冬の気配と遠い春
時間は重く垂れ、わたしは屋敷で待つだけになった。動けば軋む腰と脚、ベッドの金属枠は手のひとひらに冷たい。休むほどに、時間が敵になる。止まることが、進行の証明になっていく。
そのあいだに、新城医師と専門医が押し寄せ、可搬の機器が次々運び込まれた。モニターの緑の線が静かに走り、消毒液の匂いが鼻に刺さる。機器が床へ置かれるたび、木が軋む小さな音がして、屋敷の古さが妙に優しい。
結果は「今のところ生命の危険は直接にはない」。安堵よりも空洞が残る。「今のところ」は、空気の隙間に置かれた薄い札みたいだ。腰椎の神経圧迫、下肢への痛みと麻痺――聞くそばから、脚の奥が鈍く呻いた。
脳に結晶体は見えない、と新城医師が首を傾げる。理由は、たぶん分かっている。黒鶴を使い続けるために、器として必要な中枢だけがぎりぎり保たれているのだろう――生かされている、というより、使い残されている。苦く笑い、唇の内側が硬くなる。
沈黙が戻る。進まない日々に、壊れていく感覚だけが積もる。それでも、ここで終われないという芯は微かに残り、脈がかすかに速くなる。
歩行は難しくなり、車椅子が日常になる。ブレーキの小さなクリックが、現実の印に聞こえた。握るたびに、指先に残る金属の冷えが長い。
山奥の柚羽邸まで辿り着けるのか――想像するだけで、みぞおちがざわつく。あの場所で受け止めるはずの秘密と運命。今の体で、どうやって触れられるのだろう。
それでも諦めたくない。そこに行けば、奪われたものへ手が届く。わたしもやっと消えていける――そう願うたび、肋骨の内側が冷たく軋む。生きたいのか、消えたいのか。どちらも同じ重さで、内側に残る。
茉凜は太陽のように笑い、アキラは軽口で空気を揺らす。二人の温度が肌に残る間は呼吸が楽になるが、部屋へ戻れば、壁紙の静けさがすぐに増殖の気配で満たされる。夜気の湿りが膝まで這い上がった。
サポートチーム天は柚羽邸跡へ接近し、ドローンで何度も偵察を重ねている。映像の砂ノイズが、山の冷えをそのまま運んでくるようだった。潜入路は少なく、木々は濡れた皮膚のように光る。
虎洞寺の叔父上は帰らない。連絡もない。けれど、きっと動いている。上帳を揺さぶり、反対派に条件を差し出し、静かに切り崩しているはずだ。少数の推進派にも、独自の水脈で手を伸ばしているだろう。前に立って剣を振るうより、影の場所で網を締めるほうが、よほど痛い戦いだ。叔父上はそれを選ぶ人だ。
みな、悲願の解呪のために動いている。感謝は重い。同じ重さで、責任が鎖のように肩へ落ちる。今のわたしは待つしかない。それでも、指先の白みを見つめ、息を細く整える。待つことは逃げじゃない、と言い聞かせながら。
車椅子の輪が床に小さな弧を残し、夜の湿気が足首にまとわりついた。
◇◇◇
曽良木の襲撃から、二週間が過ぎようとしていた。冬の気配が庭を支配し、裸木が鳴るたび頬を撫でた風の冷えが背筋へ沁みる。茉凜が車椅子の取っ手をそっと握り、虎洞寺邸の庭を進んでいく。
正門脇の外柵は裂かれたまま、沈黙だけが残る。手つかずの庭は消えかけの灯のようで、乾いた土の匂いに鼻腔が淡く痺れた。
茉凜は静かに微笑むが、袖口をきゅっとつまむ指先が揺れる。葉を失った枝の擦れる音が鼓膜を薄く鳴らした。
「庭でもぶらつけば、少しは気が晴れるかと思ったが――」
わたしはつぶやいた。
「――この有様では、逆に心が重くなるな」
乾いた葉が風に裂け、胃の腑がざわつく。
「それでも――」
背から落ちる吐息が白くほどける。
「――春はまた来るんだから、ね? 冬が終われば、ちゃんと桜が咲くよ。弓鶴くんも一緒に、お花見しよ」
「そうだな……車椅子でも行ける場所なら、な」
冬陽が石畳に薄く滲み、遠い春だけが掌からこぼれる。
「行けるよ。探す。坂が少ないとことか、ベンチが多いとことか。たしか石御台公園にも桜の木があったはず」
嬉しそうな声の端が、ほんの少しだけ震えた。風が梢を鳴らし、胸の下が静かに締まる。
「春だけじゃないよ。来年はきっと、もっと楽しいことがたくさん待ってる。あ、そうだ……その前にクリスマスもあるんだった」
「クリスマスか」
「うん。イルミネーションも見たいし、プレゼント交換もしたい。またみんなで集まってやろうよ」
振り返る瞳が光を返し、まぶしさに瞬きを落とした。幼い言葉の端々が、いまは痛いほどありがたい。
