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黒髪のグロンダイル 〜黒髪の巫女と雷光の騎士の誠実幻想譚〜   作者: ひさち
第六章 前世回想ダイジェスト編 深淵の黒鶴~柚羽美鶴
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だからこそ、わたしは彼女に嘘をつく

 薄闇の天井を見上げる。梁の影がぼやけて滲み、まぶたの裏へゆっくり沈んでいく。腕の点滴が冷えを返し、滴の音が規則正しく意識を沈めていった。鎮痛薬の静けさの底で、受容結晶体が身を蝕むのを知っている。知らないふりだけが、いちばん苦しい。


 洸人に抱えられて戻った道すがらの記憶は、曖昧に欠けていた。茉凜や招待客の安否を思っても、霧に手を伸ばすように空を切るばかりだ。声も匂いも、輪郭だけが残って触れられない。


 ノック。


 扉が静かに開き、茉凜が入ってくる。足音は軽いのに、部屋の空気が少しだけ変わるのが分かった。布団は重く、顔を隠す力も出ない。置き去りにして黒鶴を発動した過ち。言えなかった危険。叱責を願う自分がいる。怒られさえすれば、痛みに形がつく。形がつけば、耐えられる。


 消毒液と柔軟剤の匂いが薄く混じり、喉の奥がじんわり熱を持つ。カーテンの影が壁に揺れて、点滴の管の影が少しだけ濃い。


「弓鶴くん、ありがとうね……」


 感謝。


 身体が硬直し、息が止まる。どうして、の言葉が喉でほどけて消えた。叱ってほしかったのに。肯定を渡されると、謝罪の居場所がなくなる。逃げ道が塞がれて、罪悪感だけが床に落ちないまま残る。


 カーテンの裾が床を撫で、微かな擦過音だけが室内に落ちる。茉凜はそれを気にするように一度だけ視線を流し、またわたしへ戻した。


「……わたしのために、守ろうとしてくれたんだよね? きれいなドレスや、みんなの笑顔……まるでシンデレラの魔法みたいだったもんね。あなたは、あの素敵な時間を壊されたくなかったんでしょ?」


 見透かされる。言えなかった願いを、そのまま掬われる。わたしの中に隠していた卑怯な欲を、彼女は責めずに触れてしまう。


 みぞおちがひとつ沈み、口の中が乾く。謝罪の形しか残らない。


「馬鹿なことして、ごめん……」


「謝ることじゃないよ。結果オーライだしね。お祝いに来てくれたみんなも無事だったし」


 声が少し明るくなって、枕元の空気がわずかに緩む。


「あ……藤堂さんがさ、『近くで地滑りがあって、正門が壊れた』とか言ってんの。どう見たって言い訳になってないし、逆にウケちゃったよ」


 笑うように言って、けれど目尻は笑っていなかった。軽く転がす声の下で、触れないままの事実だけが残る。守れたことと、壊したこと。その両方を、茉凜は同じ手で包んでいる。


 左の指が微かに震え、毛布の縁が音もなく寄ってくる気がした。布の重さが、逃げたい気持ちを押さえつける。


「……俺に、言いたいことがあるんじゃないのか?」


 問いかけると、茉凜は視線を落とし、膝の上で指を組み直した。迷うように口を開き、閉じ、もう一度開く。言葉の前に、息がひとつ揺れる。


「……新城先生から、いろいろ聞かされたよ――」


 毛布の縁が頬に触れ、失った体温が少しだけ戻る。頬に触れたそれは布なのに、なぜか彼女の手の温度を思い出す。


「信じられなかった。……ほんとに、最初は冗談かと思った。あんなの、マンガとかドラマの話じゃん、って。でも先生の顔が……ぜんぜん笑ってなくて」


 声の端が震えて、途切れた。呼吸をひとつ入れて、茉凜は続ける。


「もう、わけがわかんなくなった。なにが現実で、なにが嘘なのか……」


 点滴の管がわずかに震え、滴が一拍だけ遅れた気がした。わたしは天井を見つめたまま答える。彼女の目を見れば、また逃げ道を探してしまうから。


「紛れもない事実だ。今、俺の身体の中で、『それ』は着実に増殖し、大きくなっている……」


「ぜんぶ、黒鶴のせいなの……?」


「そうだ……」


 そう答えるしかなかった。黒鶴そのものが悪なのではない。けれど、黒鶴を使うたび、精霊子の流れは太くなり、受け止める器はさらに拡がろうとする。そのたび、身体の内側では、白い異物が静かに根を伸ばしていく。


