前世の私が招いた悲劇
簡素な鍵が小さく鳴り、戸板の向こうのざわめきは、薄い膜を一枚はさんだみたいに遠のいていく。
ヴィルと別れて宿へ戻ったのだと、いまさらのように気づいた。踵の裏には外気の乾きが残り、廊下の暗さが足もとへ沈んでいた。軋む床板の音だけが、妙に重い。
息を吐いても、胃の底に沈んだものは戻ってこない。
指先で〈場裏・青〉を展開し、空気の湿りを内側へ集める。桶の口へ領域部分解放し、純粋な水だけを落とした。つづけて別に〈場裏・赤〉を展開し、桶の水へ熱を移す。ほどよく温んだところで領域解除し、髪を洗う。
湯気が頬を包んだ瞬間、肩の位置がほんの少しだけ下がった。
木桶が床を打つ、硬い音。
湯が肌を伝い、汗と埃が細い筋になって落ちる。こわばっていたものまでいっしょにほどけ、天井の木目がただそこにあるだけで、世界が静かに戻ってきた。
日本で当たり前だった熱い湯船は、もうここにはない。エレダンでは水は貴重で、湯を張るという発想そのものが遠かった。
それでも、この力があれば、ほんの少しだけ整えられる。湯気を吸い込むたび、口の中のざらつきが薄れていった。
桶の縁を伝った雫が床板へ落ち、小さく乾いた音を弾く。窓硝子の曇りが広がるにつれ、『異世界』という輪郭だけがゆるんでいく。朝には井戸水を汲み上げ、夜になれば魔道ランプの灯りに頼る。煤で黒ずんだ指のざらつきも、掌に残る水の冷たさも、暮らしの表面へそのまま貼りついていた。
元いた世界から引き剥がされたはずなのに、境目は案外うすい。息の奥に、そんな錯覚だけが沈んでいく。
髪を乾かしながら、ふと母のことを思い出す。
この乾いた大地では、長い髪はただの負担かもしれない。それでもこの長さを手放せないのは、黒髪の重みを、せめて自分の指で確かめていたいからだ。
〈場裏・白〉を展開して風を整え、別に〈場裏・赤〉を展開して空気へ熱を移す。二つを離して並行させ、温い風で濡れた髪をそっと撫でる。首筋を抜ける風だけが、ひと足先に軽くなる。
その拍に合わせるように、茉凛の声が心へ届いた。
《《……今日もお疲れさま》》
息がひとつ深くなってしまい、悔しくて奥歯がそっと触れた。魂年齢だけで言えば、わたしのほうが上のはずなのに。茉凛の声が落ちると、身体のほうが先にほどけてしまう。
タオルの端が、指にひっかかったまま止まる。
《《さっきは大変だったね……》》
湯気が視界を白く染め、わたしは小さく息を継ぐ。
「うん……。でも、少しは心の整理がついたかな。わたしって、ついつい考え込んでうじうじしちゃうから。ヴィルみたいな人にはっきり言ってもらえて、よかったと思う」
吸い込んだ湯気が舌の奥へほどけた。言葉の背に、まだ小さな棘が残る。
《《だよねー。そこがあなたのいけないところだよ。思えばわたしも、ほんと苦労したわ》》
タオルで髪を押さえる手に、きゅっと力が入った。返し方を探して、すこしだけ間が延びる。
「そんな年取ったお母さんみたいなこと言わないでよ。悪かったわね」
布がこすれ、髪先の水気が肩のあたりで小さく弾けた。
《《あはは、ごめんごめん》》
笑い声に混じって、体の芯の硬さが一段ほどける。わたしはタオルを握り直して、言葉の位置を確かめた。
「茉凛?」
呼ぶだけで、内に秘めた十二歳が返事を待ってしまう。
《《ん、どしたの?》》
返事の軽さに、喉が一度だけ鳴る。名前を呼ぶだけで現実の重さが変わるのが悔しい。
「わたし、頑張ってみるよ……」
髪の雫が、鎖骨のくぼみを冷たく滑り落ちた。
《《うん、わたしもあなたの力になる。一緒に行こう》》
返ってきた音に、呼吸が深く落ちた。肩甲骨のあたりで、長い緊張がゆっくりほどけていく。
枕元に立てかけたマウザーグレイルへ近づき、感謝だけを掌に集める。白い硬さは冷たく、けれど引き返せないほど静かだ。そっと口づけすると、唇に薄い冷えが移った。
《《ちょ、美鶴!? 不意打ちはひどい……》》
声が一瞬だけ裏返る。年下の輪郭が、わずかに覗く。
息が詰まり、耳の奥がきゅっと狭くなる。咄嗟に言い訳を探して、見つからない。
「よく言うわ。あなたみたいに、ぐいぐい壁を乗り越えてくる人に言われたくないんだけど?」
窓枠の隙間から入り込む夜風が、ランプの炎を小さく揺らした。
《《あら、そんなのお互い様じゃない? 学園祭のときなんか、わたしほんとにびっくりしたんだから。あれって、わたしのファーストキスだったんだよ?》》
タオルがきゅ、と鳴った。指の節が白くなって、ほどけるのに一拍遅れる。
学園祭の終幕で、感極まったわたしがしてしまった、あの衝動。
「あれはさ、役に入り込みすぎちゃって、つい……。もうっ、恥ずかしいことを思い出させないでよ」
