覚えている剣
重い静寂が、玉座の間を押し潰していた。
高く聳えた石壁は皮膚の熱を奪い、灰の大理石は薄く光って、これから起きるものの影を冷淡に床へ映している。油の匂いと鉄の生温さが、息の奥に沈殿していった。
白銀の騎士が一歩、踏み出す。
硬質な響きが床を走り、こちらの鼓動がそれに引きずられて跳ねた。鐘の一打のような重み。吸い込む空気さえ、見えない圧に押し返される。
それでも、表情の裏で思考は凪いでいた。
ローベルト将軍が送り込んだ切り札が何であれ――退路は、最初からない。
騎士は鉄塊だ。重装の板金が隙なく巨躯を包み、表面の無数の擦れ跡が戦歴を物語っている。だが、その重さは足枷にもなる。対して、わたしの黒鶴は、思考がそのまま現象へ落ちていく速度そのものだった。
無詠唱、無遅延――この世界の常識より半歩だけ早い起動。
名の正体はどうでもいい。ただ、届くはずだと、思っていた。
油の匂いをひとつ確かめ、肩の力だけを抜く。腹の奥に残るのは、揺るがぬ確信。
「――どんな手を使ってこようとも、問題ない……」
闇へ沁みる独語の余韻。
白銀は柄を握り直し、構えを締めた。
兜の奥、鎧の隙から覗いた瞳が、ぎらりと光る。刃を潜ませた青い炎。怒りではない。慢心でもない。ただ、迷いなく剣を通す者の気配が、冷気の膜になって肌を撫でた。
革手袋の内側が湿る。
マウザーグレイルの柄をつかむ力が、自然に強くなる。
それは、濁りのない純粋な殺気。
――来る。
空気が弾けた。
稲妻のように床を這う。重装のはずの巨体が爆ぜるように加速し、視界が縦に裂ける。圧の奔流――剣が一息で振り下ろされる。
――速い。
骨の芯が凍るみたいに冷え、思考が半歩遅れる。間合いを、瞬きひとつの間に詰められた。
全周に散らした〈場裏・白〉の珠が反応するより早く、白銀の影は懐へ踏み込んでいた。
白い珠が寄る。けれど遅い。彼の踏み込みは、わたしが圧を解く一拍の隙間を、まるで最初から知っていたみたいに抜けてくる。
白い閃光の軌跡が迫る。
刹那を買うため、体が先に抗った。冷たい汗が襟の内側を走り、世界の輪郭が引き戻される。
――避けるか、受けるか。
警鐘の問いに、心が一瞬だけ揺れた。
迷いは命取り――それでも現実は冷たい。わたしはまだ剣士の領域を、筋肉の記憶だけで渡り切れるほど熟してはいない。
盤面を先に支配する。それがわたしの戦い方。けれど、この相手は理屈を踏破してくる。あの目は、こちらの手順を知り尽くした者の目だった。
焦りが走り、視界が狭くなる。
「場裏・白――白屏障!」
声にしたのは、詠唱ではない。自分の意識を、白の一点へ縫い止めるための楔だった。
叫びと同時に展開。掌から拡がる〈場裏・白〉の球層に、超高圧の大気を重ねる。白い靄が視界を薄く覆い、防御の要塞が剣先を迎えた。薄荷の冷えが頬を撫でる。
耐え切る、はずだった。
騎士が、迷いなく踏み込む。
――うそ……!?