「何か欲しいものはあるか?」
手袋の縫い目が掌に当たり、温度が少し戻る。
「えーっ、わたしは別にいいよ。誕生日にいっぱいもらったし。それより……」
彼女の声が一段だけ小さくなる。乾いた土の匂いに混じって、指先の冷えが戻ってくる。
「弓鶴くん、最近……無理してない?」
「いや……大丈夫だ。少し疲れてるだけさ」
「ほんと?」
問い返す声が優しいほど、喉の奥が詰まる。
「だって、なんか……我慢してるみたいに見える。わたし、弓鶴くんの力になれるなら、なんだってするよ。できることがあるなら――」
言葉の途中で、息がひとつ揺れた。わたしの内側へ、柔らかい刃が沈む。
「そうか。じゃあ、できたら、その……」
無防備に舌が動いて、遅れて背筋が冷えた。言ってはいけない、と分かっているのに。
『なんだって』が怖い。叶ってしまう気がする。喉の奥が熱くなり、息だけが先に細くなる。助けて、ではなく――もっと小さく、もっと身勝手なもの。
それを口にした瞬間、戻れなくなる。茉凜の前で、生きてしまう。
指先が車椅子の縁を探り、冷えた金属に触れて止まった。白くなるほど握っても、形にならない言葉だけが舌に張りつく。
「……ん? なに?」
言いかけの唇が震え、視線が庭の隅へ逸れた。受け取ってしまえば、返せなくなる。そう思った瞬間、舌が重くなる。
「ううん……なんでもない。気にしないでくれ」
嘘が薄く浮く。茉凜は笑ってみせるが、袖口をつまむ指だけがほどけない。
◇◇◇
その夜、叔父上が屋敷に戻った。襟元に微かな薬品の匂い、目の下の影は浅く長い。執務室の灯は低く、紙の擦れる音が静かに続いている。扉が閉まった瞬間、外の冷えが一段だけ遠のいた。
「長い間家を空けてしまったようで、すまなかったね」
声はいつもより低く、室内の空気がひとつ沈む。視線は真っ直ぐなのに、焦点だけが少しだけ遠い。
「お帰りなさい、叔父様」
「状況については把握している。よく屋敷を、お客様たちを守ってくれた。感謝しているよ」
叔父上の手が茶器に触れる寸前で止まり、指先だけが静かに硬くなった。湯気の匂いが甘いほど、みぞおちが冷える。守ってくれたと言いながら、守り切れなかったものを数えている目だった。
「いいえ、当然のことをしたまでです」
「皆も、よく集まってくれた」
視線が一人ずつを撫で、言葉が節で区切られる。呼吸を整えるみたいに、間が置かれる。
「いよいよ――悲願成就のために動き出す時が来た」
脈が一度強く跳ね、指先に血が戻る。
「最後の正念場だ。これまでの苦難と努力が、この瞬間に結実する。皆の力を結集して、共に進もう。長きに渡り血族を縛り付けてきた呪いに終止符を打ち、未来を切り拓くために」
わたしは小さく「はい」と答えた。湯気の立つ茶の香りが、冷えた肺に柔らかく広がる。
「よっしゃ!」
アキラが拳を握り、言葉を弾ませる。椅子の脚が床をかすめ、乾いた音がひとつ跳ねた。
「やりましょう」
洸人は眼鏡の奥で静かに頷き、言葉だけを丁寧に置いた。
閉ざされた屋敷に、光が一筋落ちる気配がした。
「ありがとう。君たちには危険な任務を背負わせることになるが、できる限りのサポートはする。すぐにでも作戦会議に――」
危険な任務。その言葉のあと、叔父上の視線がほんの一瞬だけ伏せられた。誰にも見せない場所で、何かを飲み込むみたいに。前に立ちたい人が、あえて後ろに立つ時の沈黙だった。
「叔父様?」
「何かね?」
「長いお勤めでお疲れでしょう。せっかく屋敷に戻られたのですから、まずは少しお休みになられてはいかがですか」
茉凜が隣にいるから、言葉は丁寧になる。本当は、もっとまっすぐに言いたかった――叔父上こそ、誰より休んでほしい、と。
膝の上で指が絡まり、布の感触が爪に触れる。お願いの形をした、わたしの罪滅ぼしだった。あなたがどれだけ削ってきたかを知っているのに、代わりに背負えない。それが悔しい。
「君という『子』は……いや、わかった。お言葉に甘えて、そうさせてもらうとするよ」
言いかけた言葉の先が、湯気の向こうで揺れる。叔父上の視線が一瞬だけ落ちて、戻ってくるまでの間が長い。
それでも、わたしは頷くしかない。ここで「無理をしないで」と重ねれば、あなたの決意を否定してしまいそうで。
「ではごゆっくり。また後ほど……」
