お昼の、ためにならない魔術講座
戦闘の熱がまだ肌の奥に残るまま、わたしたちは昼食を摂るため、古井戸のある中継地点へ馬を進めた。乾いた風に砂が混じり、喉の奥がざらつく。陽炎の向こうで、粗末な小屋と石積みの井戸が短い影を落としていた。
「うむ、ここなら少し休めそうだな」
砂が靴底でじゃりと鳴り、汗の浮いた首筋を風が撫でる。
「そうね、水があるのは有り難いわ」
井戸口の石へ手をかける。ひやりとした冷えが掌の熱を奪い、底からは湿った苔と腐敗の匂いが立ちのぼった。水面は濁り、光を返さない。
「水はどうだ? 使えそうか?」
「さすがに、人が飲むにはちょっとね。馬には問題ないと思うけど」
わたしが肩をすくめると、彼は短く頷いた。
「まあ、いいだろう」
ヴィルはスレイドを水場へ連れていき、わたしは乾いた土の上へ毛布を広げて腰を下ろした。遅れて空腹が腹の底を引く。腰の白い剣へ指先を触れさせ、小さく呼ぶ。
「茉凜、お昼ご飯だよ。今日はちょっと奮発したんだ。期待してちょうだい」
《《うん、お昼お昼! お腹空いてるから楽しみっ!》》
弾む声に、張っていた口元がゆるむ。
包みから取り出したのは、ライ麦に似た「グリム」の硬いパンと、「ヴァルド」と呼ばれる獣の干し肉、それに「ドレイク」という単角牛の乳から作られたチーズ。噛みごたえも塩気も強いが、辺境の荒れ地で口にする昼食としては悪くなかった。
やがて馬の世話を終えたヴィルが戻り、少し離れた場所へ腰を下ろした。革具のきしむ音が、砂のこすれる気配に混じって静けさへ沈んでいく。
《《おっと、ヴィルが来たみたいだから静かにするね》》
茉凜の気配が、すっと意識の奥へ沈んだ。
「もう腹ペコだ。早く食べよう」
その声に応じ、わたしは彼の分を布で包んで差し出した。
「はい、どうぞ」
布の繊維が指の節に引っかかり、麦粉のざらりが掌に残る。
「おう、ありがとうな」
「いただきます!」
合掌した指先へじわりと熱が集まり、息の奥の緊張がひと段落した。
「イタダキマス? それって何のおまじないだ?」
パンを掴みかけたヴィルの手が止まる。
「これはね、ご飯がおいしくなるおまじないだよ。作ってくれた人たちや、食材になってくれた生き物や作物へ感謝するためのものなの」
説明すると、ヴィルは顎に手を当て、少し考え込んだ。
「へえ……初めて聞く。いったいどこの風習だ?」
問いに、心臓がひとつ強く脈打つ。
「さあ……わたしも昔お世話になった旅人に聞いただけだから。……なるほどな、って思って、それ以来習慣にしているの」
誤魔化しの言葉が、喉の奥へ小さく残る。
彼はしばらくこちらを見ていたが、やがて肩の力を抜いた。
「……ふーん。だが、面白い。うん、案外ありかもしれん。俺も真似してみよう」
そう言って、ヴィルも同じように手を合わせる。
「イタダキマス」
干し肉の香りが風にほどけ、張っていた空気がひとつやわらいだ。
わたしはパンを薄く切り、塩気の強い干し肉と香りのよいチーズを乗せて口に運ぶ。素朴だけれど、噛むほどに麦の味が広がった。
食べ進めるうち、ヴィルが腰の水筒を外し、無造作にこちらへ差し出した。
「お前も一杯どうだ? いける口なんだろう?」
栓が弾け、熱いアルコールの匂いが鼻の奥へ刺さる。わたしは呆れた視線を向け、わざとらしく肩をすくめた。
「あら、この前はわたしを子供扱いしていたのに、急にどうしたの?」
皮肉を混ぜて問い返すと、ヴィルは唇の端を上げた。
「見た目がどうあれ、俺はお前を一人前として扱うつもりだ。お前には、それだけの実力がある」