圧の屏障を、剣が一息で裂いた。
ただの刃ではない。白の場を、表面ではなく内側の線から断たれたような感覚があった。まるで、こちらの術の輪郭を知っている剣みたいに。
薄絹が裂けるように。
水面が割れるように。
音もなく。ただ、貫くという事実だけが残る。
――ありえない。
視界が揺れ、心が金縛りにあう。
身体は、考えるより先に走っていた。
刃なき白い刀身を、両手で正面へ掲げる。汗で滑る柄を死に物狂いで握り込み、指の余白をなくした。
――耐えなきゃ。
鼓動が耳を打ち、手足が震える。
止まれば、終わる。
サンベルトの剣が落ちた。
衝撃は空気ではなく、空間そのものを切り裂いたかのようだった。
受け止めた瞬間、破壊の波が体の芯を抜け、足元が笑う。視界の端が白く滲み、立っている感覚が遠のいていく。
「――っ!」
声になりきらない叫びが焼け、歯を噛む音だけが頭の内側で鳴った。柄が革越しに食い込み、その痛みだけが現実をつなぎ止めている。
震える手。
恐怖か、昂りか。名は要らない。
ただ崩れないこと。倒れないこと。その二つだけが、細い芯を支えていた。
冷気を飲み込み、重さに喘ぎながら視線を上げる。
冷ややかな瞳がわたしを見据えていた。刃のような光。慈悲も揺らぎもなく、ただ静かに獲物を追い詰める目。
――この程度がなんだ。まだだ。まだ終われない。
声が削れる。
静寂は耳を圧し、冷えた空気が皮膚へ刃の縁を置くような緊張を強いる。
「ぐっ……!」
内側で何かが弾け、声が漏れた。
一撃の重さと鋭さが、骨の髄まで届いている。押し流される体。無意識に背後へ展開した〈場裏・白〉から、領域部分解放で空気が噴出し、反発で衝撃を散らす。
それでも足元は揺れ、体幹が軋んだ。
据えていた覚悟が砕けそうになる。
いや、物理的に押し潰されそうだ。絶望に似た冷えが、綻びを探すように忍び込んでくる。
「つ、強い……」
噛みしめた声の震えは、疲労だけのせいではない。
たった一閃が、わたしの内にある小さな自尊と希望を粉にしようとする。立っているだけで精一杯だった。脚がかすかに痙攣し、冷たい風が靴の縁を撫で、指先から痺れが広がっていく。
踏み込みひとつで空気が沈み、鎧の擦れがこちらの心拍の上をなぞって消していく。
――これは、壁だ。
けれどその壁は、ただ塞ぐのではなく、向こう側へ視線を吸い込む深さを持っていた。逃げろ――身体は叫ぶのに、靴底が床へ縫いとめられたまま動かない。
ただ立ち尽くす自分が悔しくて、奥歯を噛む。
遠いところで、誰かの声のように記憶の縁が走った。
――わたしはこの剣を……どこかで覚えている!?
接触した刀身が、じんわり温む。
ただの鋼ではない。何かが宿っている。刃がぶつかる手応えは、痛みとしてではなく、もっと深いところへ沈んでいった。
覚えている。
最初にそう告げたのは、頭ではなかった。
手が覚えている。
骨が覚えている。
白い剣の芯が、相手の刃に触れた瞬間、遠いどこかで交わした音を思い出したように震えている。
覚えている。
けれど、何を。
誰が。
いつ。
問いが形になる前に、感覚だけが先へ走った。マウザーグレイルの柄が、掌の内側でかすかに熱を返す。まるで、知らないはずの名を呼ばれたみたいに。
掻きかけた記憶が、刃の重みの向こうで溶け落ちる。
――だめだ。考えるな。惑わされるな。
雑念を振り切り、構えを正す。
鋭い金属音が弾け、剣と剣が擦れ合い、火花が乾いた空気に散った。
鋼の向こう、兜の陰の瞳を捉える。
冷たい光。淡々と――しかし、何かを見定めるようにわたしを見下ろす。感情の翳りはない。ただ、そこに在る目。
その目を見た瞬間、もう一度、柄の奥が震えた。
覚えている。
剣が、そう言っている。
わたしではない。少なくとも、今のわたしではない。けれど、マウザーグレイルはこの刃を知っている。斬り結ぶ角度も、押し返される重みも、触れた瞬間に走る微かな熱も。
覚えている。
この白い刃を。
この重さを。
この痛みを。
背筋が、氷の指で撫でられたみたいに冷えた。




