玉座の嘲笑
玉座の間では、燭台の火さえ低く息を潜めていた。
蝋の匂いが石の冷えに混じり、赤い絨毯の毛足は足音を吸い込んでいる。けれど、沈黙そのものは柔らかくならない。列席者たちの衣擦れ、金具の触れ合う微かな音、誰かが息を飲む前の喉の動きまでが、張り詰めた空気の中でやけに近く聞こえた。
わたしは玉座の前に立ち、ロイドフェリク二世と向き合っていた。
王は深々と玉座に背を預け、足を組んでいる。薄い笑みが唇に張りつき、その眼差しには試すような侮蔑が宿っていた。この場を支配しているのは自分だと、言葉よりも先に姿勢で示している。
「そなたには、いろいろと問い正したいことがある」
ゆっくりとした声だった。
けれど、その先端だけが冷たい。王の視線がわたしの顔から肩へ、衣へ、腰へと下り、白い剣の柄で止まる。
「まずは、その腰に下げた剣を抜いてみせよ」
赤い絨毯の両側で、絹擦れが一斉に立った。
笑いにはならない。家臣たちの肩が硬く揃い、沈黙の質が変わる。
列の中の一人が、耐えかねたように半歩だけ前へ出た。声は震えを隠せていなかった。
「陛下、御前での抜刀など――」
「よい」
王は小さく手を振り、進言を切り落とした。
その手つきは、許すというより、黙れと言っているようだった。
「余が許す。所詮は刃なき模造刀――子供の玩具にすぎぬと聞いておる。ローベルトよりな。……ただの興味にすぎん」
指先が、ほんのわずか震えた。
胸の奥で小さな怒りが芽吹き、静かに広がっていく。嘲笑と侮蔑。王の言葉には、その二つが隠しもせず混じっていた。
感情を顔に出してはいけない。
挑発に乗れば、こちらの負けだ。
「……畏まりました」
短く返す声は、思った以上に乾いていた。
拳を強く握り、冷たい鞘の感触を確かめるように腰へ手を伸ばす。その瞬間、心の奥で茉凛の気配が柔らかく触れた。
《《いいねいいね。さあ……みんなに見せつけてやろうじゃないの。わたしたちの絆の証を!》》
灯火のような声が内側に灯り、こわばりが少しほどける。
深く息を吸った。
抜く、という動作を、感情ではなく手順に変える。
鞘走りの微かな音が、広間に細く伸びた。
白き剣、マウザーグレイルが姿を現す。
無垢な白の刀身が、燭台の火を冷たく返した。誰かが息を呑む。その音だけで、この剣がこの場に似合わないものなのだと分かった。
王の眉が、ほんの一瞬だけ引き攣った。
鉄壁の仮面に、髪の毛ほどの亀裂が走る。けれど変化はすぐ消えた。王は冷淡な笑みを戻し、無慈悲な声音で続ける。
「ほう……模造品にしては、なかなかの出来映えだ。見れば見るほど、我が国の至宝――聖剣マウザーグレイルに酷似しておる。かような道化、余興としては実に愉快よ」
笑いが起きそうで、起きない。
起きる前に、皆が王の顔色を見ている。空気が王の意志で繋がれていることが、肌に触れるほど分かった。
「……して、問おう。何ゆえそなたはこの剣を携え、何ゆえ選定の儀式を乱したのだ? その目的は何か」
問いが落ちると、誰かの袖飾りがかすかに鳴った。
すぐに止む。その小さな音のほうが、広間の緊張をよく知らせていた。喉元が熱を帯び、舌の裏が乾いていく。わたしは唇を引き結び、胸の内で気持ちを立て直した。
「畏まりました。恐れながら――申し上げます」
声はわずかに震えた。
けれど、そこで止まらない。王の双眸を真正面から見据え、意志を込める。
「この剣は、わたくしの父――ユベル・グロンダイルが、息絶えるその瞬間まで大切に握りしめていたものにございます」
空気がさらに冷えた。
家臣たちの視線が、一斉にわたしと王との間を往復する。ひそめた息が、絨毯の上に音もなく落ちる。
「おお、なんと……」
「ユベル・グロンダイルは、息絶えておったのか……」
低く沈んだ呟きが、波のように広がった。
王は鋭く一喝する。
「静まれ……! 話を続けよ」
気迫に押され、小さくうなずく。
込み上げるものを必死に抑え、続きを紡いだ。
「――そして、この剣は、わたくしにとっても……特別な意味を持つ剣でございます」
「何が特別だというのだ。申してみよ」
矢のような問いだった。
胸の奥を鋭い痛みが貫く。迷いを飲み下し、王の目をまっすぐに見返した。周囲の沈黙は針のように尖り、心を試している。
「――この剣には、心がございます。れっきとした人格を持つ魂が、ここに宿っております」
声は震えなかった。
けれど鼓動だけが速い。逃げない。剣を握る手の強さだけを一定に保つ。
「その声は、特別な資格を持つ者にしか届きませんが、確かに言葉を発します。わたくしはその存在を『茉凛』とお呼びしております。そして、彼女とわたくしは――」