 短い沈黙。茉凜の指が、膝の上の布を掴んでいるのが気配で分かった。


「『それ』って……取り出すとか、手術みたいなことは、できないの?」


 薬の苦みが舌に残り、呼吸が細くなる。喉を通る空気が、薄く冷たい。


「摘出すれば、それだけ精霊子の器としての容量が減少する。根源の再生のためには、それだけはどうしても避けたい。……だいたい、多すぎて取り切れるものじゃない」


 言ってから、喉の奥がひりついた。取り出せる塊なら、どれほど楽だっただろう。受容結晶体は身体の奥に点在し、器の働きそのものへ絡みついている。たとえ一部を取り除いて痛みが一時的に和らいだとしても、そのぶん精霊子を集める容量は削られてしまう。根源を再生させるために必要な器を、自分の手で小さくすることになるのだ。


 だから、取り除くより先に、身体が保つうちに解呪へたどり着くしかない。


「じゃあ……どうすればいいの。どうすれば、弓鶴くんは……」


 語尾が宙に浮いたまま落ちなかった。窓の向こうの冷えが、肌の上をなぞったような錯覚を覚え、室内の空気が硬くなる。夜気の存在だけが、ここが安全ではないことを思い出させる。


「深淵の呪いを解くしかあるまい。それさえ叶えば、受容結晶体は消滅する。そのためには茉凜の力が是が非でも必要になるが……」


 言葉の尾が曇る。重さを、彼女の肩へ置きたくなかった。けれど置かずに済むほど、状況は優しくない。


 廊下の時計がひとつ刻み、静けさの面に薄い波紋が走った。


「問題があるとすれば、曽良木の去り際の言葉だ。根源の再生のためには始まりの回廊と呼ばれる場所まで赴かなければならない。だが、おそらくその周辺、柚羽家の屋敷があった場所は、解呪を阻止しようとする強硬派の連中に占拠されているに違いない……」


 言い切った瞬間、喉の奥が擦れた。唾を飲み込む音だけが自分の耳に大きく響き、針の刺さる腕が遅れて疼く。


「……そういえば、そんなこと言ってたね」


 茉凜の声は軽く寄せたはずなのに、指先は布を握ったまま離れない。ほどけない力が、膝の上に小さく残っている。


「敵は俺たちがやって来るのを手ぐすね引いて待ち構えている。対抗しようにも、これ以上の黒鶴の使用は困難だ。それに、こちらの戦力は洸人とアキラ、そしてサポートの天のメンバーだけ。明らかに戦力差がありすぎる」


 茉凜の息が一度だけ止まり、次に吐かれた呼気がかすかに震えた。カーテンの影が揺れて、揺れ幅だけが妙に大きく見える。


 病室の白い天井を見ているはずなのに、意識だけが始まりの回廊の冷えへ滑っていく。まだ起き上がることすらできない身体で、そこへ向かわなければならない。


 指先の血が引き、シーツ越しに骨の冷えが上がる。現実が、じわじわと形になってくる。恐怖はいつも遅れて、確実に追いつく。


「なあ、茉凜……?」


「なに?」


 諦めたいわけではなかった。けれど、彼女を連れて行かずに済む道があるなら、それがどれほど卑怯な逃げでも、今のわたしは縋ってしまいそうだった。


「解呪なんてものは、もう諦めるべきなんじゃないか?」


 弱音が漏れる。喉の奥で息がつかえ、呼気が浅く揺れた。恥ずかしいほど小さい声だった。


「……それは、だめ。だめだよ……」


「正直言わせてもらう。俺は怖い……。ここから先は本当の命がけになる。罠に自ら飛び込むなんて、俺だけならまだしも、そこにお前まで連れて行くなんて……考えるだけで、頭がおかしくなりそうだ」


 声が少しだけ割れた。継いで、吐き出すように言う。


「少なくとも、これ以上黒鶴を使わなければ――解呪に臨まなければ、今のままの日常は保たれる。お前は、今の生活を続けていける。それで……いいんじゃないのか」


 壁の絹張りがわずかに反響し、空気が震えて戻る。言い訳の音が、自分の耳にいちばん痛い。分かっている。日常が保たれるなどという言葉は、緩やかな死を別の名で呼んでいるだけだ。


