いに掛けられた呪い。それがあなたを縛りつけていたんだと思う。だから、すべてを自分の罪だなんて思う必要はないんだよ」


 想定外の角度から差し込む言葉に、思考がかき回される。喉が渇き、小さく首を振る。


「違うんだって。そもそも、資格もないわたしごときが解呪を望まなければ……弓鶴もあなたも巻き込まれずに済んだのよ。身の程も弁えず、馬鹿なことを……」


 禁忌の黒を背負う器ではない。弓鶴ではない。その引け目が、言葉になって滑り落ちる。


「それじゃ弓鶴くんは、もうとっくに死んでたかもしれないよ。あなたが頑張ったから、マウザーグレイルだって、こっちの世界まで来られたんじゃないの?」


 彼女の声音に、ゆらぎがない。わたしの言い訳の隙間へ、まっすぐ差し込んでくる。


「あ……」


「美鶴のしたことは、なにひとつ無駄じゃなかった。わたしはそう思うけどな」


 彼女の眼差しは揺れない。こちらを肯定する温度を帯びていた。


 わたしはずっと、あれを血の宿命だと決めつけていた。親から受けた責務。逃れられない軌道。痛みも重さも、一人で背負うもの――そう信じて歩いた。


 茉凜の言葉が、その刻印を剥がす音を立てる。もしそれが宿命ではなく呪いだったのなら。誰かに歪められた線路を、ただ信じていただけなのでは――。


 幼い日のわたしは、ただの子どもとして息をしていたかった。それをねじ曲げたのは、深淵の血族という名の線路。家族を裂いたそれを、この手で消したいと願った。


 けれど――それすら台本だったのかもしれない。情念のままに走り、気づきもしなかった。


 胃の奥で固まっていた塊が、わずかにほどける。


 これはわたしの罪ではなかったのかもしれない。小さな光が、はじめて灯る。


「茉凜……」


 名前を呼ぶと、言葉が続かなかった。視線の先で、変わらぬ優しさがわたしを包む。


「あなたは頑張った。心が擦り切れて、自分を失くしてしまいそうになるくらいにね……。辛いことしかないのに、言いたいことだってたくさんあったのに、やりたいことだっていっぱいあったのに。なのに、自分を犠牲にして、みんなのためにって、それだけを願って……。でも、あなたはやり遂げたんだよ。だから、もういいの。あなたがこれ以上苦しむことなんてない」


 抱擁の腕が、ほんの少しだけゆるむ。ゆるんだぶん、逃げ道が消える。


「……それで赦されるというの? このわたしが……?」


 問う声は弱く、しかし確かに空気へ溶けた。


「だからこそ、もう一度自分の本当の気持ちに向き合ってもいいんじゃないかな? それにね、たとえ世界のすべてがどんなにあなたを否定しようとしたって――」


 笑みの膜がふっと消えて、声の芯だけが残った。


「このわたしが許さないから。ぜったいにね」


 みぞおちの深部で、固い輪がゆっくりほどけていく。


 重みが、ほんの少し軽くなる。目に滲む熱は、過去の痛みと、未来の微かな光だった。


 温もりが差す。風はまだ冷たい。


 覆らない現実がある。わたしはもう、ある意味で生者ではない。弓鶴の器に逃げ込んで生き延びてきた自分を、亡霊と呼ぶしかない夜があった。だから今も、彼女の側にいてはいけない、と思ってしまう。


――どう足掻いても、わたしたちは決して一緒にはなれないのよ……。


 それでも、どうしても伝えたかった。茉凜への感謝を。見えなかった大切を、彼女が教えてくれたから。


 わたしは独りじゃなかった。茉凜がいて、世界は生まれ変わった。叔父様、佐藤さん、天のみんな。洸人、アキラ、灯子、演劇部の仲間たち。背中を押した小さな願いが、いくつも重なっていた。だから、絶望しきらずに歩けた。


「……ありがとう、茉凜。あなたにそう言ってもらえるなんて、とても嬉しい……。やっと、わたし、自分を赦してあげられそうな気がする……」


 語尾で息が震える。彼女は瞳を伏せ、光をこぼすように微笑んだ。みぞおちの冷えに温度が差す。


「うん、あなたは本当によく頑張った。これ以上ないくらいにね」


 見透かすような優しさに頬が熱くなる。脆いところまで露わになりそうで、目を逸らす。白い空気が、まぶたの裏へ淡く貼りついた。


「うん、頑張った……茉凜がいてくれたから頑張れたの……」


 声が幼くほどける。自分で驚くほど。


「だから、もう泣くのはやめようよ?」


「だって……」


 安堵で呼吸が浅い。彼女は眉を下げ、肩をすくめた。強がりの形だけが残る。


「あーっ、ほんとにもう、あなたってほんとにどうしようもない泣き虫だよね。演劇の時もそうだったけどさ」


 ふっと、舞台の暗転がよぎる。白い一条の光。あの瞬間に置いた言葉の重さが、今さら指先へ戻ってくる。


「そんなこと言われても。しょうがないじゃない……」


 年上のはずなのに、並びの高さへ戻ってしまう。こくりと頷き、涙を拭う。頬に触れた指が冷えていて、余計に滲む。


「せっかくこんなに可愛らしいのに、泣いてちゃ台無しだよ。ほら、笑って?」


 濡れた頬に指先が触れる。掌の温度が伝わり、肩の力が抜けた。ぎこちなく口角を上げる。


「うん、それでいい」


 安堵の微笑みが返る。わたしも息を吐いた。――言おう。胸の奥で温めてきたことを。


「茉凜……?」


「なぁに?」


「あの……」


 名を呼んだだけで喉が詰まる。耳の奥で鼓動が強く跳ね、唇が乾く。


「あのね、ずっと思っていたことがあるの」


 彼女が瞬き、小さく頷く。頬に薄紅がさした。ブレザーの襟元が、息と一緒に小さく揺れる。


「うん……」


「わたしたちはデルワーズに導かれて、器と導き手として巡り合った。それは仕組まれた運命だったのかもしれない。でもね、加茂野茉凜という人と出会えたことは……わたしにとって奇跡だったの」


