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玉座の黒鶴

 玉座の間の石床に残る冷えとともに、夜明け前の静寂が唐突に形を成したようだった。


 音も圧もない。ただ、そこに在るだけで、空気の目盛りがひとつずれていく。


 背後に広がる黒の幻翼は、羽ばたきの気配だけを見せて、光を吸い込むように黙っていた。美しいのに、どこか妖しい。飾りが一切混じらないことが、なおさら静けさを硬くしている。


 ――こんなにも静かな力が、破壊そのものを象徴するだなんて。


 轟音も、閃光もない。


 そのことが、かえって口の奥をひりつかせた。破壊というなら、耳を裂き、肌を焼く熱のはずなのに。黒鶴は沈黙のまま、ただすべてを呑み込もうとしている。


 翼の縁に、白、青、黄、赤の微かな滲みが走った。


 けれどそれは〈場裏〉の属性色ではない。ただ余った精霊子が弾かれ、光だけが揺らいでいる。その淡い色を呑むように、黒の輪郭はさらに深く際立った。


 前世の記憶が、まぶたの裏をかすめる。


 深淵の異能。禁忌の色とされた黒鶴。それは、かつてのわたしを縛りつける呪いの象徴だった。けれど茉凜は、これは呪いなんかじゃない、希望の象徴なんだよ、と笑ってくれた。


 あの笑みが、薄い氷を割るように、わたしの息を通してくれた。


 だからわたしは、前へ進むことができたのだ。


 深淵の呪いを解いて、やっと自由になれると思った。けれどこの力は今も、わたしを試すように寄り添っている。


 使うたび、破壊の手触りが近くなる。


 ほんの微かな高揚に触れる自分が怖い。本当のわたしが剥がれて、奥にある別の何かが顔を出しそうで、音のない間が伸びていく。


 それでも、わたしはこの力を受け入れた。


 破壊の象徴が、今のわたし自身の存在証明であるなら、それもまた、わたしの一部なのだと。


 ふいに、背中へぬくもりが触れた。


 誰かにそっと抱かれているような、やわらかな圧。茉凜だと気づいた途端、張り詰めていた糸がほどける。


 彼女は、孤独に寄り添う小さな灯だ。


 脳裏に、水面へ落ちた小石の波紋のような笑い声が広がった。


《《ふっふっふっふっ……》》


 その響きに、強張っていた息がほどけていく。


 石の冷えが足裏に残っているのに、胸のあたりだけが、ほんの少し柔らかくなった。


《《美鶴。あの人たちが何を言おうと、あなたの力はあなたのもの。他の誰のものでもないし、誰にも止める権利なんてない。あなたはあなたの望むままに自由に飛べばいい。わたしも一緒に飛ぶ。それが――わたしたち二人、ふたつでひとつのツバサなんだから》》


 言葉の端々に、いたずらっぽい微笑の気配が混じる。


 視界を覆っていた霧が引き、肩に入っていた力がふっと抜けた。ふたつでひとつ――その響きに救われ、わたしはあらためて周囲を見渡す。


 ――ここにいる。わたしも、茉凜も。


 その事実だけが、飛び立つための翼を支えてくれる。


 玉座の間を、濃密な沈黙が支配していた。


 石と蝋の匂いが濃くなり、目に見えない波が押し寄せて、空気が詰まる。黒鶴の翼がふわりと揺らいだ。幻か、現実か。音のない威圧が、その場にいる全員から息の隙間を奪っていく。


