母さまの消失と私がすべきこと
薪がぱち、と弾け、細かな火の粉が宙に舞った。
甘く燻る脂の匂いが鼻の奥にじんわり残り、揺れる橙の光が梁をなぞっていく。伸びては縮む影のせいで、壁の面だけがゆっくり息をしているみたいだった。
その静けさを裂くように、ヴィルの低い声が落ちた。眼差しは迷いなく、わたしの手にあるマウザーグレイルへ吸い寄せられている。
「家族を結ぶ絆の証だという、その白い剣についてだが……素性が謎だな。お前もよく知らないと言っていたが?」
指の腹が、柄の冷たい金属へ貼りつく。掌の湿りを、金属が少しずつ奪っていった。
「ええ……」
息を静かに吐くと、喉の奥がひゅ、と細く鳴る。柄の縁をなぞる指先に、彫りの浅い段差がかすかに触れた。その小さな凹凸だけで、霧の底に沈んでいたものが、ふいに浮いてくる。
目を落とす。忘れたふりをしていた釘の頭が、柔らかいところへ当たったまま離れない。
「この剣はね、家の壁の高いところにいつも掛けられていたの。物心ついたときにはもうそこにあって、いつからあるのか、なぜそこにあるのか、どんな意味があるのか……なにもかもわからないままで、ずっと不思議に思っていた……」
高い棚。差し込む日差しに舞う埃。磨り減った留め金の鈍い銀。背伸びしても届かなかった距離だけが、妙にはっきり残っている。
「一度だけ、好奇心から手を伸ばそうとしたことがあったの。でも、父さまにひどく叱られた。あの時の心配そうな顔は、いまでもよく覚えてる。理由は教えてくれなかったけど、それ以来、剣には決して触れちゃいけないと心に決めた」
言い切ったはずなのに、指先だけが小さく迷って、すぐに引いた。
「お前を剣の道から遠ざけようとしていたというのは、わかるが……」
杯の底が木卓に触れて、鈍い音がひとつした。甘い匂いだけが、部屋の隅へ低く溜まっていく。
「それとは、また別の話なの」
舌先が一度だけ止まり、息が細く抜けた。脛を撫でるぬくもりと、背中の冷たさの境目がきっぱり細くなる。
「どういうことだ?」
眉間の影が深くなる。椅子の軋みが一度だけ鳴り、杯の縁の冷えが唇に残った。
「言ったでしょう? たしかにこの剣は、わたしたち家族を結びつける絆の証ではあるけれど、わからないことだらけだということ……」
床板のぬくもりが踝の内側へ触れているのに、そこから先だけ冷えたままだった。
「あるとき、母さまが剣を抱きしめていたの。時折、ひとことふたこと、まるで親しい家族に語りかけるように呟いていたのを覚えている……」
袖口の布が指先にやわらかく触れる。母の横顔に落ちた睫毛の影。息をひそめて覗いたとき、足裏に当たった畳の編み目の固さまで、まだ残っている。
「気になって尋ねてみたら、『ミツル、この剣にはちゃんと心があるのよ。あなたにはまだ早いけれど、大きくなったらきっとわかるようになるわ』って言われた。母さまは、そうやって時々剣とお話をしているんだって」
名前を呼ばれたときのやわらかな灯りが、まぶたの裏にまだ残っていた。
「心が? 剣に?」
指先が柄の縁をなぞり、奪われた湿りがひやりと戻る。
「うん。本当に、剣と会話しているようだった。あのときは意味がわからなかったけれど、すごく神秘的で、何かとても大切なことだと感じたの」
耳の奥で脈が一拍だけ強く鳴り、袖の裏地が肌を擦った小さな音だけが残る。
「そして、三年以上前、大変なことが起きた……」
窓枠の金具がカタ、と鳴った音まで、遅れて蘇る。呼吸が一段浅くなった。
「何があった? まさかその剣が原因か?」
押し殺すような声に、無言で頷いた。掌の湿りがひやりと冷え、金属の感触だけが残る。
「ええ……急に家が激しく揺れ始めて、それから剣が眩い光を放ち、部屋中が真っ白に染まったの。耳がキーンと潰れて、どうしていいかわからず、ただ立ち尽くすしかなかった……」
白い光が、いまもまぶたの裏で膨らむ。足裏だけが床の固さを拾って、そこにいるしかなかった。
――『まだ早いわ。力を解き放ってはだめよ』
