玉座の間へ
選定の儀式から一週間以上が過ぎ、ようやくその日が来た。
白銀の塔の最上階へ迎えに現れたのは、意外にもローベルト将軍その人だった。
石段をのぼる重い靴音が近づくたび、息がわずかに短くなる。錠前の金具がかすかに鳴り、扉が開いた。冷えた空気の切れ目に、堂々たる影が差し込む。淡々とした面差しの奥に、わたしを気遣う柔らかさが、ごく薄く灯っていた。
「ローベルト様、どうしてわたしなどのために、あなたのような方が……」
口にした途端、疑問はかえって膨らみ、わたしは将軍の瞳を見上げた。
「ミツル、君はメイレア王女の娘だ。それは紛れもない事実――」
低く静かな声だった。言葉の端に、不器用な温度がある。
「――王家の血筋を引く者に対し、玉座への案内を末端の衛兵ごときに任せるわけにはいかない。それでは礼を欠くというものだ」
短く吸った息が、内側でいったん引っかかり、熱を帯びた。ここへ至るまでの孤独と葛藤を、彼は見ていたのだと思えた。
「そ、そうですか……」
ローベルトはふと視線を寄越した。測る冷静さと、守る意志の光が、静かな表層の下で交わっている。
「決意は変わらないのだな?」
「もちろんですとも」
応えると、背筋が素直に伸びた。石壁の白さが、今日だけやけに眩しい。
「では、これから王の御前に向かうことになるが――」
音のない切り替えで、彼の声は平坦に戻る。
「そこから先、私は一切手出しすることは叶わぬ。末席から君を見守るだけだ。それでも構わないか?」
「はい。それが正しいことだと思います。どのような沙汰が下されようとも、お気になさらず」
頷いた将軍の呼気が、ほんのわずか温度を落とした。覚悟を、黙って認めてくれている。
「……わかった。ならば問題なかろう。私は君を信じる」
彼は踵を返し、扉へ向かう。
歩き出す前に、わたしは一度だけ部屋を振り返った。白い石壁の粉っぽい匂い、窓を洗う淡い光。ここでの長い時間、茉凛と語りあかした夜の温度。前世のこと、この世界でのこと、これからのこと。わずかでも、それは確かな力だ。
涙の痕を吸ったはずの石は冷たい。けれどわたしは違う。母が選び取ったように、わたしも自分の足で行く。
「では行こう」
将軍が身を翻す。わたしはその背を追い、部屋を後にした。
◇◇◇
ひんやりとした石段を下りる。足音が壁に跳ね、静けさを薄く震わせていた。ローベルトの歩幅は一定で、わたしの歩調に合わせるでもなく、置いていくでもなく、ただ正しい速度で先を行く。護るのではなく導く者の気配だった。
塔を出ると、外気が頬を撫でた。思わず身が粟立つ。ローベルトが立ち止まり、振り返った。
「寒いか?」
「少しだけ。でも、大丈夫です」
自分の声が驚くほど落ち着いていて、息がすっと通った。
外は夕暮れだった。西の空の橙が城壁の影を長く引き、空気は澄んで冷たい。中庭を横切り、渡り廊下を抜ける。すれ違う侍従や文官たちが、ローベルトの姿を認めるたびに背筋を正し、その隣を歩くわたしへ好奇と警戒の入り混じった視線を向けた。
誰もが知っているのだ。選定の儀を騒がせた若緑の髪の少女が、今日、王の御前に引き出されることを。
廊下の壁には歴代の紋章旗が掛かっていた。古い染料の匂いがかすかに漂い、布目がわずかな風で擦れて、乾いた音を立てる。その旗の一枚一枚が、この王宮の長い時間を背負っている。
玉座の間へ続く回廊に入ると、天井が高くなった。大理石の床にわたしたちの靴音が澄んで響き、壁の燭台が等間隔に揺れる。その光の列が、奥の扉へ一筋の道を描いていた。