 廷臣たちは動けない。


 顔は蝋のように白く、見開かれた目は瞬きさえ忘れている。さっきまで罵声を投げていた男の唇は小刻みに震え、浮かんでいる感情はひとつ――本能の怖れ。


 顎の長い宰相の狼狽は、ことさらに哀れだった。


 さっきまで王の影で権威を振りかざした人間とは思えない。あふれる脂汗が、逃げ場のない動揺を露わにしている。


 衛兵たちも同じだった。


 槍や剣の穂先が石床に触れ、かち、かち、とかすかな金属音が静けさに刺さる。震えが甲冑越しに空気へ伝わり、整列はすでに崩れかけていた。


 王も例外ではない。


「なっ、なんだと……!?」


 絞り出す一音に、先刻の冷淡も傲慢もなかった。


 威厳の仮面は砕け、素顔だけが震えている。背凭れに縋る手は空を掴み、救いなどどこにもない。視線は――わたしへ。吸い寄せられるように、怖れの源泉へ。


「そなたは一体……何者なのだ……!?」


 その震え声が、高い天井に虚しく反響した。


「ま、まさかこんな……!」


「翼が生えるとは……しかも黒だと。なんと面妖な」


「これが、黒髪のグロンダイルの……真の姿だというのか?」


 押し殺したざわめきが、凪いだ空気を煽る。


 理解の外へ踏み出した人間の、本能的な拒絶音。


 衛兵の何人かは後ずさった。槍を構えたまま硬直する者、踏み出せない足。王を守る使命すら思い出せないほど、黒鶴の影は意志を圧し潰していた。


「静粛に!」


 王の命令は空転し、ざわめきはむしろ増幅した。


 皆、玉座から一歩でも遠ざかろうと、じりじりと後退する。ブーツが床を擦る乾いた音だけが耳についた。


 わたしは、重い空気の膜の中で彼らを見た。


 黒鶴の影が揺れ、人の怖れだけが鮮明になっていく。それでも権威の形を守ろうとする者が、必ず出る。


「うろたえるでない!」


 宰相が血走った目で叫んだ。


 威厳ではない。怯えを隠すための、裏返った声だった。


「こんなものはまやかしだ! 衛兵! 陛下の御前で不敬を働くこの者を、直ちにひっ捕らえよ!」


 冷水を浴びせられたように、兵が動く。


 けれど反応は鈍い。槍の穂先の震えが止まらない。


 ふと、ローベルト将軍の影が視界に入った。


 彼は動かない。ただ静止のまま、鋭い視線だけをこちらへ送ってくる。微かに、本当に微かに、口元が動いたように見えた。


 君に任せる。


 言葉にはならない。けれど、その信頼と期待が、幕を引き上げる合図のように胸へ届いた。


 わたしは息をひとつ細く整え、意識を一点へ絞る。茉凜の気配がふわりと揺れ、声が来る前に温度だけが寄り添った。


「茉凜、ちょっとだけやっちゃうけど、構わないかな?」


《《そうだねー。少しくらい痛い目にあった方がいいかもね。でも――》》


 耳許で弾ける声。


 無邪気な響きの奥に、芯の硬さがある。


《《――怪我させちゃダメだよ? 魔獣相手じゃないんだから、手加減してあげないと》》


「……わかってるって」


 豪奢な装飾は光を返し、風のないカーテンが微かに揺れる。玉座の王は蒼白、宰相は汗に濡れ、足元の兵は怖れに絡め取られている。


 わたしは、音が遠のく凪へ身を沈めた。


 視界の輪郭が透け、感覚が茉凜と重なる。背にやわらかな圧――黒い翼が空間に淡い裂け目を刻む感触。寄り添う気配だけが確信だった。


「じゃあ、ほんの少しだけ――」


 囁きとともに、意識の一部を解き放つ。


 扱うのは白。大気の圧と流れ。それ以外は混ぜない。


「場裏・白、全周に展開……」


 空間に淡い震えが走った。


 白い微光の珠が、ぽつり、ぽつりと生まれていく。ひとつひとつは爪先ほどの小さな領域にすぎない。けれど、その内側では大気が限界まで圧縮され、音もなく渦を巻いていた。


 それらはわたしの周囲へ散り、全周を覆うように浮かぶ。


 盾であり、刃でもある。


