やっと会えたのに、やっと捕まえたのに
頬を撫でたのは風というより、風の記憶だった。
果てのない真っ白な明度の底で、わたしたちはベンチに並んで座り、過ぎ去った日々のことを、ゆっくりと語り合っていた。
重なった記憶は途切れないのに、ところどころに、互いの知らない隙間が残っていた。そこへ些細な思い出がひとつずつ浮かび、白い光の奥へ溶けていく。
白いワンピースの裾が静かな光に溶け、茉凜の着る制服のブレザーだけが、この白い世界でたった一本の輪郭を引いている。布の擦れる音が、やけに近い。
茉凜は、わたしのふとした仕草や声の調子から、弓鶴ではない「美鶴」を見つけてくれていたのだという。言い当てられるほど、息が細くなるのに、逃げたいより先に安堵が落ちた。
演劇の出演依頼を受けた時、茉凜に言われた言葉を思い出す。
『だって、わたしは弓鶴くんが持っている、ほんとうの輝きを知ってるからね』
つまりは、そういうことだったのだ。どんなに器用に演じて見せているつもりでも、人の本質は変わらない。隠すほどに、別のところから滲む。
そして、佐藤さんが陰ながら彼女を応援してくれていたことも、ここで初めて知った。あのお弁当作りを提案したのも、実は佐藤さんだったらしい。
白い空気の底で、言葉だけが遅れて返ってくる。
わたしの好物や、慣れ親しんだ味付けを、茉凜へこっそり教えてくれていたのだという。思い出の匂いが、いまさらのように鼻腔へ立ち上がった。
ひとつ聞くたび、凍てついていた内側へ静かに灯りが落ち、強張っていたものが少しずつ甘くほどけていく。
茉凜の膝枕が、なぜあんなにも心地よかったのか。理由を口にすると、泣きたくなるような笑顔が蘇る。髪を撫でる指先の温もりが、頭皮から静かに沁みていった。
わたしはきっと、彼女のぬくもりに触れることを、ずっと言葉にしないまま望んでいたのだ。白の底に座るだけで、ほどけていくものがあった。
好きな人に膝枕をしてもらうのは、男の人の夢のひとつだと聞いたことがある。わたしは女なのに、なぜだろうか。憧れではなく、もっと深く、切実な意味だった。
彼女の膝の上は、わたしがずっと探していた、ただひとつの安息の場所だった。木の冷えが遠のき、布の重さがやさしく現実を引き留める。
時折、茉凜の姿を「かっこいい」と思ってしまった時の、わたしの奇妙な反応。そのたびに息の置き場が薄くなり、落ち着かないものが袖口の内側を走った。
もともと百五十センチそこそこの背丈だったわたしには、すらりとした彼女の立ち姿が羨望の的だったのかもしれない。特にドレスを纏って戦うときの、優美で力強い身のこなしは女神めいて、視線を外せなかった。
けれど、彼女の本当の魅力はそこではない。困難に対して、楽しむかのように前へ出る、そのしなやかな心の運びだ。
導くべき立場のはずが、気づけばいつも手を引かれていたのはわたしのほうだった。隣にいると、重い鎧を脱いだように呼吸が楽になる瞬間が何度もあった。
茉凜は、初めて会った時からわたしに違和感を抱いていたという。当然だ。わたしは「男らしさ」という仮面で自分を守り、誰かに弱さを見透かされることを極端に恐れていたのだから。
中学時代の弓鶴は、もっと温かく人当たりが良かったと灯子が言っていた。その優しさの裏には、叔父様譲りの芯も通っていたのだろう。わたしが必死で作り上げた「男らしさ」とは、まったく別のものだったのだ。
それでも茉凜は、わたしの背伸びの痛みを見抜きながら、ありのままを受け入れてくれた。その眼差しの優しさに救われていたのに、気づくまでにどれほど時間を要しただろう。
白い明度の中を低く渡る風の気配が、胃の腑にへばりついていた過去の硬さを、また少しほどく。
こうして心から分かり合えたことが、何よりも嬉しかった。
絡めた温度が指先までじんわり伝わり、視線が重なるたび、言葉より先に気持ちがあふれた。何度も目が合い、そのたびに、どちらからともなく唇が重なる。
吐息が触れ合うたび、甘い時間がやわらかく伸びていく。白の底にだけ、音が沈む。
けれど、その一歩先には踏み出せない照れくささがあった。それでよかった。大切に思うからこそ、今はただ、この静かな甘さに身を浸していたい。
ブレザーの襟がかすかに擦れ、茉凜の呟きが白い空気にほどけて、ひと筋だけ冷えた。
「ずっとここで、こうしていたいな……この時間が永遠に続くといい……」
絡めたすき間を涼しさが抜け、袖口の内側に小さな熱だけが残った。
「そうね。わたしも……そう願わずにはいられないわ……」
