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黒髪のグロンダイル 〜黒髪の巫女と雷光の騎士の誠実幻想譚〜   作者: ひさち
第六章 前世回想ダイジェスト編 深淵の黒鶴~柚羽美鶴
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ぜったいにまけない――兆しを外す導き手

 洸人に肩を支えられたまま、わたしは門前の端に立っていた。蒸気はまだ薄く漂い、土と焦げの匂いが喉へ刺さる。茉凜はその白を割って、曽良木の正面へ進み出た。


 距離が詰まるほど、空気が硬くなる。茉凜は微笑を崩さず、声だけを静かに落とした。


「勝負をする前に、まずルールを決めましょう」


 白い蒸気がほどけ、曽良木の眉がわずかに動く。


「ルールだと? 滑稽な。ふふ……まぁいい。なんなりと言ってみるがいい」


 冷笑の温度に、夜気がさらに硬くなる。


「見ての通り、わたしはこんな格好だし、武器だって持っていない。だから勝負は素手ということでどう?」


 ドレスの裾が挑むように翻り、足元のスニーカーが月光を拾った。


「ハンデとしては当然だな。よかろう」


 言葉の隙間に、侮りの色が薄く光る。


 素手――つまり、剣も〈場裏〉も使わない。茉凜は曽良木の土俵へ上がるふりをして、術者同士の殺し合いそのものを、勝負の外へ押し出していた。


「それから、勝負の時間は一分間。これは技術的な差と体力的な差でちょうどいいと思う」


 茉凜の声は落ち着き、呼吸は一定に保たれている。


「それだけあれば十分だ」


 曽良木の口元がわずかに歪む。


「勝敗は、どちらかが相手に一発でも当てること。けど、わたしがあなたに当てるのは難しいから、その一分間、わたしに一発も当てられなかったらわたしの勝ち。これでどう?」


 無邪気な調子の奥に、奇妙な冷静さが沈んでいた。


「本当にそれでいいのか? どう考えても俺の勝ちは確定したようなものだが?」


 石の匂いが湿り、遠くで崩れた瓦礫が小さく鳴る。


「あなたが勝ったなら、好きなようにすればいいわ。でもわたしが勝ったなら、すぐに帰ってくれる?」


 言い終えて、茉凜は瞬きひとつ。瞳に覚悟が宿る。


 それは命を投げ出す言葉ではなかった。曽良木の興味を、この一分の勝負へ閉じ込めるための、細く鋭い針だった。


「まったく奇妙な娘だ。たった一分に己のすべてを賭けるとはな。だが、余興としては面白い」


 薄い嗤いが、蒸気の膜に溶けた。


「よかろう。この勝負受けようではないか」


 承諾の一言に、張り詰めた空気がわずかに軋む。


「じゃあ、アキラちゃん。カウントダウンの方をよろしくね!」


 茉凜は肩越しに声を投げ、裾が風に揺れた。


「わ、わかったわよ!」


 アキラの返事は強がりで、指先は小さく震えている。


 洸人が眉間に皺を寄せ、低く呟いた。眼鏡のレンズに、月の白が微かに映った。


「こうなってはもはや止めようがないが、彼女は一体何を考えているんだ?」


 アキラは茉凜から目を離さず、唇を結び直す。


「可能性だよ……あいつにあるのはそれしかないし、それしか見ようとしないんだ」


 言葉の余韻に、秒針みたいな間が落ちる。


「可能性だって?」


 洸人の声が低く重なった。


「あいつには『可能性が見える』のかもしれない……」


 吐息が細く揺れ、指先が時を刻むように拳を握る。


「どういう意味だい? ただ闇雲に勝負を挑んだというわけじゃないということか? 確かに……今の彼女には、何か違和感のようなものを感じるが」


 足元の砂がかすかに鳴り、夜風が額の汗を冷やした。


「弓鶴くんが言うには、あいつは『導き手』らしいよ……」


 導き手。その言葉が、喉の奥に冷たく引っかかった。わたしが守りたいと遠ざけてきた彼女の力を、いまアキラが、誰より正確に見ている。


 蒸気の白に、洸人の瞳が大きく揺れる。


「導き手だって? それはいったい……」


 その語が落ち、場の温度がわずかに下がった。


 アキラは再び茉凜へ視線を戻す。横顔にかすかな笑み、瞳には覚悟。


「あいつは、解呪の儀式に必要な最後の欠片ピースなんだってさ。その『おまけの力』で、少し先の時間にある可能性の断片が重ね合わせで見えるらしいよ……」


 言葉の重さに、わたしの喉がひとつ鳴る。


「つまりそれは……予知能力といったものの類か? けど、未来の可能性が断片として見えるなんて、一体どうやって……?」


 洸人は問いを置き、口を結んだ。


「さてね。正直あたしにもよくわからない。でも、確かにあいつはあたしの剣を避けてみせた。完全に見えてたわけじゃないのかもしれないけどね。やばいって一瞬だけ、その断片が垣間見える……そんな感じなんじゃないかな?」


