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ヴィルとユベルと剣の友情と真実

 暖炉の奥で、薪がときおり崩れた。橙の揺れに合わせて、杯の琥珀もわずかに色を変える。酒と煤の匂いが、温まりきらない部屋にゆっくり溜まっていた。


 ヴィルの眼差しは、わたしの隠したいところへためらいなく届く。背すじの奥がひやりとするのに、彼の低い声が落ちてくると、その冷えはいつのまにか吐く息のほうへほどけていく。何より、彼が父と繋がっている。その事実だけで、わたしはこの席を立てなかった。


 指がかすかに震えても、杯は置かなかった。逃げずに前へ進む。そう思うたび、掌の皮が細く擦れて、決意だけが音もなく残る。込み上げるものを隠すように、唇の端だけをわずかに持ち上げた。鏡があれば、いちばん先に嘘を見抜くのは自分だと分かっていた。


 ヴィルは、何も問いただそうとはしなかった。強張った顔を無理にほどこうともしない。重い沈黙ではなく、息を置ける静けさが、二人のあいだに流れていた。


 その後の日々は、静かに重なった。狩りに出て魔獣を討ち、草の上で昼を分け合う。街に戻れば夕食を囲み、夜は暖炉の前で少しだけ酒を酌み交わした。椅子のきしみや、杯が木卓へ触れる鈍い音が、同じ夜をいくつも数えていく。


 琥珀色の酒が注がれるたび、ヴィルは少しずつ饒舌になった。固く結ばれていた言葉が、ほろりとほどけていく。彼が語るのは、わたしの知らない父の過去だった。


 ――父は、どんな人だったのだろう。


 わたしの知る父は、森の奥の小さな小屋で、母と静かに微笑み合う人だった。暇さえあれば剣を振り、わたしを背負って森の草花について語ってくれる優しい人。怒れば厳しかったけれど、それでも、わたしにとっては唯一無二の父だった。


 ヴィルの言葉は、わたしの知らない父の輪郭を少しずつ起こしていく。ひとかけら受け取るたび、息の端がわずかにゆるむ。


「俺は東の辺境の村にある剣術道場で生まれた。だが、親父とは折り合いが悪くてな……。ある日、勢いのまま家を飛び出しちまった。それから俺の人生は放浪の連続だった。それからは、各地を武者修行をしながら傭兵やハンターとして経験を積んだ。その頃の俺は向かうところ敵なしで、強い相手を渇望していた。今にして思えば、俺も青かったのかもな」


 薪が短く鳴って、火の粉が一瞬だけ立って消えた。松脂の匂いが低く漂い、口の奥に甘さが居座る。父と出会う前のヴィルの輪郭が、炎の向こうで粗く立ち上がった。いま目の前にいる無骨な男にも、こんなふうに、まっすぐ前だけを見ていた若い時間があったのだ。


「そんな時、南の大国リーディスに“閃光”と噂されるユベル・グロンダイルという強者つわものがいると耳にした。当時のあいつは国家騎士団に所属し、勇名を轟かせていた。俺はこの機を逃すまいと決め、リーディスへ向かい接触の機会を狙ったんだ」


 父が、騎士団に――。しかも文化の最先端と名高い、リーディス王国で。息が途中で細くなり、こめかみの下で脈が小さく跳ねる。森の小屋で剣を振っていた背中が、そのまま別の光の中へ立ってしまったみたいで、目の前の炎がほんの少し遠く見えた。


「ある日、街の酒場であいつを見つけた。仲間たちと陽気に談笑する姿からは、覇気というものがまるで感じられなかった。俺は『この程度か』と高をくくって、挑戦状を叩きつけたんだが、その瞬間、あいつを取り囲む空気が一変した。凄まじい闘気が立ち上り、俺は武者震いが止まらなかったものさ……」