声の端が少しだけ震えたのを、茉凜に気づかれないように息を整える。廊下へ出る一歩が、やけに重い。
扉を閉じると、廊下の床板が小さく軋んだ。その音が、叔父上の背の重さだけを残していく。
◇◇◇
廊下を進むと、アキラが肩を並べる。靴底が敷居を越える音が短く切れた。
「虎洞寺のおっさん、いったい今までどこほっつき歩いてたんだよ。茉凜の誕生日にも来ないしさ。あたし、ほんと意味わかんない」
古傷がわずかに疼く。わたしたちの知らぬ重さは、想像の外にある。影の戦いは、いつも説明が遅れる。
「叔父上は、無資格者たち――郭外を背負い、組織を拡大し続けてここまでの財力を築き上げた。それは何も私利私欲のためではない。搾取され、虐げられてきた人々のためだ。静かに網を広げ、純粋な力では敵わぬ相手に『経済的依存』という鎖で対抗してきた……それこそが叔父上の繰り広げてきた戦いの正体だ」
叔父上の不在は、ただ帰れなかったというだけではなかったのだ。あの人はずっと、奪われたものを奪い返す代わりに、奪われる側が二度と同じ場所へ落ちないよう、見えない地盤を作っていた。
『郭外』の二文字が喉に刺さり、廊下がひやりと遠のく。壁紙の模様が一瞬だけ滲み、息が薄くなる。
「へえ……だから『虎洞寺の狸』って呼ばれてんのか。ああいうの、嫌いじゃないけどさ。しんどい生き方だよね」
「大人には大人にしかできないことがある。その分だけ、抱える責任の重さもな……」
アキラは小さく頷いた。灯の影が頬を浅く走る。頷きの奥に、怒りと諦めが同居している。
茉凜が問いかける。
「こんなこと言ったら失礼かもしれないけど、虎洞寺さんって、どうして独身なの?」
呼気が白くほどけ、指の白みがゆっくり戻る。
「……叔父上には、その昔婚約者がいた。でも……」
「うん……」
「……上帳のある家に、略奪された」
「ええっ……!? そんなの、許されるの……?」
茉凜の瞳が見開かれ、視線が落ちる。頬の皮膚が薄く粟立った。
「ひどすぎる……」
「よくある話さ。『そこのいい女が気に入った。うちに寄越せ』ってね。まるで所有物みたいに、気持ち悪いったらありゃしない。ほら、曽良木が言ってたろ? 力こそがすべて、だって。力のない者は逆らうことすら許されない。それが深淵の血族……いや、上帳が支配する世界の現実さ。圧倒的で無慈悲な、ね」
「そんなの、絶対におかしいよ。人を物みたいに……」
茉凜の声が震えた。冬の空気が冷たいのに、喉の奥だけが熱を帯びる。
「そんなくだらない腐った仕組み、ぶっ壊してやりたくなるのは当然だろ?」
アキラの淡々とした声が、冷たい廊下で短く反響する。
断ち切られた側が、それでも生き続けている。廊下の壁が、急に遠くなる気がした。喉の奥で、何かが固まって動かない。
「アキラの言う通りだ。叔父上はそれからずっと独り身を通してこられた。想いというものは、それほどまでに断ち切り難いものなのさ……」
「……そうだね……」
茉凜の睫が震え、冬の光が細く揺れた。
「だが、復讐は何も生み出さない。むしろその連鎖と拡大の果てに今の体制があるのだと、叔父上は痛いほど理解しておられる。憎しみに呑まれれば、血族の呪いに絡め取られるだけだと……。そんな折、俺の両親が俺の行く末を案じ、叔父上のもとを訪ねた。それが契機となった。そこで叔父上は初めて、呪いを断ち切ることこそが希望なのだと……そう、悟られたのだ」
「そっか……だから、みんなで頑張ってるんだね」
言葉の温度が少し上がり、呼吸が楽になる。楽になったぶん、足もとの冷えが濃くなる。希望という言葉の下には、いつも誰かの沈黙が敷かれている気がした。
「わたし、わかった気がする。虎洞寺さんや、弓鶴くんのご両親が願っていたことが……」
「そうだな……だからこそ、俺たちが頑張らなきゃならない。『力こそがすべて』なんて言葉が通る世界を、ここで終わらせるために……」
「うん。わたしも頑張る。絶対に、呪いを解いてみせる!」
まっすぐな眩しさに耐えきれず、視線を落とす。眩しさがあるほど、いつか嘘をつく自分が見える。
廊下の奥で、誰かの閉めた扉が小さく鳴った。その音に、胸の奥で何かが決まってしまう。
わたしは、どこまで酷いのだろう。
――茉凜、ごめんね。あなたの想いも、灯してくれた希望も、ここまで積み上げてきたなにもかもすべてを、わたしは壊そうとしている。
喉の奥が、ひりついた。