 遠くで虫の声がひとつ鳴り、すぐに黙る。


「一瞬だけって? しかも見えるといっても……そんな曖昧なものでかい?」


「そうだね……『絶対そうなる』って確定した未来じゃないはずだ」


「それで君の剣戟を掻い潜ったなんて、とても普通じゃない」


 洸人の声に、微かな敬意が混じった。


 アキラが小さく息を吐いた。


「ああ、普通じゃない……」


 アキラの唇が少しだけ震え、すぐに結ばれる。


「このあいだの事故にしてもそうだ。あいつはその力で弓鶴くんを救った。今もそれだけを信じて、勝負を挑んでいるんだろうね」


 吐く息が白くほどけ、指先にかすかな震えが残る。


 洸人は茉凜の背を見据え、短く息を整える。


「なるほど、ただの博打ではないということか。だとしても、相手はあの曽良木だぞ? 彼女は怖ろしくないのか?」


 風が裾を撫で、石の冷たさが足首へ這い上がる。


「そんなの、怖いに決まってるだろ……。それでも、あいつは絶対に諦めようとしないんだ。可能性があるって、信じて疑わないんだ。『絶対に生きる』って……それは弓鶴くんを守るためだけに」


「しかし、彼女はただの女の子だ。僕ら深淵の血族とは違う。そんな覚悟が持てるものなのか……」


「あんた、灯子が好きなんだろ?」


「それはそうだが」


「ならわかるだろ? 覚悟なんて言葉じゃ言い表せない。もっと、別の……」


 言葉の端が喉でほどけ、視線が靴先へ落ちた。握った拳がひとつ震え、指の骨がきしむ。


 洸人は短く息を吐いた。


「わかるよ、それなら……。ならば信じてみよう、この一分を」


 月明かりがレンズの縁に薄く滲み、洸人は何も言わず頷いた。


 茉凜の背は揺るがない。足もとで砂がひとつ鳴り、すべてを賭ける一分が静かに近づいてくる。


「六……五……四……」


 アキラの声が夜気を震わせ、時間が薄く張りつめる。鼓動が数に重なり、吸うことさえ忘れそうになる。霞む視界の奥で、わたしは茉凜の姿を追った。まとめた髪が風に触れて淡く光り、純白の刺繍が月明かりを返す。戦場に似つかわしくないのに、逃げない背中だけが真ん中に残っている。


「三……二……一……」


 声が夜を震わせる。指先が冷え、肺がうまく広がらない。


「はじめっ!」


 アキラの声が夜気を震わせ、張り詰めていた膜がはじけた。


 茉凜は無防備なまま――けれど立ち尽くさない。スニーカーのゴム底が石畳をきゅ、と鳴らし、彼女は自分から一歩、曽良木の間合いへ入った。裾が翻り、冷たい風が膝へ擦れる。


