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黒髪のグロンダイル 〜黒髪の巫女と雷光の騎士の誠実幻想譚〜   作者: ひさち
第六章 前世回想ダイジェスト編 深淵の黒鶴~柚羽美鶴
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「やっとつかまえた……もう離さないからね……」

 わたしは固まり、視界の端に、ベンチの縁へ置かれた右手だけが残る。左手は膝に添えたまま、硬く閉じた。真っ白いワンピースの裾が座面に吸われ、息が薄くほどけ、冷えが肺の奥へ細く絡む。


 制服のブレザーの袖口が明度の中から一本だけ浮き、短い髪が頬で軽く跳ねた。すぐ隣にいるはずなのに、膝の位置だけがひどく遠く見えた。


「つまらない話かもしれないですけど、聞いてもらえますか? ちょっと愚痴っぽくなるかもしれませんけど……」


 木の冷たさが薄い皮膚に吸い付き、指の血がゆっくり引いていく。


「わたし、以前この場所に似た景色を夢で見たことがあるんです。何度も、何度もです……」


 指腹が木目をなぞる。節でいったん止まり、また浅く滑る。衣擦れの微かな音だけが近い。わたしは前だけを見た。顔は向けない。


「夢が終わる前いつもこのベンチが現れて、そこに髪の長い女の人が座っているんです」


 言葉が落ちるたび、白い世界の奥で、何かが細く軋む気がした。


「その人はずっと、『ごめんね、ごめんね』って……泣いてるんです」


 こわばった輪が、息の震えに合わせてきゅっと縮む。靴先がわずかに寄り、すぐ戻った。その擦過音が、明度の広がりの中で棘みたいに残った。


「その姿を見るたびに胸が苦しくなって……慰めてあげたいって思うんですけど、いつもそこで夢が終わっちゃうんです」


 左肩がわずかに上下する。浅い呼気が肋骨の内側に触れ、冷えを増やす。わたしは明るさを見据え、端の仕草だけを拾った。


「……ごめんなさいね、変な話で。こうして言葉にしてみると、やっぱり現実離れしているなって、自分でも思います」


 膝の上の布が寄って、ほどけて、また寄る。動かない左手の先だけが、静かに震えた。


「……不思議ですよね。夢で見た景色が、こうして現実になってしまうなんて。でも、あなたを見て、なぜだかとても懐かしい気がしたんです。まるで、何度も繰り返してきた記憶の中に、その光景が刻まれているみたいに」


 白がゆるく揺れる。袖口を撫でた冷たさが皮膚の薄いところに沈み、脈の拍を遅らせたり乱したりした。


「わたし、その人のこと、忘れたくないんです」


 右手が左手に重なる。不自由な指先を庇うように、そっと動きを止めた。体温が静かに滲み、指の震えを包む。


「もし、わたしがその人を見つけられたら、きっとその涙を拭ってあげられる気がするから……」


 靴底が床を軽く打つ。とん。薄い振動が膝の上の布へ伝わった。


「あっ、ごめんなさい。別にあなたがその人だって言いたいわけじゃなくて……ただ、誰でもいいから、この話を聞いてほしかっただけなんです」


 茉凜は小さく息をついた。白い明度の中で、その吐息だけがかすかな輪郭を持った。


「悲しい夢でしたけど、そのおかげで、わたし、生まれ変われた気がするんです。その夢がきっかけで、旅先である男の子に出会えましたから」


 膝の上の布が強く押さえ込まれ、そこで止まる。わたしは息を短く止めた。


「柚羽……弓鶴くん、っていう男の子です」


 名が白い空気に触れた瞬間、胸の内側で硬いものが跳ねた。


「彼はわたしと同じくらいの背丈で、ちょっとだけ低いくらい。彼はそれを気にしていたみたいですけど」


 揃えたつま先が触れ、乾いた音が一拍だけ落ちる。


「そんなことはどうでもいいですよね。最初に会った時、顔つきがすごくきれいで、びっくりしたんです。現実にこんなにきれいな人がいるんだって、信じられないくらいでした」