その真っ直ぐさに、鳩尾のあたりが不意に熱を持つ。
「冗談じゃないわ。昼間からなんて、勘弁してよ」
口の奥がきゅっと乾き、胃の底へ小さな焦りが灯った。
ため息まじりに返すと、ヴィルは気にした様子もなく水筒を呷った。
「だがしかし、この辺りじゃろくな水は手に入らんだろ? ならば、俺は酒の方が気楽でいい」
井戸の濁りを思い出せば、その言い分もわからなくはない。けれど、青で水を集められることは口の裏へ噛み殺した。
「喉を潤すなら新鮮な水が一番よ。誤解しているみたいだけど、飲むっていっても薄めたワインくらいだし。まぁ、香りは好きだけどね。それに、狩りの最中に感覚が鈍るのは命取りよ。それだけは御免だわ」
言い切ったあと、自分でも少し早口だったと気づく。
彼は肩で笑い、皮手袋の縁を親指で直した。
「そうか? 俺は少し酒が入ったくらいが調子がいいがな」
気の抜けた笑みが、金具のきらめきみたいに目尻へ跳ねる。
わたしは小さく息を吐いた。呆れるしかないのに、頭ごなしに切れないのが悔しい。黙って食事へ戻ろうとしたところで、ヴィルの視線がまたこちらへ寄った。
「ところで、さっきお前が見せたあの魔術、複数の属性を同時に行使できるって言っていたが、どういう仕組みなんだ? よかったら、少しでいい、教えてくれないか?」
問いは来ると思っていた。毛布へ落ちたパン屑に目を落とし、ひとつ息を整える。嘘はつきたくない。けれど、全部をそのまま渡すこともできなかった。
「別に構わないけど、わたしの魔術は本当に特殊なの。うまく説明できるか自信はないわ。それでもいい?」
「ああ、俺は魔術は専門外だし、理屈なんてよくわからん。簡単でいい」
簡単でいい、と言われると余計に難しい。唇の乾きをひと舐めでほどき、わたしはこの世界の言葉へ寄せて説明を選んだ。
「まず、魔術が発動する領域を作って、それを相手の近くに送り込んで、取り囲むの。それから、その領域の中で、わたしがイメージしたものを形にしていくの」
指先で空をなぞると、見えない境界を切り分ける癖が出る。領域は重ねない。混ぜない。そこだけは、身体のほうが先に慎重になる。
「ふむ……」
「最初に使ったのは、言うなれば風の魔術よ。わたしは便宜上、竜巻の囚って名付けてるんだけどね。竜巻は知っているでしょう?」
「もちろん」
「その竜巻を、相手を包み込むほどの大きさの限定された領域の中に閉じ込めて、強烈に巻き起こす。すると巻き込まれた魔獣は、まず身動きがとれなくなるわ。相手の動きを先に封じるのは、魔術師として基本中の基本ね」
「まて、閉じた領域に竜巻を凝縮するってことは、周囲には影響無しってことか?」
「御名答」
「……なんだそれは。そいつは、高位の術師でも正気を疑う所業だぞ」
「ほんと? じゃあ次は地棘突。いわゆる地の魔術で、相手の真下の地面を操作して尖った棘を生やし、一気に突き上げるの。串刺しになれば、もう逃れようがないわ」
「えげつない……」
「とどめは隕石轟。いわゆる火の魔術で、相手の頭上に赤の限定領域を作って、内側を赤熱させるの。そのまま包み込むように叩きつけて、最後に領域を解放して一気に散らす。熱が空気へ移って、一気に爆熱になる。けど白の外縁で流れを切れば、わたしには一切届かないわ」
白の縁で切った風と熱の道筋が、まだ指先の奥にうっすら残っていた。
ヴィルは驚きに目を見開いている。その顔が少しおかしくて、つい口元がゆるむ。