返した声が白に吸われ、遠い反響が足元の木目へ沈んでいった。
そう言いながら、わたしはそっと茉凜の手を握った。伝わる熱を、どうしても手放したくない。
次の言葉のために舌裏が乾き、息の端がきしむのがわかった。
「でも、それはどうあっても無理なのよ。わたしたちがどれだけ望んでも、この世界はいつか消えてしまう」
茉凜の指が一度だけ震え、爪の縁が白く浮いてほどけなかった。
「消えるって、どうして?」
白い裾が重く沈み、肋の裏へ冷えた氷柱がひとつ落ち、息が詰まる。
「わたしが思うに、たぶんここは再生されたデルワーズの中。すなわち精霊子によって形作られた世界……」
笑いの形になり損ねた息が短くひっかかり、喉の奥で白く凍った。
「えっ、うそ! それマジ?」
軽さの端が折れ、声の芯だけが白に置き去りになって戻ってこない。
「もともとデルワーズは、肉体を持たない精霊子の集合体みたいなものだった。この世界に来て分解してしまったそれが、弓鶴を器にして集め直され、再生されたの。……この果てない白い世界は、精霊子の海みたいなものなのかもしれない」
言葉の終わりが白へ溶け、沈黙だけが濃く降り積もって息を塞いだ。
茉凜は口を固く結び、短い髪が頬に触れて離れる。納得しきれない時の癖が、はっきりとそこに出た。
呼吸の間に、制服の布がきゅ、と鳴って、空気に棘が残った。
「よくわからないけど……つまり、ここは幻だってこと? うそみたい。だって触れられる。美鶴の匂いだって温もりだってわかるもん」
白の底で触れられる現実だけが残酷に輪郭を持ち、握りがほどけない。
「一つだけ確かなことは、柚羽美鶴という人間の肉体は、既に砕け散ってしまっているということ。意識がここに存在するということは、つまりそういうことよ。……これでわかるでしょう?」
言い切った瞬間、座面の冷たさが腿裏へ戻り、背の筋が硬くなる。
「じゃあ、儀式が終わったら?」
握りが少しだけ強くなり、熱が逃げ道を探して掌の内に滲んだ。
「デルワーズが元いた異世界へ還ったら、跡形もなく消え去るでしょうね。……所詮は仮初にすぎないのだから」
声がかすれ、白い空気が喉の奥へ刺さって、息が戻りきらない。
「……わたしに帰る場所はない。今頃、弓鶴の身体には、精霊子に囚われていた本来の彼の魂が戻っているはずだから――」
重なった掌の汗が現実味だけを増やし、離す口実をひとつずつ奪った。
「そして茉凜、あなたも戻らなきゃいけない。いつまでもここにいてはいけないのよ」
言葉が落ちたあと、白がひと呼吸ぶん黙って、音の居場所が消えた。
「……そんなの、いやだ」
吐息が濁り、肩先がひとつ落ちて、ブレザーの布が重く鳴った。
「茉凜……」
名を呼ぶだけで喉がひりつき、声の出どころがさらに遠のいていく。
「やっと会えたのよ。夢の中でずっと泣いていた、ほんとうのあなたに。やっと捕まえられたのよ。なのに……」
明度が一段だけ冷え、影のない場所に影ができた気がして背が震える。
「ありがとう、茉凜。本当に……でもね――」
言葉の端が震え、白い静けさがそれを拾ってそっと返した。
「このままここに留まっていたら、あなたの魂も、人格も、記憶も、そのすべてがデルワーズという器に囚われてしまう。それは、弓鶴みたいに……」
返事にならない音が布の奥でつぶれ、呼吸だけが白に散っていった。
「そんな」
短い一音が空気の薄い刃になり、頬の上を冷たくなぞっていった。
「そうなったら、現実に生きているあなたの身体は、ただの抜け殻になってしまう。だからここにいてはだめ……」
白の底で、わたしの声だけがやけに遠く、音だけが迷子になった。
「わたし、ここにいたい。美鶴とずっと一緒にいたい……」
幼い願いが同じ重さの罪悪感を呼び寄せ、胃の底が冷えて沈んだ。
「いいえ。ここであなたとはお別れよ……」
冷たい響きが自分の胃の底にも深く刺さり、息が止まりかけた。
「やだ……そんなの……いや……絶対にいやぁ……!」
叫びが白を震わせ、熱が一気に押し寄せ、鼓動の乱れだけが互いの距離を告げた。
このまま強く抱きしめてしまえたら、どれほど楽だろう。けれど、できない。守りたいと思いながら、結局わたしは彼女を一番苦しめている。
沈黙の中、風のようなものだけが頬を撫でていった。呼吸の乱れが、白い静けさの中でやけに大きく響く。
茉凜は深く俯き、髪に隠れた横顔から、ぽつりと熱い滴をこぼす。肩が激しく上下し、わたしの手を硬く握りしめたまま、決して離そうとしなかった。