 炎の奥で、刃の気配だけが薄く立つ。知らない父がまたひとつ増える。陽気に笑いながら、一瞬で空気を変えてしまう人。目を逸らしたいのに、瞼がうまく動かなかった。


「ところが、あいつは俺の申し込みを拒んだ。戦いたいなら『騎士団に来い』と挑発してきてな。腹は立ったが、俺はその喧嘩を買った。そんなこんなで、興味もなかった国家騎士団に入団することになった。まぁ、生意気な騎士連中の鼻を明かしてやりたかったってのもある」


 唇に触れた縁が熱をさらい、冷たさだけが残る。父は、ただ強いだけの人ではなかったのだ。剣を交える相手の人生まで、平然と引きずり込んでしまう。誇らしさに似たものが灯るのに、同じぶんだけ置いていかれたみたいな寂しさが混じった。


「あいつの推薦で騎士団に加わった俺は、瞬く間に頭角を現した。だが……ユベルだけは、俺にとってどうしても越えられない壁だった……。初めて刀を交えた時は、そりゃもう、こてんぱんにやられたもんだ」


 耳の内側で脈がひとつ跳ねた。父を越えられない壁と呼ぶ声に、喉の奥が熱くなる。わたしの知る優しい手と、誰にも越えられない剣が、ようやく一人の中で重なり始める。


「俺の剣がいくら激しく振り下ろされても、あいつは一分の隙も見せやしない。むしろ、確実にカウンターを入れてくる。まさに水面を滑るような変幻自在さで、全くつかみどころがなかった。自分の未熟さを痛感したものさ……」


 暖炉の明かりがわずかに強まり、膝先へぬるい気配が寄ってくる。水面を滑るような剣。そう言われた瞬間、森の朝靄の中で剣を振るう父の背が、急に遠い場所のものに見えた。


「だが、それが俺の闘志に火をつけた。いつか必ず一太刀食らわせてやるって、毎日諦めずに打ち合いを繰り返した。あれほど馬鹿にしていた、騎士団伝統の正統剣技にまで手を伸ばしてな」


 言葉の端に混じる悔しさが、なぜだか少し愉しそうで、呼吸がかすかにゆるむ。負け続けた日々さえ、彼の中ではもう大切な時間に変わってしまっているらしい。


 そこでヴィルは窓の外へ視線を向けた。硝子に映った橙が、無精髭の影をやわらかく縁取る。


「……不思議な話だが、そんな日々を繰り返すうちに、あいつへの強い信頼と友情が芽生えていった。倒したくて仕方ない相手だったはずなのに、気づけば一緒に剣を交えるのがどうしようもなく楽しくてな……」


 樹脂の焦げる匂いが濃くなる。壁際の影がゆっくり形を変え、その揺れに合わせてわたしの呼吸も浅く、深くを繰り返した。倒したいのに、会えるのが嬉しい。勝ちたいのに、同じ場に立てること自体が喜びになる。その感情のかたちは、まだうまく名前にならない。


「楽しい?」


 橙の明滅がまぶたの裏へ触れ、笑いに似た息が喉で止まった。


「もちろん、いつだって勝ちたいと思っていたさ。でも、それ以上にあいつと剣を交わすこと自体が喜びになっていったんだ。そして、いつしか対等に渡り合える力を手に入れていた。一本取れた瞬間は、今でもよく覚えている。あいつは悔しがるどころか、こう言った。『俺は嬉しい』って……。違うだろそれ、って突っ込みたくなったさ」


 彼の横顔に橙が差して、頬の内側がほの温む。父らしい、と思った瞬間、笑ってしまえば何かが壊れそうで、息だけが細く抜けた。自分が勝つことより、相手が高みに届いたことを喜ぶ。その言葉の温度が、暖炉とは別の火になって静かに残る。


「それから俺は、あいつの副官として数多の戦場を駆け抜けた。あいつのおかげで俺は強くなれたし、成長できたと思う。辛いこともたくさんあったが、俺にとってかけがえのない貴重な日々だった。ユベル・グロンダイルという男は、ただの上官じゃない。師であり、仲間であり、唯一無二の友だったんだ……」