 言い過ぎたと気づいたみたいに、茉凜は息をひとつ詰めた。短い髪が耳に触れ、すぐ離れる。次の言葉は、少し低いところから落ちる。


 白に貼りついた沈黙の間だけが伸び、みぞおちの奥で硬いものが転がった。


「でも……話しかけたら、彼はいきなりぎろっと睨んできたんです。そればかりか、わたしが夢の話をしただけで、急に不機嫌になって、『くだらない』って言ったんです。ひどいですよね?」


 木の縁を小さく叩く音が二度。弱い力でも震えは空気へ移る。背中の筋が細く強張った。


「それから、いろいろ大変でした。事情があって、彼と一緒に暮らすことになったんですけれど、わたしを見るといつも冷たい目をして、口を開けば『道具風情が』なんて言ってきて、もう最悪。ほんと、わたしなんて、どうでもいいのかなって……」


 靴底が床を擦る。色のない白の中で、その音だけがはっきり輪郭を持つ。


「でも……わたしには、わかっちゃったんです。彼がわたしを遠ざけようとしていたのは、いろいろと怖かったんだって……」


 親指が爪を押さえ込み、白くなる。膝の上に小さな影が落ちた。


「だって、彼いつも寂しそうな目をしていたから……。たくさんつらいことがあったんだって、わたしにはわかったんです。ほんとうは悪い人じゃないって、感じたから。だって、そうじゃなかったら、見ず知らずのわたしを助けるために命をかけたりなんてこと、しないですよね……」


 肩先がかすかに上下し、吐息が細く漏れる。胃の内側で、固い輪がゆっくり緩んだ。


「わたし、決めたんです。彼をもっと理解していこうって。『常に行動を共にしろ』って言われてるんだから、仲良くしなきゃ気まずいでしょう?」


 わたしは指先に力を集め、体勢を崩さないようにした。動けば、何かが壊れてしまいそうだった。


「だから、どんなに冷たくされても笑顔でいるって、絶対に諦めないって決めたんです。わたしにできることなんて小さなことばかりかもしれないけれど、それでも彼が少しでも楽になってくれたら……いつか笑顔を見せてくれたら、それでいいって思ったんです」


 右手が左手を包む。強さのない重みが体温を移す。鼓動の間に、静かな安堵が一滴だけ落ちた。


「それから、毎日頑張りました。日に日に彼は変わっていくような気がして……わたしの努力は無駄じゃないって、思えたんです。わたしも彼のことを少しずつ理解できるようになってきて、それが本当に嬉しかった」


 膝の上の布を整え、動きが止まる。白い世界に短い無音が張り付いた。


「弓鶴くんって、本当に素敵な人なんです。もちろん、整った顔立ちはとても魅力的ですけど、それだけじゃなくて……むしろ、それは彼の魅力のほんの一部でしかないんです」


 声の底に、恥ずかしさと誇らしさが混じる。わたしは息の置き場を失い、ただ白い前方だけを見ていた。


「普段は無愛想で口数も少ないんですけど、わたしがくだらない話をしていても、ちゃんと耳を傾けてくれるんです。ある日、わたしがすごく落ち込んでいた時、彼は何も言わずに隣に座ってくれて……ずっと黙ったままで、ほとんど何も話さなかったんですけど、とても安心できたんです。今でもあの時のこと、よく覚えています」


 指が宙に小さな円を描き、消える。その軌跡だけが、かすかな温度で残った。


「それに、弓鶴くんって、意外と世話焼きなんです。わたしが具合が悪くてふらふらしていた時に、無言でラテを作って渡してくれたことがあって……『どうしてわたしの好みを知ってるの?』って聞いたら、『前に言ってただろ』ってそっけなく返されて。でも、そんな些細なことを覚えていてくれたんだって思ったら、すごく嬉しくなっちゃいました」


 親指が人差し指を押し、また離れる。泡みたいな甘い匂いが、記憶の底から立ち上がった。


「あと……わたしが風邪で学校を休んだとき、机の上にノートが置いてあったんです。授業の内容が丁寧にまとめられていて、端っこには小さなイラストまであって……あの無愛想な弓鶴くんが、こんなことまでしてくれたんだって、ちょっと笑っちゃいました」