《《美鶴、緊張してるね》》
「うん……」
唇だけで返す。囁きは小さくても、茉凛には届く。
《《そっか……。でもさ、これは一世一代の、あなたのためだけの、あなたにしかできない大舞台なわけだから、「緊張するな」って言われても無理な相談ってものだよ》》
「……わかってる」
《《だからさ、ほら、深呼吸してみて?》》
言葉の温度だけで、張り詰めた糸が少し緩む。吸って、吐く。吐く息に、不安の細片を混ぜて流した。
《《……思い出してみて。わたしたちがやった演劇のこと》》
足が一瞬だけ止まりかけた。
《《あの時のあなた、すっごく緊張してたでしょ。舞台袖で手が震えてて、わたしが手を握ったら、冗談みたいに冷たくて》》
照明の熱。幕の埃。袖の暗がり。あの小さな舞台が、まぶたの裏に立ち上がる。
《《でも本番が始まったら、もう別人みたいだった。スイッチが切り替わったみたいに、姫巫女の役に入り込んでたよね》》
「……あの時は、茉凛が隣にいてくれたから。手を取ってくれたから……」
《《今だっているよ。ここに》》
腰の白い剣が、歩みに合わせてかすかに揺れた。
金属の冷たさが衣越しに伝わり、その奥で茉凛の声が小さな灯みたいに残る。手は握れない。肩を並べてもいない。けれど、彼女はここにいる。わたしの呼吸のすぐ隣に。
「うん、大丈夫……ありがとう、茉凛」
口角がわずかに上がる。その小さな動きが、自信の輪郭を呼び戻していく。
今から差し出すものが、役なのか、本当なのか。もう区別しなくていい気がした。
黒髪も、翡翠の瞳も、母の名も、父の名も。わたしが背負ってきたものは、どれも借り物の衣ではなかった。身体の奥へ沈み、消えずに残っているものだ。
扉の向こうには、王がいる。
王家の紋章を掲げるこの場所が、どれほどの声を聞き、どれほどの沈黙を押し込めてきたのか、わたしにはまだすべて分からない。ただ、青銅に刻まれた紋様の鈍い光を見た瞬間、胸の奥が静かに沈んだ。
逃げる場所ではない。
立つ場所だ。
ローベルトが足を止めた。
目の前に、巨大な両開きの扉がある。黒檀と青銅の装飾。王家の紋章が浮き彫りにされ、燭台の光を受けて鈍く光っていた。扉の前には二人の近衛兵が直立している。ローベルトと目が合うと、無言で一歩退いた。
「この先だ」
短い一言。振り返りもしない。けれどその声には、送り出す者の静かな重みがあった。
扉が、ゆっくりと開く。
◇◇◇
玉座の間は、冷たい威圧を孕んでいた。
まず目に入ったのは天井の高さだった。見上げると首が痛むほどの空間に、巨大な石の梁が渡されている。縦長の窓が等間隔に並び、夕暮れの残光が斜めに差し込んで、大理石の床に長い影を描いていた。光の届かない隅は深い暗がりに沈み、その闇が広間全体をひとまわり重くしている。
燭台の火が揺れ、蝋と煤の匂いが薄く混じる。石が冷えたまま息を潜めていて、声を出す前から喉が乾いた。
中央を赤い絨毯が真っ直ぐに貫いていた。その両側に列席者たちが立ち並び、視線だけがこちらを測っている。絨毯は足音を吸うのに、布や金具の微かな擦れだけが、やけに耳に残る。
右手側には文官たちの列。高位の者ほど前方に立ち、金糸の刺繍が入った官服の襟を正している。後列の書記官たちは革帳を抱え、囁きは小さく、しかし止まらない。
左手側には貴族たちの列。文官より色彩が華やかで、宝石をあしらった胸飾りや家紋を織り込んだ肩布が目を引く。だが、華やかさの裏に値踏みする眼がいくつも光っていた。薄笑いが重なり、そこに甘さはない。