 言葉の重みが、部屋のぬくもりといっしょに骨へ沁みてくる。重いのに、逃げ場が消える感じはしなかった。父を大切に思っていたのは、わたしだけではなかったのだと、その単純な事実が胸の奥の結び目を、ゆっくりひとつ解いていく。


「……なのに、どうしてあんなことになっちまったんだ……」


 それまで滑らかだった声が、不意に途切れる。苦悩の色が浮かび、後頭部に冷や汗が滲んだ。次に語られる真実が、ただならぬ重みを持つことを、皮膚が先に覚えてしまう。


 薪の芯がほの白く裂け、室のぬくもりが頬を薄く撫でた。


「なにがあったの?」


 舌裏が渇く。知りたい。けれど、知るのが怖い。その二つが喉の奥で擦れ合って、声がすこし掠れた。


「……知りたいか?」


 葡萄酒の甘い揮発が、樹脂の匂いと混じって低く澱む。


 わたしはこくりと頷いた。火の中で薪が沈み、ぱち、と小さく音を立てた。


 しばし逡巡したあと、ヴィルは手にした杯へ目を落とす。琥珀の面がかすかに揺れ、光が指先へ移った。


「ユベルの娘であるお前には、知る権利があると思う。だがしかし、話していいものかどうか……」


 指先が毛布の端をつまみ、離せない。布の粗さだけが、いまここにいる感覚をかろうじて繋ぎ止める。


「……話してちょうだい。その覚悟はあるつもりよ。ユベル・グロンダイルの娘として」


「そこまで言うなら、話そう……」


 暖炉の火がひときわ大きく爆ぜ、壁の影がゆっくり形を変えた。


 焦げた樹脂の匂いが、口の奥に薄く残る。


「今から二十年以上前のことだ、リーディスの西方国境一帯で、魔獣が大発生した。後になって『西部戦線』と呼ばれるようになる戦いの始まりだ」


 呼吸がつかえ、鎖骨の裏へひやりと落ちる。指の関節が、気づかぬうちに硬くなる。西部戦線。その名だけで、見えない地図の上に黒い染みがひろがる気がした。


「ユベルは王家直下の銀翼騎士団の右翼リーダーとして出陣し、俺は副官として従った。だが、そこはまさに地獄だった……」


 喉を擦るように息が出た。言葉が短いぶん、その先にあるものの形だけが大きくなる。


「地獄……」


 その一言を小さく繰り返す。耳の奥で砂粒がこすれるような微かな耳鳴りが走った。これまでわたしが相手にしてきた魔獣の群れとは比べものにならない数が、津波のように押し寄せてくる。その光景が脳裏に張りつき、膝裏へひやりと落ちる。


「街や村々は次々と魔獣の大群に蹂躙されていった。それでも俺たちは必死に戦った。三日三晩、休むことなく剣を振るったことだってある。ユベルの冷静な指揮と判断のお陰もあって、なんとか戦線は維持できていたんだが……絶え間ない戦いと長引く補給線のせいで、次第に兵站が滞っていった」


 暖炉の中で薪が沈み、火箸の先が小さく鳴った。細かな灰がひとつ舞い、膝へ落ちて消える。部屋はぬくいのに、膝先だけが妙に冷えた。


「ユベルは再三上層部に補給を求めたが、思うようにいかなかった。その結果、飢えた兵士たちの中には、略奪に走る者も出た。人間は極限に追い込まれると、生きるために何でもやってしまう。それが、戦場の狂気というやつだ」


 唾を飲み込む音が、やけに大きい。父がその場にいたのだと思うだけで、木椅子の冷たさのほうが急に意識へ上がってきた。そこから動けない自分だけが、やけに鮮明だった。


「ユベルは惨状に耐えられず、戦線を俺に預けて、わずかな手勢で規律を乱した連中を片っ端から捕らえて回った。逃げ惑う民には、身銭を切って保障し、退路を確保してやったんだ」