 小枝を弾くような乾いた音が、一拍だけ響く。


「『氷の王子様』なんて呼ばれることもあるけれど、本当はそんなに冷たい人じゃないんです。急に夕立が降ってきて、わたしが折りたたみ傘を忘れてしまったときも、黙って自分の傘を差し出してくれて……肩がびしょびしょになってるのに『大丈夫だ』って、少し照れくさそうに笑ったんです。普段は無表情な彼が、あの時見せた笑顔が本当に可愛くて……ちょっとドキッとしてしまいました。こんなこと彼に聞かれたら怒られちゃうかもしれませんけど」


 右手が強く握られ、関節の白が浮く。濡れた肩の冷たさまで思い出したみたいに、空気がひやりと肌を撫でた。


「それから、わたしが作ったお弁当を、毎回ちゃんと食べてくれるんです。味付けが濃すぎた日があって、ちょっと心配だったんですけど、『こういうのも悪くない』って言ってくれて……お世辞じゃなくて、本当に思ったことをそのまま言ってくれたんだって感じられて、すごく嬉しかったです」


 舌裏に残る塩気の記憶が、一瞬だけ甘さに変わった。


「わたしたちは、ただの友達なのかもしれないけれど、それでも弓鶴くんのそばにいられることが幸せなんです。誰にでも見せるわけじゃない彼の一面を、わたしだけが知っているような気がして……気づいたら、支えてあげたいとか、もっと特別な存在になりたいって思うようになっていました。それが、わたしの本当の気持ちだったんだって、やっとわかったんです」


 膝の上の布をつまむ動きが、細く震える。肋骨の奥で、長い糸がほどけ始める音がした。


「それから、いろいろなことがあって大変でした。でも、わたしは彼とずっと一緒にいたいから頑張りました。弓鶴くんにかけられた呪いを解いて、彼を自由にしてあげたくて、彼と一緒にその先の未来を見てみたくて……」


 肩が上下し、細い吐息が漏れる。指先の温度が、かすかに戻ってきた。


「そうして……呪いを解くために、わたしたちは『始まりの回廊』という場所に行きました。これでやっと彼は解放される、って、そう思ったんです。でも……そこで、わたしはすべてを知ってしまったんです……」


 右手は動かず、握りが固まる。内側で何かが静かに軋んだ。


「……彼が『彼』じゃなかったってことを……」


 声の震えが鼓膜に深く刺さる。白い空気が薄く動くたび、沈黙が厚みを増し、間の温度が落ちていった。


「どう説明したらいいのか、うまく言えませんけど……わたしがずっとそばで見てきた彼も、わたしを見つめ返してきた彼も……ほんとうは、女の子だったんです」


 時間が止まる。埋めてきた真実が強引に引き上げられ、呼吸が詰まった。わたしは硬直したまま、動けない。


「彼が持っていた記憶。全部ではないけれど、わたしに流れ込んできて……それで、わかってしまいました。おかしいと思われるかもしれないけれど、ほんとうのことなんです」


 胃の裏側をかき乱す響き。返事は沈黙に取られる。


「彼が、いえ、彼女がわたしをどんなふうに見ていたのか、どんなことを考えていたのか、少しだけわかった気がします。でも、どうして何も言ってくれなかったの? って、とても胸が苦しくなりました……」


 喉が塞がり、言葉が絡む。声はほどけず、形にならない。


「……わたし、会いたいです。弓鶴くんの中から、わたしのことをずっと見守ってくれていた彼女に……」


 切なく響く声が静寂を震わせる。脈が乱れ、両腕の強張りが増した。


 白の中で、わたしの靴底がすう、とわずかに擦れた。茉凜は呼吸の拍を崩さず、返事を待つ間だけを長く置く。逃げ道を探すみたいに、足先だけが勝手に動いてしまう。


「……もしかして、あなたが美鶴さんなの?」


 名が空気を震わせた刹那、心臓が跳ねた。覚悟していたはずなのに、声そのものに貫かれ、身体はさらに固まる。


 ――お願い、もうやめて……。これ以上近づかないで。このまま、そっと消えて……。


 願いは散るばかりだった。彼女の瞳は意志を宿し、わたしを捉えて離さない。その視線に射抜かれ、みぞおちの底で重い痛みが走る。逃げ場は最初からなかった。沈黙の深さが、それを告げていた。