母の切迫した声が耳に残る。あのときの空気が戻り、喉が勝手に狭くなった。
「光とはなんだ? その剣に秘められている何かが、影響を及ぼしたっていうのか?」
「たぶんね……そうとしか」
指先が柄へ深く沈み、窓の隙で風が細く鳴る。息だけが短く刻まれていった。眩い白。空気が抜け、体の重みだけが残る。爪が床板の節へ食い、冷たいものが腹の底へ沈んでいくみたいだった。
ヴィルの瞳に橙が沈み、片方の肩筋がわずかに強張る。
「母さまは光の中で剣に手を伸ばそうとした。わたし、怖くて『やめて』って叫んだけど、母さまには届いていなかったみたい。剣に手が触れた瞬間、目が眩むほどの白い輝きが走って、何も見えなくなった……。まるで鉄鎚で心臓を直接殴りつけられたみたいな衝撃が走って、意識が遠のくのを感じたわ」
吐く息が薄くなり、視界の残像がまだ点滅している。頬の内側が冷え、涙腺の奥だけがじくりと痛んだ。
「目を開くと、光は消えていて、剣が床に転がっているだけだった。だけど、母さまの姿はどこにも見当たらなかった」
敷物の毛が指に絡み、ほどく動きだけが不自然にゆっくりになる。
「まさか、死んだってことか?」
「そんなこと、あるわけないでしょ!」
声が弾け、叫んだ喉がひりつく。鼓動だけが耳の内側で膨らみ、足裏の重みが遅れて戻った。
「ああ、すまない……」
彼の視線が床へ降りる。それに引かれるように、わたしの呼吸も少しだけ整った。椅子の背の硬さが肩甲骨へ当たり、ようやく体がいまへ戻る。
「……ごめんなさい。とても冷静にはなれそうもないわ」
膝の上で手を重ね直す。皮膚どうしの温度差が、遅れて追いついてきた。
「……もういい。無理に話す必要はない」
素っ気ない言葉の奥にあるぬくもりが、肺の底まで息を落とさせた。
「大丈夫……。父さまを大切に思ってくれていたあなたには、聞いてもらいたいから」
「そうか……続けてくれ」
火の揺れが一段小さくなり、部屋の音がゆっくり輪郭を取り戻す。
「これはわたしの推測だけれど、母さまはこの剣に秘められた何らかの力に巻き込まれて、どこかへ飛ばされてしまったんじゃないかって……」
言い終えた瞬間、指先が冷えた。剣の白が、夜の中でやけに目立つ。
「飛ばされただと? 転移の魔術なんて、伝説でしか聞いたことがないぞ。ありえんだろ」
風が窓の隙へ触れ、言葉が一拍ぶんだけ部屋に引っかかった。
「そうね、普通に考えてありえない。でも、この剣が普通じゃないことだけは確かなの。ロングソードにも匹敵する大きさなのに、こんな小柄で剣に不慣れなわたしでも軽々扱えるなんて、おかしいでしょう?」
ヴィルが静かに頷いた。
「どうりでな。剣を打ち合わせた時に妙な感触がしたが、違和感の正体はそれか。たしかにこいつはただの剣じゃない」
「その通り。いつからこの世にあるのかも、何が込められているのかも、まるでわからないの」
「そうか……」
吐息が落ち、音のない間が沈んだ。杯の中で琥珀がわずかに揺れ、揺れだけが時間を進める。
「……それから、どうなったかって、知りたいわよね?」
「ああ、できれば聞かせてくれ……」
掠れた返事が低く落ち、空気が重くなる。わたしは息を一度だけ深く入れ、言葉の端を整えた。
「父さまは、こう言ったわ。『お母さんは必ずどこかで生きている』って、『探しに行くから、待っていてくれ』って……。そして、わたしを知り合いの人に預けようとした。でも、わたしは嫌だった。母さまがいなくなったうえに、父さままでわたしを置いて行ってしまうなんて……。一人ぼっちになるのが怖くて。だから父さまに縋りついて『連れて行って』って、必死にお願いしたの」
鼻の奥に熱が集まり、父の笑顔の残像が橙の揺れに合わせて瞬いては消える。置いていかれたくなかった。ただ、それだけだった。そのときの小さな必死さが、いまの胸の奥でもまだ縮こまっている。
「……父さまは困った顔をしながら、微笑んでくれた。『しょうがないな』と言って、同行を許してくれた。それからわたしたちは、この剣を携えて旅に出た」