 父の面影が、炎の向こうで静かに輪郭を結ぶ。あの背中がそのまま戦場に立ち、誰も見捨てられなかったのだと思うと、息が浅くなる。


「俺はユベルの行為に、深い感動を覚えたよ……。あいつこそが真の騎士だと思った。しかし、その行動が上官たちの反感を買った。『独断行動に加え、戦線放棄とは何事だ』と。あいつの出世を妬む連中には、まさに格好の機会だった。結局、あいつは左遷されて本国へ送り返されてしまった」


 熱のある部屋なのに、指先だけが急に冷える。正しいことをしたはずの父が、そこから切り離されていく光景が、見てもいないのに胸へ刺さった。


「そんな理由で? 父さまは正しいことをしたのに! なのに左遷だなんて……ひどすぎる」


 喉がかすれ、声が少し割れた。怒りは熱いのに、その熱が届く前に、どこか大きなものへ吸われていく感じがした。


「その通りだ。俺は“騎士団”って看板に唾を吐きかけてやりたくなった」


 ヴィルの目に、深い哀しみが宿る。炎より暗い色が、瞳の奥に沈んでいく。怒っているのに、もうその怒りを抱えたまま長い時間を歩いてきた人の目だった。


「だが俺は、ユベルが託してくれた言葉を胸に刻んでいた。『いかなる苦難が立ち塞がろうとも、この国と民を背負い、決して揺らぐな』、とな。だから俺は、腐らずに戦い続けられた」


 父の声ではないのに、言葉だけが生々しく響く。誰かへ託す時の父の静かな目つきまで、なぜか見えた気がして、持っていた杯の縁を指腹がそっと押した。


「やがて魔獣の発生は終息し、戦いは終わった。俺は本国に戻り、ユベルに報告したかった。『約束通りやり遂げたぞ』ってな」


 その一言に、胸のどこかが小さくほころぶ。帰れば会える、と信じていた時間が確かにあったのだ。その当たり前さが、次の言葉の気配をいっそう怖くした。


 だが、そのとき、彼の表情が険しく歪む。手の中の琥珀が揺れ、光が一度だけ折れた。


「だが、王都に戻った俺を待っていたのは……」


 声が苦く震える。部屋のぬくみがあるのに、指先が冷たくなる。


「ユベルが……よりにもよって王家の第三王女をさらって、行方をくらましたっていう話だ」


 耳の奥で、ぱち、と乾いた破裂音が反響する。視界の縁が薄く褪せ、足裏の感覚だけが遅れて戻る。言葉の意味が頭へ届くより先に、全身の血が引いた。


「嘘だっ!」


 喉の奥がひりつき、目の奥が灼けたまま戻らない。


「……だが、もうどうにもならなかったんだ。話を聞かされた時には、あいつには多額の懸賞金がかけられ、立派な“お尋ね者”扱いさ……」


 指の節が白くなり、掌に汗がにじむ。革の柄が、その湿りを吸い込んでいく。父が罪人の名で呼ばれていた時間を想像しただけで、胸の奥が裂けそうになる。


「父さまが、そんなことするはずがないっ!」


 痛覚の残響だけが掌に張りつく。


「当たり前だ。あいつは慎重にすぎる男だ。一時の感情で動くような奴じゃない。なんていったらいいか、一人で考えて考え抜いて、貯め込みすぎて床を踏み抜きそうなくらい厄介な性格の持ち主だ。だとすれば、事件の裏には何らかの理由があるはずだ。俺はそう信じていた。だから、事の真相を確かめるために騎士団を辞めて、旅に出たんだ」