「その……俺には難しすぎて、とても理解が追いつかんのだが。それだけの高度な術を同時に発動させて、しかも正確に制御するだなんてな……いや、正直ぶったまげた」
「そう? わたしにとってはこれが当たり前だから……」
まつ毛を伏せて微笑んでみせる。大げさだと思うのに、その真っ直ぐさが肋の内側をかすかに揺らした。
「あのな……そうあっさり言われると、俺としては困るんだが。まったく、とんでもない奴だ。お前は、間違いなく当代随一の天才魔術師と言えるだろう」
「さすがに、それは大げさじゃないかしら?」
「そんなことはない。俺は戦場でいろいろな魔術師を見てきたから、断言できる。だがな、一つだけ気になることがある……」
ヴィルの目が、今度は冗談抜きに鋭くなる。その光に、背すじが自然と伸びた。
「無詠唱で、複数の属性を同時並行で行使する。それ自体は凄い。だが、それを可能にするだけの膨大な“魔力の源”はどこにあるというんだ?」
喉が渇く。答えの形が見えないまま、指先だけが冷えた。
「それは……」
「俺の見立てでは、もしかするとその剣がそうなんじゃないのか?」
マウザーグレイルへ落ちる視線に、胸の内側がひやりとする。そこへ辿り着くのは当然だった。
「だとしたら、少なくとも国宝級にも匹敵する超弩級の魔石が、属性の数だけ内蔵されていてもおかしくはない。違うか?」
頷けば嘘になる。否定すれば、その先を問われる。掌の汗がすっと引き、息だけが浅くなった。
「……はずれね。そんなものなんて無いわ」
「だとしたら、どこにあるっていうんだ?」
息が一拍だけ止まる。
「ねえ、ヴィル……。もし、その動力源っていうのがわたし自身で、この剣はわたしの力の安定を司る補助機構だとしたら、どう思う?」
熱が唇の内側へ集まり、視線は膝の糸くずへ落ちた。
「――馬鹿な。そんな膨大な魔力を生み出すなんて……それじゃあお前が魔石そのものってことになりかねん。そんな人間、いるはずがない。仮に居たとしても、魔力が尽きたらその時点で終わりってことだろうが?」
「だよね……。じゃあ、こう考えてみて。わたしが魔石とは別の理に基づいた力の源を集める、人の形をした大きな器だとしたら? それも底なしで、どこまでいっても満たされないくらいの大きさの……」
「なにを言っているんだ? わけがわからん。そんなもの、どう考えてもありえないだろ……」
真っ直ぐな視線に射抜かれ、肩がこわばる。
「――なーんてね。……本気にしないで。ただの思考の遊戯よ。『そうだったら面白いな』ってだけの、ね」
笑いに乗せたのに、胃のあたりの冷えだけは残ったままだった。
「……冗談はよせ。まったく寿命が縮む」
「ごめんなさい。ちょっと驚かせちゃったね。本当のところ、この剣の仕組みについては、わたしにもよくわからないの。どうしてわたしが“ここ”でこの力を使えるのかも……」
困惑の色がまだ消えない視線から逃げるように、わたしは毛布の端を指で握りしめた。
「父さまも母さまも、何も教えてはくれなかったしね……」
喉の奥へ、苦いものがじわりとせり上がる。
「……ただ、この剣が大切なものだということだけ。それしか、わたしは知らないの」
込み上げてくる熱を隠すみたいに、きつく瞼を閉じる。
「でもね……この剣と共にあるからこそ、わたしは力を使えているのよ……」
そこから先は、うまく言葉にならなかった。胃のあたりへ冷たいものがじわりと広がり、腰の白い剣だけが黙って重い。わたしは目を閉じたまま、その重さを指先で確かめた。