少し困った声色まで戻ってきた気がして、喉の奥が熱くなる。
「なんだかんだで、あいつは結構寂しがり屋だったからな。本音では、お前にそばにいてほしかったんだろう……」
「そうかもしれないわね……」
口元だけで笑う。頬の筋は固いまま、内側だけが遅れて震えた。
「でも、もしあの時、わたしが素直に言うことを聞いていれば、旅についていかなければ、父さまは死なずに済んだのかもしれない……」
言葉にした途端、胸の奥で古い痛みが目を開ける。暖炉の火がひとつ撓み、視界の縁だけが熱くなった。
「わたしみたいな役立たずの足手まといがいなければ、父さまは一人で逃げることだってできたはずなのに……」
「……やめろ」
低い制止の震えが、わたしの震えと重なった。伸びかけた手が宙で止まり、その手の甲に火の赤が淡く触れる。
「お前のせいなんかじゃない」
真正面の視線が、息の芯まで届く。けれど、底に沈んだ重みはまだほどけない。
「お前が責任を背負う必要はない。あいつなら、そう言うはずだ」
炎の向こうで父の声が一瞬だけ重なり、喉が勝手に震えた。
「でも、父さまはもう帰ってこないのよ……」
頬に冷たい筋が落ち、唇の端へ触れてから消えた。塩の匂いが鼻に残り、火の吸う微かな音だけが続く。
「自分を責めたい気持ちはわかるが、それより大事なのは、これからお前がどう生きていくかだ。もし俺があいつ、ユベルだったなら、こう言うだろう──」
椅子の背の硬さが背中を支え、息がようやく深く入ってくる。
「──『どんなに絶望の淵に追い込まれようとも、顔を上げろ、立ち上がれ、そして前だけ見て進め』とな。ユベルが、かつて戦場で俺にくれた言葉だ」
言葉が骨に触れ、内側へじわりと熱が広がる。指先の冷えがほどけ、拍が少しだけ整った。
「……そんなこと、わたしにできるのかな……」
床の固さが足裏へ戻り、呼吸がようやく形を取り戻す。
「いいか、ミツル。いつまでも自分を過去に縛っていては、決して前へは進めやしない。悲しみも苦しみも乗り越えて、その先を切り開いていくしかないんだ。お前が自分を許し、前に進むことで、あいつの名誉だって守られる」
その言葉が落ちるたびに、暖炉の火が一段小さく揺れた。膝の上で重ねた手から、じわじわと力が抜けていく。抜けていくのに、底の方だけはまだ重たくて、掌の温度が行き場を探している。
「それに、あいつの願いは、もはや俺の願いでもある……」
脈が一拍、軽やかに跳ねる。視線が揺れ、指先の冷えが消えた。
「えっ……?」
彼の口元の微笑は、冬の陽だまりの温度だった。言葉より先に、肩の力がほどけていく。
「前へ進む強さを示せ。そのためなら、俺はお前を全力で支えるつもりだ。それくらいはさせてくれたっていいだろう?」
「ヴィル……」
「もっとも俺はそんなに器用じゃないし、ユベルの代わりなんて格好のつく真似ができるとは思えんがな」
背すじに、ゆっくりと力が戻る。窓の隙を風が撫で、室内の温度差が現実を確かめさせた。
「ミツルよ。お前はこれから何がしたい? 何を望む?」
心拍の音が近くなる。答えはもう、底に沈んで待っていた。
「……わたしは、いつか母さまを探し出したい。きっと、どこかで生きていて、わたしのことを待っているはずだから」
自分の声が息に乗って進む。ヴィルが満足げに頷き、立ち上がる気配が床の軋みに変わる。
「そうか……」
炎が彼の指を縁取り、影が床で揺れた。差し出された手の体温が、掌へゆっくり移る。皮膚と皮膚のあいだに、確かな重みがあった。
「やれるだけのことはやってみるよ。たとえどんなに時間がかかっても、絶対に諦めない」
握り返され、熱が掌から腕へ、身体の芯へ渡っていく。
「それでいい」
白い鞘が膝の上で冷え、いま握っている手の熱と静かに拮抗していた。隠された縫い目の先に何が待っていても、引き返せない――そういう冷たさだった。
それでも、掌の重みだけは確かで、逃げ道のない夜を、少しだけ前へ押してくれていた。