 その言い方があまりにも父らしくて、涙とは別の熱が喉へ込み上げた。考えて、考えて、抱え込みすぎて、とうとう誰にも言わないまま床を踏み抜く。胸の痛いところへ、ぴたりと当てられた気がした。


「だがしかし、どんなに探し回ってもあいつの行方は杳として知れなかった。それでも俺は諦めたくなかった。二十年近くも、あいつを探し続けた」


 目の縁が熱を含み、涙が際で揺れる。落ちないまま、ただ滲む。二十年、という長さがすぐには呑み込めず、数字だけが冷たく胸へ沈んでいった。


「そ、そんなに……? あなたは父さまのために、そこまでして……」


「だが、あいつは死んじまったわけだ。お前という一人娘を残してな……」


 部屋の熱があるのに、指先が冷えたまま戻らない。父の死が、いまさら別の方向から重さを変えてのしかかってきた。


「……でも、父さまは過去についても何も語ろうとしなかった。何も教えてくれなかった。わたし、何も知らないままで……だから、悔しい」


「きっと娘のお前にも明かせない、何か複雑な事情があったに違いない」


「いったい、何があったというの……」


 薪が裂け、火の粉がひと粒だけ宙で消えた。ぬるい気配が膝へ寄り、引くまでの間がやけに長かった。


 ヴィルはすぐに答えず、杯へ目を落として琥珀をゆっくり揺らす。わたしは息を吸い直し、言葉の続きを待った。次の一言で、また景色が変わる。そんな予感だけが、部屋の空気より先に皮膚へ触れていた。


「……ところで話は変わるが、お前の母親について知りたい」


 不意の問いに、肩が強張る。指先が膝の布をつまみ、離せない。母のことは、父の痛みとは違う場所を刺す。だから余計に、身構えてしまう。


「いきなり何? なぜ、そんなことを聞くの?」


 舌がうまく回らず、声が自分のものではないように震える。


「どうしても、お前のお袋の名前を確認しておきたいんだ」


 ヴィルの視線が、わたしの生え際から瞳へ短く往復した。言葉より先に色を数えているみたいだった。胸の奥で、まだ名のない不安がゆっくり形を取り始める。


「それに何か意味でもあるの? わけがわからない……はっきり言ってちょうだい」


 問い返す喉が擦れ、膝の布をつまむ指にじっとりと汗がにじむ。


「これは謂れなき罪を押し付けられてしまったユベルの名誉に、深く関わることだ——」


 杯の縁を指で押さえたまま、ヴィルは一拍ぶんだけ黙り、わたしの髪の黒へ目を落とした。その沈黙のあいだに、呼吸だけがやけに大きくなる。


「俺はな、お前がユベルと、さらわれたとされる王女との間に生まれた子供なんじゃないか、と考えている」


 全身から、血の気が引いていく。指先の感覚が遠のき、耳の奥だけが妙に澄む。言葉が届いた瞬間、世界の輪郭が一度だけ薄く剥がれた。


「なっ……」


 彼の視線がふたたび動く。髪の生え際から瞳へ、短く、確かめるように。


「たしか以前、お前はこう言っていたはずだ。『自分は母親の特徴を受け継いでいる』と。つまり、母親の髪の色は黒、瞳は緑がかっている、そうだな?」


 静かな声が、やけに冷たく皮膚に触れる。問いではなく、もうほとんど確信の調子だった。


「……ええ、わたしと同じ、漆黒の髪と薄く透き通った翡翠色の瞳をしているわ」


 髪先が頬へ触れ、黒の重みが指へ落ちた。母の姿を思い浮かべようとしたのに、先に胸へきたのは色だった。夜のような黒と、水を透かしたような翡翠。


「そうか。“元軍情報部”の知り合いから聞かされた特徴と一致する。どういうわけか、この中央大陸で黒髪は極めて珍しい。その瞳の色もなかなかお目にかかれるものじゃない」