 声が微かに震え、彼女の瞳がやわらぐ。照れた笑みが零れる。


「あ、あはは……なにそれ。ちょっと恥ずかしいんだけど? でも……よかった。わたし、ちゃんとあなたのためになれたんだね……」


 頬の内側がじんと熱い。視線が持たず、顔をそらす。明度の中で、自分の白い裾だけが妙に重たい。


「そうだよ……あなたが、わたしのことをずっと守ってくれていたの」


 もう守られるだけではいたくない。願いを込めるのに、声は子どもみたいに頼りない。


「わたしは氷の王子様だなんて呼ばれていたけれど、本物の王子様は……茉凜だったの」


 言った途端、胸の奥が熱くなる。彼女の目が丸くなった。短い髪が揺れて、すぐ止まる。


「うーん……」


 眉が下がり、首がかしげられる。胃に一瞬、不安が走る。


「いや、その……王子様っていうのはちょっと複雑かな。わたし、これでも一応女だし。たしかに女子からはかっこいいとか言われることはあるけど、きれいだとかかわいいだとか言われたこと、一度もないからさ」


「ご、ごめん……」


 反射的に謝る。それでも、わたしにとっての真実はひとつだ。


「でも、茉凜はかっこいいだけじゃなくて、とってもきれいだよ。背が高くてすらりとしていて、モデルさんみたいで。ドレスを纏った時なんて、とてもすてきで魅力的で、どきどきしたもの……。あの時言った言葉は、お世辞なんかじゃない。ほ、本当だから……」


 言葉がつっかえ、必死に繋ぐ。彼女は頬を赤らめ、照れたように視線を逸らした。逃げる角度まで、知っている気がしてしまう。


「ありがとう……。あの時はほんとに魔法をかけられたみたいで嬉しかったよ。ふふ……」


 笑顔が白をやわらかく照らす。緊張がほどけていく。けれど、触れねばならないことがひとつ残る。


 あの舞台の白い光が、いまの明度へ薄く重なった。言葉にしなければ、また逃げ道に戻ってしまう。


「でも、ごめんね……演劇の最後のシーンでのこと……」


 舌が重くなり、声が小さくなる。彼女の表情がかすかに強張り、頬の赤が濃くなる。


「あ、あ、あれ……ね。ははは……」


 笑いの形で、傷口を撫でる。


「もうわかってると思うけれど、あれはメイヴィスとしてじゃなくて、わたしの本当の気持ちだったから……」


 喉がひゅっと鳴る。包み隠さず置いた言葉に、彼女はしどろもどろに、それでも正面から答えた。


「あの時はどうしたらいいかわからなくて、まさかそんなはずないって、思うようにしてた……。でも、今は美鶴の気持ち、よくわかるよ……」


 指先がじんと痺れる。視線が絡み、解けない。やっと伝えられた。どうしようもなく拙くても、今のわたしの精一杯。


 唇を噛み、視線が逃げる。握った手のぬくもりだけが残る。


「茉凜……ありがとう。わたしも、あなたのことが大切で、かけがえのない存在だって、ずっと思っていたから」


 風がそっと通り、目が重なる。言葉よりも多くが視線で行き交う。あふれる想いに喉が震え、わたしは最後の勇気を振り絞った。


「茉凜、わたしは……」


 茉凜の瞳が揺れ、濡れた睫毛の奥で光が強まる。彼女は言葉を待つように、静かに頷いた。


「うん……」


 息を吸う。肺の奥が熱い。


「あなたが……」


 声が上ずる。それでも、彼女は逸らさない。


「あなたのことが……」


 唇が形を作る。音になる前の熱が、口の中で弾けた。


「……すき」


 やっと落ちた音。長く抱えた言葉が自然にこぼれる。


 茉凜の目が大きく見開かれ、みるみるうちに涙が溢れ出した。彼女はくしゃりと顔を歪め、泣き笑いのような声で応える。


「大好きだよ、美鶴……」


「……やっと言えた。ずっと言いたかった……でも、怖かったの……」


 伏せた睫毛が震える。みぞおちが締めつけられ、呼吸が細くなる。


 茉凜が、わたしの頬の濡れを指先でそっと受け止めてから、近いところで息をほどいた。


「わたしもだよ。ずっと伝えたかったんだけど……ごめんね、あなたに辛い思いばかりさせて……」


 短い沈黙。頬を一筋の雫が伝う。愛が深いほど、別れの影も濃い――その予感が冷たく肌を掠めた。


 指先が触れ、絡む。温かい。視線が結び直され、心の距離が近づく。そっと抱き合う。彼女のぬくもりに包まれ、過去も今もひとつに溶けていく。


 けれど、永遠には続かない。抱擁の奥で、静かな疼きがひっそりと息づいていた。


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