息が鼻先で引っかかり、次の言葉が少しだけ遅れる。
《《うふへへ、でもあの時の美鶴、ほんとにお姫様みたいでかわいかったよ》》
頬の内側が熱くなり、わたしは濡れた髪を乱暴にかき上げた。
「からかわないでよ……」
《《だってわたし、もうどきどきして、ほんとに王子様の気分になっちゃったもん》》
耳の先が、ほんの少しだけ熱を持った。外の風が窓枠を撫で、遠いランプの灯が揺れる。
「あれは……一時でいいから、美しい夢を見たかったんだと思う。それで、あなたにあんなひどいことをしちゃった……ごめんね」
吸い込んだ空気の味が、どこか鉄錆みたいに苦い。
《《そんなことないよ、わたしも内心うれしかったんだから》》
言葉が返るまでの間、息の奥で何かが転がる。笑っていいのか、赦していいのか、まだ決められないまま。
「でも、あの時のわたしは『弓鶴』だったわけだけどね。それがどうしても引っかかってて……」
ランプの煤ける匂いが鼻をかすめ、現実に引き戻される。
《《そんなの関係ないもん。言ったじゃない? ずっとわたしのことを見て、守ってくれていたのは美鶴、あなたの心なんだから》》
瞬きが一度だけ遅れ、指の力が抜けた。
「ありがとう、茉凛……」
《《思い出すといろいろあったよね……。でも、わたしはあなたと出会えて、新しく生まれ変われたような気がするんだ。大変なこともあったけど、今はいい思い出だって思えるんだ》》
返事が喉で引っかかる。言葉を探すほど、足もとの床板の硬さが強くなる。
「わたしもそうだよ。でも……今のわたしはもう以前のわたしじゃないって思ってるの……」
夜の静寂が重くのしかかり、心臓の音だけがやけに大きく響く。
《《なんで? そんなことないと思うけどな》》
温い風が髪の水気をさらい、首筋の皮膚だけが先に軽くなる。けれど心のざわつきは、まだ落ち着かないまま残っていた。
タオルの端を指でつまんだ瞬間、力が入りすぎて、布がきゅっと鳴る。
「わたし、時々ミツルの純粋な感情が溢れてきて、制御できなくなるの。そのせいで、いつも戸惑ってばかりで。ヴィルと話している時だって、父さまや母さまのこと思い出して、頭の中ぐちゃぐちゃになって、いまにも泣き叫びそうだった……」
言い終わった瞬間、言葉が自分の耳に刺さって、目線だけが逃げる。息の出口が狭くなり、肩がわずかに前へ落ちた。
どんなに大人の言葉を選んでも、身体のほうが先に幼くなってしまう。
《《ああ、うん。それは……わかる》》
返事の軽さに、肩甲骨の奥でかすかなものが広がる。わたしはタオルを畳むふりをして、指の震えを隠した。
「でもね、そんな瑞々しい感情が、とても心地良いし、愛おしいって思えるんだ。前世のわたしは、そんなものを捨て去って生きていたから……」
舌の付け根が乾き、唾が戻らない。言い切るにはまだ早いのに、言葉だけが先へ出る。
「だからかもしれないけど、そんな『ミツル』を不幸せなままでいさせたくないの。けど……わたしって不器用だから、うまくいかないかもしれない。それでも、少しずつでも前に進みたい」
言葉の最後が消える前に、息をひとつ足した。内に残るものが、まだどちらへも転がれず、静かに揺れている。
《《うん、それでいい。美鶴はそのままの素直な気持ちで進めばいいんだよ。望むままに飛べばいいの》》
返事が落ちたところに、静けさが戻る。魔道ランプの灯が一度、壁の影をゆらした。タオルの湿りが指に残り、笑いの温度がすっと引いた。
白きマウザーグレイルへ触れると、遠い記憶が静かに呼び戻される。
一年前、父が亡くなった、あの日。
どうして、救えなかったのか。
その問いが、いまも記憶の棘となって抜けない。
柄へ手を伸ばすと、冷えが先に答えた。
父の死を目の当たりにした瞬間、眠っていた二十歳のわたしと、深淵の黒鶴の力が一斉に目を覚ました。そして、十一歳の少女の痛みが、息の通り道を塞いだ。
内側が焼けるようにきしみ、声にならない音だけが喉を締めつける。遠くの叫びは薄く、視界に残るのは赤い輪郭ばかりだった。
理性の糸がどこかで切れた。焦点がほどけ、世界が一瞬だけ遠のく。四つの流儀が奔流になって敵をさらっていく。わたしはそれを、まばたきの外側で見ていた。
もし、茉凛が目覚めていなければ。もし、あの時、剣が発した微かな光がなかったなら。そこで終わっていたかもしれない。
前世で、わたしは異能の血族の呪いを解き、もう何も思い残すことはなかったはずだった。
なのに、どうしてか、わたしはこの世界に強制的に連れて来られた。
魔道ランプの灯が一度だけ揺れ、鞘の白が淡く息をする。床板の硬さが足裏へ戻り、いまの部屋の輪郭だけが残った。