 喉が塞がる。見ているだけで、背骨が冷えた。


「あいつ……!」


 アキラの声が掠れて落ちる。


 曽良木はそれを聞いたのか聞いていないのか、口の端だけを歪めた。


「おいおい、どういうつもりだ? 犬のように情けなく吠えながら逃げ回れば面白いものを、自分から向かってくるとは愚かにもほどがあるではないか」


 二人の距離が至近に縮まり、挑発が空気を切り裂いた。けれど茉凜は答えない。瞬きもせず、ただ目線だけで立っている。無視された刃が、曽良木の眉間に一瞬だけ影を作った。


「まあいい……」


 呟きが落ちる。


 次の瞬間、曽良木の拳が落ち、風が頬を斜めに切った。動いたのは肩と腰だけ。予備の形が、ほとんど見えない。


 茉凜は半歩ぶん、ただ線を外した。踏みしめた石の感触を確かめるみたいに足が置き直され、ドレスの裾が遅れて鳴る。


「ぬっ!?」


 曽良木の声が短く割れた。拳は空を裂き、石畳に鈍い余韻だけが残る。


 次の一撃も、その次も、茉凜は最小限に外した。拳を追わず、肩の起点と重心の移りだけを見る――わたしには、そんな避け方に見えた。


 残り五十秒。蒸気が揺れ、袖の擦れる音がやけに近い。


 アキラが、歯噛みするように呟いた。


「これだよ、これ……。あいつは、導き手の力を引き出すために、自分からわざと敵の間合いに踏み込んでいくんだ。なんてやつ……」


 その声が耳をかすめる。わたしは頷くことさえ怖かった。目を逸らした瞬間に、終わってしまいそうで。


 十秒ほどで、曽良木の拳が一度だけ止まる。余裕を装う気配の底で、微かな困惑が混じった。


「よくかわしたな。お前、武術の心得があるのか?」


「そんなのあるわけないじゃないの。見ての通り、ただの素人よ」


 浅い息の端にも、ぶれはない。裾が月光をすくい、影が足元に貼りつく。


「そういえば、あなたって顔は狙わないんだね?」


「女の顔は潰さないのが俺の主義だ。きれいなままで、逝かせてやりたいからな」


 支配の響きが夜に沈む。


「へーっ、意外と優しいんだ」


 言いながら、茉凜はもう一度だけ線を外した。言葉と動きが、息の間に噛み合っている。


「減らず口を。だが、まぐれもここまでだ。ここからは本気で行かせてもらう」


 曽良木の気配ががらりと変わった。蒸気の匂いが遠のき、かわりに圧が肌へ落ちてくる。腰を落とし、息を沈める。遅いのに、どこからでも届く形。


 残り三十五秒。わたしの舌先だけが乾き、唾がうまく回らない。


「ふっ、無謀な娘よ。いつまでも避けられると思うな」


 吐息と同時に掌底が閃く。腹部への最短の突き――予備動作は影もない。けれど、風だけが裂けた。


「なんとっ!?」


 茉凜は肩幅より狭く、風のあとを滑るように身をずらしただけ。左のフックも空を切り、砂がかすかに跳ねた。曽良木の額に、遅れて汗が滲む。


「何故だっ……!?」


 怒声が夜を震わせる。茉凜は答えない。呼吸の切れ目に合わせて半歩だけ動き、拳の通る場所を先に空にしていく。


 分かった。導き手が見通す「断片」だけじゃない。バイクトライアルで叩き込まれた踏み替えの癖が、息より先に動いている。そこへ、ほんの一瞬だけ未来の欠片が重なる。だから紙一重が続く。