 近づくものがあれば、その瞬間、白の珠は圧を解き放つ。薄荷のような冷えた匂いが、鼻先をかすめた。


「ひぃっ!」


「なっ、なんだこれは――!」


 悲鳴が走る。


 王は立てず、椅子に縋るだけ。わたしは小さく息を吐き、ささやく。


「あら……そんなに怖がることもないのに――」


 言ってから、自分の声が思ったより冷えていることに気づいた。


 けれど今は、その冷たさを引っ込めるわけにはいかなかった。


 白い珠は音もなく散開し、室内の一人ひとりへ静かに寄っていく。蜘蛛の子のように逃げる家臣。宰相だけは威儀を保とうと足を留めたが、顔は引き攣り、汗が滲んでいた。


「衛兵ども、王を――王を守れ!」


 張り詰めた声が合図となり、鎧がきしむ。金具の擦れる音が、やけに大きく響いた。


「愚かしいこと……」


 また、冷えた声が落ちた。


 わたしは白い珠のひとつを、兵の足元へ滑らせる。


 珠は大理石の床すれすれを漂い、踏み込もうとした衛兵の踵の影へ寄り添った。内部で圧縮された大気が、さらに細く巻き締まる。白い微光が、一瞬だけ呼吸を止めた。


「領域解放――空気炸裂」


 静けさが砕けた。


 白い点がわずかに収縮し、閉じ込められていた大気が一気に解き放たれる。見えない衝撃が石床を叩き、音の爆ぜ目となって耳朶を撃った。


 放射状に広がった衝撃波は、無形のまま重く、兵の足元をさらう。


 潰すのではない。転ばせる。押し退ける。兜が石へ叩きつけられぬ角度へ、風が体を転がしていく。


 甲冑が床に倒れ、派手な金属音と呻きが混ざり合った。


 さらに二つ、三つ。


 わたしは珠を動かし、踏み込む者の進路へ置き、必要なところだけを解放した。白の微光が収縮し、圧が弾けるたび、兵たちは膝を崩し、腕を弾かれ、槍を取り落とす。


 それでも骨を砕かない。


 頭を打たせない。


 ただ、立っていられないだけの力で、床へ戻す。


 混沌の只中で、わたしだけが動かない。


 白い珠の流れを、冷たい目でたどる。背で茉凜が小さく身じろぎした。


《《ほらー、だから言ったでしょ? 手加減してね、って》》


 拗ねたような可笑しさ。


 わたしは口元だけで息を落とす。


「これでも相当抑えたつもりなんだけど……」


 視線を玉座へ戻した。


 王は椅子に縋りつき、宰相は硬直している。その背後には無様に倒れ伏した兵たち。鎧の重みが、彼らを床へ縫い付けているようだった。


 場に残ったのは、ふたたびの沈黙と、先ほどより濃い怖れ。


 わたしはあえて冷たい声色を選び、告げた。


「今のは、弾き飛ばすだけの――最小限に抑えました。ですが……これ以上無闇に動くのであれば、ただでは済みませんよ?」


 一歩、踏み出す。


 石が乾いた音で応える。それだけで空気が凍りついた。誰も、次の瞬きを選べない。


「わたくしの力は、抑えてなお、この程度には届いてしまいます」


 言い切ったあとで、胸の奥に小さな棘が残った。


 ここで誇りたくはない。けれど、止めるためには必要だった。


 蝋燭の火がひとつ揺れる。


 影が玉座の背へ縫い付けられ、王の指が、その影の中で白く浮いている。


「本当なら、ここでこれ以上は使いたくありません。玉座も、壁も、天井も――戻らぬ傷を残すことになりますから」


 宰相の汗が、灯りを鈍く弾く。


 その光が、なぜか汚れて見えた。


「……賢明な判断を期待いたします。わたくしが次の一手を選ばずに済むように」


 唇に笑みの形だけを残し、言葉の温度だけを冷やす。


 蝋の匂いが、妙に濃い。


 散らばった白い珠は、なお音もなく全周に浮かんでいた。ひとつ、またひとつ。その内側で、大気が静かに渦を巻いている。


 燭台の火が一つ、風もないのに細く倒れた。

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