王の冷笑が、言葉を刃で断った。
「心だと? 戯けた妄言を言うでない」
嘲る声。
皮肉な笑み。
わたしは瞳を揺らさない。
「戯けたことではありません、陛下」
毅然と返す。
声そのものが嘲りを払うように、静かで確かな響きを帯びた。
「彼女は、わたくしと感覚を分かち合っております。わたくしが見る光も、聞く声も、口にするものの味さえも――彼女は共に受け取っております。身体を持たずとも、彼女は確かに、この剣の中で息づいております」
家臣たちの列から、押しきれない笑いが漏れた。
喉の奥が締め付けられる。けれど、剣を握る手は緩めない。
「剣に人が入っているなどと笑止。かような夢物語、誰が信じられようか」
「信じていただく必要はございません。ですが、わたくしは幼き頃より――母がこの剣と対話していた姿を、この目にしかと焼き付けております。それだけは、間違いのないことでございます」
王の眉がわずかに動いた。
すぐに、皮肉が絡む。
「つまり、そなたの母も妄想に取り憑かれた女であった、ということか。くだらぬ」
乾いた笑いが広間に広がる。
嘲りの薄刃が、茉凛の存在を踏みにじる。母の記憶まで、土足で汚していく。
わたしは剣から手を離さない。
冷たい笑いの底で、静かな声が響いた。
《《……大丈夫。がんばれ》》
その声に導かれ、わたしは口を開いた。
「――陛下は、わたくしの母について……本当に何もご存じないのでございますか。思い当たることはございませんか」
笑いが止んだ。
視線が集まる。
一瞬の静けさ――真実を置くための間。
王は高みから見下ろしている。威厳の姿勢。薄い唇がわずかに歪む。その歪みは、周囲へ向けた見せしめの形にも見えた。
「そういえば――一人おったな。ありもしない妄言を振りまき、恐れ多くも先の王に意見までした女が」
軽蔑を帯びた吐き捨てだった。
直後、その視線は疑念の色を深める。
「……だが、どうしてそれをそなたが知っているか? 申してみるがいい」
刺すような圧が、胸にのしかかる。
わたしは姿勢を正し、静かに息を吐いた。
右手で剣を静かに納める。
鞘へ戻る音が、短く澄んだ。緊張が波紋のように広間へ伝わる。
無数の視線を受けながら、両手をそっと頭に沿え、長い緑色のウィッグに触れた。根元を辿り、耳元の留め具を探す。日常の気配のない、慎重な動きだった。
金具が小さく外れる。
合図のような音。喉の息を吐き出す。
最後の留め具に触れたところで、ふいに手が止まった。
深く息を吸い、目を閉じる。
今、偽りを剥ぐ。
それは過去との決別でもある。もう一度息を入れ、迷いを振り払い、最後の留め具を外した。
緑の髪が肩からさらりと滑り落ちる。
空気をまとい、赤い絨毯へ静かに降りた。落ちた緑の髪を、絨毯の毛足が音もなく受け止めていた。
もう戻せない。
そう思った。
ざわめきが波のように広がる。
絹が擦れ、誰かの喉が鳴り、すぐ沈黙が上書きする。わたしは王を見据えた。胸の奥の震えを押し沈め、口元を引き締める。
「なんと……」
「ありえん……」
遠い霧の向こうから届くような声。
今のわたしを包むのは、冷たく張り詰めた空気と、内側で燃える熱だけだった。
意識して息を整える。
背筋をただし、まっすぐ顔を上げ、王を捉えた。
「そうです……」
喉は乾いていた。
けれど声は震えず、思っていた以上に強く響いた。
「陛下ならば、もうお分かりのはずです。わたくしの母の名は――」
一拍。
深呼吸。
最後の言葉を紡ぐ。
「――メイレア・レナ・ディウム・フェルトゥーナ・オベルワルト……」
広間が沈んだ。
名を告げた瞬間、王の眉がわずかに動き、険しい眼差しが細まる。驚き、嘲り、不快――感情は瞬く間に移ろい、やがて冷たい静けさだけが残った。
「ふふふ……そうであったか」
嗤いが石の冷えを滑る。
「そなたの顔立ち……確かに、我が妹に恐ろしいほど瓜二つだ。その瞳の色も……そして――」
刃を含んだ声。
家臣たちが息を呑み、凍りついたように言葉を待つ。王の目はさらに鋭く細められた。
わたしは正面から受け止める。
ここで真実を告げた瞬間から、覚悟は決まっている。
「――やはり、そなたが黒髪のグロンダイルであったか」
低い声が広間の隅々に染み渡り、空気はいっそう沈む。
家臣たちは目を見合わせ、言葉の前で凍る。
わたしは動かない。背筋を真っ直ぐに保ち、冷たい視線を受け止める。耳元で小さく鼓動が鳴る。
それは恐怖ではない。
覚悟の音だった。
王の唇が動く。
次の言葉は鋭く、刃の落ちる音色を持っていた。