 言葉が重くのしかかり、心臓を直接掴まれたように痛む。顔ではなく、色だけが先に名指しされるのが苦しかった。


「それじゃ、わたしは……?」


 唇から漏れた声は、か細く震えていた。


 薪の爆ぜる音が止み、代わりに自分の呼吸だけが耳に触れた。指先が、無意識に膝の布をつまむ。


 ランプの硝子に細い反射が走り、室内の陰影が一段濃くなる。


「母親の名は……メイレア――」


 その音節が、真昼の刃の光みたいに胸を射抜いた。名前だけは昔から知っていたはずなのに、急に別の意味を帯びて立ち上がる。


「フルネームは、“メイレア・レナ・ディウム・フェルトゥーナ・オベルワルト”、というのではないのか?」


 続く言葉の一つ一つが、刃となって肋の内側を裂く。長い名前だけが鋭く残り、内側で静かに疼いた。母の名が、急にわたしの手を離れて、知らない高みへ置かれてしまう。


 ヴィルは静かに息を吐いた。


「やはりそうか……。彼女はリーディス王家の正統な血筋を引く、紛れもない王族だ」


 暖炉のぬくもりがあるのに、指先が冷えたまま戻らない。母さま、という呼び名だけが手の内に残って、王族という言葉は遠かった。


「母さまが、リーディスのお姫さまだった……?」


「そうだ。つまりお前は、リーディス王家の血筋を継いでいる……」


 小さな世界が、根底から覆された。熱の残る喉の奥で、言葉だけが先に転がり出る。


「そんなのどうだっていい……父さまと母さまは、見ていて恥ずかしくなるくらい仲睦まじくて、とてもそんな、誘拐だなんてふうには見えなかった。ただ……」


 杯の縁が指腹に冷たく当たり、息がひとつ遅れる。血筋でも肩書きでもない。わたしの中で確かなのは、あの二人のあたたかな背中だけだった。


「ただ?」


 影が壁でわずかに形を変えた。


「わたしたちは人の寄り付かない深い森の奥でひっそり暮らしていた。父さまは人前では偽名を使っていて、母さまは決して森から離れようとしなかった。それが、ずっと不思議だったの……」


 言い終えたあと、口の奥が乾いたまま戻らない。指先が冷え、呼吸が浅くなる。あの静かな暮らしのひとつひとつが、急に意味を変えてこちらを見返してくる。


「なるほど……。理由は俺にも分からない。だが、俺はあいつを信じている。名前を隠して暮らしていたのには、きっと何か深い理由があったはずだ」


 信じている、という一語が、暗い水面へ落ちた小石みたいに胸の底へ沈んだ。広がる波紋は小さいのに、消える気配がない。


「それって……もしかしてこの剣のことなのかしら?」


 マウザーグレイルへ手を伸ばす。冷たい金属の感触が、掌の奥までまっすぐ降りてくる。父と母と、いまのわたしを繋いでいるものがあるとしたら、まずここしか思い当たらなかった。


《《美鶴……ごめんね。わたしが目覚めたのは、あなたが前世の記憶を取り戻した時だから、二人については何も知らないの……。たぶん、マウザーグレイル自体はそれを覚えているのかもしれない。でも、それを知るにはもっと深くまで潜ってみないとなんともいえない》》


 白い鞘の奥で、金属ではない記録の手触りが微かに脈打つ。言葉にならない古い重みだけが、沈黙の底からこちらへ触れてくる。


 彼女の悔しさが流れ込んできて、自分の無力さと混じり合い、息が詰まった。真実のために、彼女へこれ以上の負担はかけられない。そう思うほど、手の中の冷たさが深くなる。


「どうすればいいっていうの……」


 喉奥が焼けるように熱く、耳の奥で声が反響する。目の前に広がるのは、あまりにも深く、暗い森だった。どちらへ踏み出せばいいのか、今はまだ知らない。指先は冷えたまま、柄の金属だけが確かな重みを返していた。


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