「そんなの、ぜったいにだめっ!!」


 声が、部屋を叩いた。枕元の水差しが微かに震えるほどの、まっすぐな叫び。


「茉凜……」


「弓鶴くん、……だめだよ」


 彼女は身を乗り出し、真剣な瞳でわたしを見つめる。叱るのではなく、引き戻す目だ。睫毛の先に光が揺れて、けれど涙はまだ落ちていない。


「今のままでも、わたしはとっても幸せだよ。弓鶴くんがいてくれるだけで、毎日がきらきらしてる。……でもね」


 息を吸って、声を据える。


「ずっとこのままなんて、いけないって思うの。あなたが少しずつ壊れていくのを、笑って見てるなんて、わたしにはできない」


 その瞳に迷いはなく、ただ真っ直ぐな意思だけがあった。幼い言い回しのまま、芯だけが揺れない。


「呪いがなくなった先には、今よりもっと楽しいことが待っているかもしれない。うん、きっとある。……あるって信じたい。だから、わたしは掴み取りたい。どんなことをしたって、絶対にあきらめたくないんだ」


 言葉の熱が、冷えたみぞおちの内側へ触れる。触れたところが、痛いほど分かる。救いがそのまま負債になるみたいに。


「茉凜……」


 彼女の吐息が頬に触れ、微かな熱が肌を撫でた。


「だから、あなたも自分を大切にしてほしいって思う。……わたしの前で、死んでもいいみたいな顔しないで」


 一拍、間を空けて、声がすこし細くなる。


「あと……お願いだから、もう二度とわたしを置いていかないで」


 指先がわたしの手に重ねられる。細い指なのに、重い。軽くない。逃げられない。


「わたしは、あなたと『ずっと一緒に』いたい。そのために、わたしはわたしのできることをしたい。だから……頑張ってみようよ? ね?」


 最後の「ね?」が、請うように上がった。強い言葉を並べたあとに残った、小さな不安。彼女もまた、怖いのだ。怖いまま、それでも手を差し出している。


 痛みより確かな光景が、まぶたの裏で淡く灯る。灯りがあるほど、闇が見える。だから怖い。けれど――この手を、離すわけにはいかない。


「……茉凜。お前がそこまで言ってくれるなら、俺も応えるよ。……一緒に前へ進もう」


 点滴がひと粒落ち、静けさの底で小さく響いた。落ちた音が、約束の釘みたいに残った。


◇◇◇


 まだ起きていない。けれど、その場面だけが、もう何度も意識の奥で組み上がっていた。


 最後の、その時が来たのなら――わたしは、人の道を外れるほうを選ぶだろう。


 信じてくれる手を利用し、情を切り落として道具に変える。その覚悟を腹に据えた瞬間、体の芯がすうっと冷え、冷えは骨へ沈んでいく。さっきの「ありがとう」が、胃の底で固い塊になったまま離れない。返せないから、踏みにじる。そんな卑怯な結論が、どこかで息をしている。


 口の端に錆の味が滲み、呼吸が浅くなる。音が薄い。壁も床も遠く、足元だけが妙に近い。視界の端で、茉凜の輪郭が一拍遅れて揺れた。


 まだ声に出してはいない。けれど、わたしはもう、彼女を遠ざけるための刃を研ぎ始めている。


「お前は、俺に騙されていたんだよ」


 頭の中で響く冷酷な声。それは未来の、あるいは心の底のわたしの声だ。


「まったく、自分が道具にされていたことにすら気づかないとは、お前の頭はなんておめでたいんだ。道具と呼ぶにも値しない」


 茉凜が目を見開く。止めようとしても舌が追いつかず、喉が痛むほど音だけが前へ出る。


「茉凜。お前は俺を信じることで、何か見返りでも期待していたのか? 感謝か? 愛情か? ――笑わせるな。お前がくれたものなど、最初のひと欠片から最後のひと滴まで、俺にとってはただの糧に過ぎなかった。お前が差し出せば差し出すほど、俺は遠慮なく喰い散らかしていた。それだけの話だ」