 茉凜本人には、きっと「見えてから」動いているように感じているのだろう。けれど実際には、危険の断片と、身体に染みついた踏み替えが、思考より先に彼女をずらしていた。


 残り二十秒。わたしの爪が掌へ食い込み、痛みだけが時間を刻む。


 詰める間合い。曽良木の拳、肘、膝、足――体軸から叩き込む連打が迫る。それでも茉凜は、わずかなずれだけで立ち続けた。


 曽良木が低く唸った。


「……何故かわせる?」


「くそっ、どうなっているんだ!」


 曽良木の呼吸は粗く、羽織が遅れて揺れる。対して茉凜は浅い呼吸を揃え、眼差しは揺らがない。


「お前……やはり只者ではないな……?」


 熱を帯びた問いに、茉凜は首を横に振り、唇だけで笑む。


「そんなことないよ。ただ――」


 距離を保ち、真っ直ぐに見据える瞳が静かに挑む。


「ただ?」


「わたしは、痛いのがいやなだけ。それに、顔は狙わないって言ってくれたから、ちょっと安心したの」


 軽やかな声音が、余裕に聞こえて怒りを煽る。


「……ふざけるな!」


 渾身の突進。踏み込みが石畳を砕き、集大成の一撃が繰り出される――が、拳は風だけをすり抜けた。


「……またも、外れただと?」


 見開かれた目に、積み上げた技が届かない現実がひびを入れる。汗が縁から滴り、拳はなお届かない。


 残り十秒。わたしの胸の奥で、鼓動だけが数を刻む。


「あなたって、ほんとうにすごい人だね。でも――」


 茉凜はふわりと微笑み、真っ直ぐに告げる。


「――あなたじゃ、わたしに当てることはできないよ」


 静かな一言に、曽良木の肩がびくりと震えた。


「何故だ、何故当たらんのだ……」


 誇りの根が揺らぐ。伸ばせば届くはずの距離が、幻のように遠のく。


「ごめんね。わたしは、ぜったいに負けるわけにはいかないから……」


 柔らかい声の底に、揺るがぬ意思が沈む。曽良木の足が石に縫い止められたみたいに止まった。


「お前は、俺の『兆し』を見切っているというのか……?」


 疑念と恐怖が混じる。完全封殺――そんなはずがない、という顔が崩れる。


「兆し? 見切る? そんなの知らない。……わたしは、ただ動きが『見えてから』避けているだけだよ? でも、身体がおもったるくて、うまく動けないんだけど」


 あまりに素朴な一言が、研ぎ澄まされた自尊心を直に斬る。


「見てからだと? ……俺を愚弄するつもりか!」


 怒声が空気を叩く。茉凜は否定しない。ただ、事実だけが残った。


 残り三秒。蒸気の白がいちど薄くほどける。


 アキラが叫んだ。


「そこまで!」


 張り詰めた糸がふっと緩み、夜風が戻る。茉凜は肩の力をほどき、深く息を吸った。額に細かな汗が光り、指先が遅れて震えている。


 一方の曽良木は、荒い息のまま立ち尽くす。たった一分――それでも、濃すぎる時間だった。


「なんてやつだ……」


 アキラの呟きに、確かな敬意が混じった。茉凜は小さく微笑み、アキラへ視線だけを送る。曽良木へは、もう振り返らなかった。


 ふわりと灯る微笑みに、胸の奥が熱く疼いた。言葉にしてしまえば軽くなる気がして、息だけが漏れる。


「まさか、この俺がまるで刃が立たんとはな。……恐れ入った」


 曽良木は立ち尽くし、喉の奥で震える息を押さえ込む。


「それはないと思うな。わたしなんてぜんぜん強くなんかないよ。ただ逃げていただけだし」


 茉凜は振り返らない。声だけがやわらかく空気を撫でる。


「何だと?」


 硬質な響きが夜気を刺す。


「わたしはただ、死ぬなんてまっぴらごめん、ってだけ。弓鶴くんやみんなと楽しい毎日を過ごしたいだけ。そのためなら、わたしはできることはなんだってする。それだけなの」


 素直な願いが場に広がり、張り詰めた空気がわずかに緩む。目頭が熱くなった。


 氷の王子様と呼ばれてきた。その呼び名が、今夜だけは遠い。目の前の彼女の方が、ずっと――。続きの言葉は喉でほどけ、唇の裏に残った。


「……理解も納得もできんが……一度交わした約束を違えるなど俺のプライドが許さん。約束通り、今夜のところはこれで引き下がらせてもらうとしよう」


 冷酷であるはずの男が、あっさりと敗北を認めた。意外の息が、喉で小さく跳ねる。


「ありがとう。あなたって、根はそんなに悪い人じゃないんだね」


 言葉に曽良木の顔が固まり、次の瞬間、笑いが夜へ弾けた。


「わっはっはっはっ!」


 茉凜が驚いて振り返る。羽織の裾が遅れて揺れた。


「まったくお前は掴みどころのない奴だ。俺はただの人殺しだぞ?」


「そんなことはわかってるよ。わたしが言ってるのは、そういうことじゃない。わかるかな?」


「わかるものか」


 噛み合わないやり取りに、張り詰めていた糸がほどける。これが茉凜の力――場の空気を変えてしまう、人の温度だとわたしは思った。


「それはいいとして、柚羽――」


 曽良木の視線がこちらを射抜く。月白が瞳の底で光った。


「忘れるな。もはやお前に残された時間は、限られている。選ぶのはお前自身だ。このまま腐ったように日々を生き続けるか、それとも命を賭して解呪を望むか。後者を選ぶのなら、俺たちは全力でお前を迎え撃つ。その時は、懐かしき柚羽の地がお前の墓標となるだろう」


 言葉の重さが胃の底に沈み、呼吸が浅くなる。心臓の鼓動だけが耳の奥で大きい。


「ではな、待っているぞ……」


 踵が石を払う音。曽良木は背を向け、闇へ吸い込まれていった。


 残された空気を深く吸い込む。肺の冷たさが落ち着きを連れ戻すには、まだ足りない。立ち止まる暇はない――待っているのは、術者たちとの命のやり取りだ。


 ふいに茉凜が振り返る。天真爛漫な笑顔の奥に、静かな強さが潜んでいた。差し出された手が、わたしの指をやさしく包む。


「大丈夫だよ、弓鶴くん。どんなに怖ろしいことが待っていても、わたしがそばにいるからね」


 涙が込み上げる。けれどわたしは笑って応えるしかない。喉の奥に押し込めた言葉――『好きよ、茉凜……』。声にはしないまま、心でそっと呟く。


 好きだからこそ、離れなければならない。矛盾が心を裂いても、これがわたしの選んだ運命だと、冷えた夜気の中でゆっくり噛みしめていく。


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