 ――やめて、おねがい……。


 繰り返しても答えは同じ。まっすぐな眼差しが、わたしを縫いつける。冷たく、熱い。どちらにも逃げられない。彼女の瞳に映るわたしは、氷で彫られた人形みたいに見える。そう思った瞬間、目がひりついた。


 茉凜はじっと見つめていた。逸らしたい衝動に抗い、わたしは視線を絡めたまま固まっていた。言葉はなく、静かな間だけが流れる。


 やがて、彼女は小さく息を吐いた。


「ああ、もうやめた……」


 その一言で、肋骨の裏が揺れた。安堵が一滴こぼれた次の瞬間、彼女は予想を裏切る。


 照れ笑いの気配が声に混じった。


「わたし、こういうまわりくどいのって苦手なんだよね。だから、もうやめ。ここからはマジでいくからね」


 声が、わたしの知っている彼女に戻る。真剣さが熱を帯び、息の奥の硬さを少しずつ溶かした。


「美鶴さん。いや、美鶴?」


 名の響きが白い空気を裂き、掌の木目が痛いほど浮き出て、息が喉で絡んだ。


 返事のために唇を開いたはずなのに、音が出ない。右手だけがベンチの縁に残り、爪の先で硬さを確かめるように掴んでいた。


 ――お願い。その名前で呼ばないで。


 逃げたいのに、白い明るさには影がない。茉凜の視線だけが、わたしの輪郭を固定していく。


「わたしのこと、怖い?」


 言葉の端は柔らかいのに、目だけが鋲のように動かず刺さり、膝の布がきしんだ。


 怖い。そう言えば楽になるはずだった。けれど怖いのは彼女じゃない。わたしが自分に掛けた鎖だ。ほどける気配がするだけで、足元が崩れるような気がした。


 喉の奥が詰まり、息が浅くなる。頷けないまま、なのに見返してしまう。視線を絡めた途端、みぞおちの底がひやりと重く沈んだ。


「ふ……」


 吐息が笑いに化け、ブレザーの襟がかすかに擦れて、白がゆるく揺れた。


 その笑いは嘲りじゃなく、困ったみたいな諦めに近い。茉凜は少しだけ眉を下げ、わたしの沈黙を掌で受け止めるみたいに待った。


「もう、しょうがないな」


 手元がため息みたいに緩み、木の冷えがようやく皮膚から剥がれた。


 次の瞬間、彼女が距離を詰めてくる。逃げる間合いはないのに、拒むより先に、体の奥が勝手に寄っていこうとする。


 布が擦れる音が近い。腕の重みが落ちてくる前に、茉凜の髪がこめかみをかすめ、ほのかな甘い匂いが鼻腔に満ちた。


 背に触れた手は強引じゃない。押さえつけるのではなく、落ちていくのを止めるみたいに、そっと支えるだけだった。白い世界の中で、彼女の体温だけが輪郭を持っている。


「やっとつかまえたよ……もう離さないからね……」


 抱き寄せられた瞬間、髪の香りが近すぎて、視界が白く滲み、鼓動が遅れて届いた。


 泣くつもりなんてなかったのに、熱いものが肌を滑っていく。触れた感触がひどく現実的で、恥ずかしい。


 ――こんなもので、ほどけるものじゃ、ない。


 そう思ったのに、ほどけてしまう。わたしの腕はまだ固いままなのに、指だけが迷いながら、彼女の背の布をつまんだ。離れないための、たったそれだけ。


「わたしはちゃんとここにいるよ。あなたのこと、もうちゃんと見えてるんだから……なにも怖がることなんてないよ」


 熱い筋が袖に吸われ、彼女の声だけが耳の奥で丸く残り、息がほどけた。

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