 言葉の刃を研ぐたび、自分の喉が切れる気がした。


「お前が見ていた俺は、ただの幻想にすぎない。俺が『優しい』だと? 笑わせる。あんなものは全部、お前を繋ぎ止めるための芝居にすぎなかったんだよ」


 茉凜は何も言い返さない。微笑みが崩れる前に表情そのものが抜け落ちて、ただ口元だけが小さく震えていた。反論でも、怒りでもない。わたしが知っている限り、あれは傷ついた者が最初に見せる顔だ。


 目が合う。けれど彼女の瞳はもうわたしを映していない。濡れた空白が、そこにあるだけだ。


「いいか? 俺は最初からこういう人間だったんだよ」


 長い沈黙が落ちる。彼女は問い返さない。唇を結ぼうとして、結べないまま、視線だけが床へ落ちていく。その軌跡が、何かを手放す仕草に似ていた。わたしへの、あるいは自分への何かを。


 言い終えるほどに、背中の内側が冷える。止めれば呼吸が戻るのに、戻った途端に、わたしは彼女へ何を言う。そう考えるだけで、次の言葉が勝手に決まってしまう。


 否定する。彼女の優しさも、信じてくれた心も、あの細い指の温度も。否定しなければ、わたしは先へ進めない。


「お前が俺をここまで引き上げた? 確かにそうかもしれないな。お前が愚かにも俺を信じて、惜しみなく尽くしてくれたから、俺はここまで辿り着けたわけだ。感謝はしているさ――そうだ。利用しがいのある道具としてな……」


 吐き気がこみ上げるのに、声は止まらない。唇の端が痺れて、言葉だけが滑る。


「だがな、用済みになった道具の末路を、お前も知らないわけじゃないだろう?」


 茉凜は顔を上げない。肩が落ち、力が抜けていくのが気配で分かる。崩れるのではなく、溶けるみたいに、静かに縮んでいく。声も出さずに。


 息をつかせない。反論の余地を与えた瞬間、わたしはきっと折れる。折れて、あの手を掴んでしまう。


「お前が俺に抱いた期待も、好意も、『ずっと一緒に』なんていう甘ったるい願望も――最初から何ひとつ、俺の心には届いていなかった。届く場所が、そもそもなかったんだ」


 彼女の瞳から光が消えていく。室内の空気が、ひどく軽い。布一枚の擦れる音さえ、耳の奥に残って離れない。茉凜が息を吸うのか、吐くのか、その境目だけが遅れて揺れた。


 そこでわたしは、言葉をひとつ落とす。


「……もう、終わりだ」


 声を落とす。落としたほうが、刃は深く届く。


「……お前など、もはや不要だ。いなくていい。顔も見たくない。声も聞きたくない。俺の記憶から、お前の痕跡を残らず消し去ってやる。――だから、さっさと行け」


 茉凜は、その場で何も言わない。泣かない。叫ばない。ただ、わたしを見ようとしない。見ることを、諦めた目をしている。


 それがいちばん、痛い。


 怒れば楽になる。叫んでくれれば、これは正しかったと思える。でも彼女は消えていくように静かで、わたしの言葉を、全部そのまま受け取っていく。


 みぞおちの奥で何かが割れ、鈍い音が骨を伝った。指先だけが凍りつき、感覚が先端から死んでいく。


――そうだ。これが、わたしなんだ。


 彼女は絶望に沈むだろう。涙も枯れ、怒りさえ失って、ただの虚ろになるだろう。そう信じなければならない。そう言い聞かせなければ、この先の道を歩けない。


――あの手の温度を、忘れろ。あの声の震えを、消せ。「ね?」と請うように上がった語尾を、踏み潰せ。


 呼ぶ声が背で遠のき、背骨の内側に痛みだけが残る。痛みすら、やがて凍るだろう。凍ってくれなければ困る。


――こうするしかない。彼女を傷つける以外に、わたしには方法がない。


 なぜなら――そうしなければ、わたしはきっと言ってしまう。


――『茉凜、あなたが好き』、と。


 その一言が出た瞬間、全部が壊れる。わたしの意志も、彼女の未来も、引き返せる場所も。だから先に、わたしが壊れる側になるしかない。


――こんなわたしは、地獄に落ちればいい。わたしなんか、わたしなんか……。


 目の裏が熱い。涙ではない。涙を許せば、全部が崩れる。


 そして、この絶望こそが、わたしが選んだ道の真実なのだと――震える歯を噛み締めて、自分に言い聞かせていた。

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