奥には軍服姿の将官が数名、壁際に控えていた。その末席に、先に回り込んだローベルトの姿が見える。腕を背に組み、微動もしない。けれど、その動かなさが「ここにいる」という重さになる。
そして、絨毯の先――玉座に、王が座っていた。
四十に届かぬとおぼしき若き王。選定の儀では遠すぎて顔は霞んでいたが、今ははっきりと見える。整った面立ちに、深く刻まれた眉間の皺。冷たい瞳がまっすぐにこちらを射抜き、その奥に刃の光を秘めていた。傲慢と自負が空気に溶け、肌の上から押し込んでくる。
玉座の右手に立つのは宰相だった。痩せた長身に仕立ての良い官服を纏い、顎を撫でながらこちらを見ている。薄い笑みの端に侮蔑と打算が混じり、存在ごと値引きするような視線。その隣には、湿った眼の老臣が控え、目だけが室内を泳いでいた。
脇を固める衛兵たちは無機の眼差しだった。鎧の接ぎ目から金属の匂いがかすかに漂い、靴底が石を擦る微音だけが、張り詰めた沈黙に細い切れ目を入れている。
一歩、踏み出した。
絨毯の上を歩く。音は吸われるのに、空気の冷徹は揺るがない。両側から注がれる視線の重さが、肩に、首の後ろに、背中に、じわりと積もっていく。
好奇。警戒。侮蔑。値踏み。ごくわずかな同情。数十の感情が束ねられて、わたしの歩幅を測っている。
裾がごく小さく揺れ、絨毯の毛足がそれを黙って受け止めた。
――大丈夫。
茉凛の声が聞こえたわけではない。けれど剣の重みが腰に触れていて、その存在だけで息が繋がった。
わたしは王へ視線を据えた。迎え入れる素振りはなく、むしろ若輩を値踏みする構え。その冷えを正面から受けるほど、鼓動が一打ずつ強まる。
動じない。
示すべきは、礼と覚悟のみ。
「王の御前である。跪け」
低い声が落ちた。宰相だった。広間の視線が一斉に集まり、空気が一段冷える。
わたしは呼吸を整え、さらに前へ進んだ。止まったら、そこで終わる。舞台の端で立ち尽くすのと同じだ。
王の眼。宰相の笑み。老臣の湿り気。列席者たちの息遣い。すべてが肌の上に降り積もる。
――それでいい。受ける。全部受ける。
前世で覚えた形を、知識のままではなく身体の手順へ落とす。赤い絨毯の端で一度、呼吸を置く。さらに数歩で二度。玉座の影の手前で三度。ここが立ち位置だと、身体が知っていた。
礼は深く、けれど過剰ではない。右手は裾をほんの少し摘み、左足を引いて膝を折る。沈めた上体を戻す動きはゆっくりで、焦りだけを削いでいく。目は伏せきらず、視界の端に王の位置を残したまま、静かに形を整えた。
空気が、一瞬止まった。
額を下げる。視界に赤い絨毯だけが広がり、迷いが落ちた。
「ミツル・グロンダイルと申します。謹んで拝謁いたします」
声は澄んでいた。押しつけるでも、媚びるでもない。ただ響くべき高さで、広間の石に届く。
「国王陛下の御前にお言葉を賜る栄を賜り、身に余る光栄に存じます」
残響が梁の方へ吸われ、遅れて静寂が戻った。
右手側の文官の列で、誰かが小さく息を呑んだ。後列の書記官たちの囁きが止まり、羽根ペンの先も紙の上で静止した。左手側の貴族たちの間に、露骨な驚きの波が走る。胸元の宝石のきらめきが一瞬だけ鈍り、先ほどまで薄笑いを浮かべていた伯爵が、口を半ば開けたまま固まっている。値踏みの視線が、驚きへすり替わっていく気配がした。
顎を撫でていた宰相の指が止まった。
「……これはこれは」
吐息まじりの声が漏れる。冷徹な男の仮面に、わずかな亀裂が入っていた。
老臣が身を乗り出すようにして目を瞠る。
「ふむ……なかなか、堂に入ったものだ」
呟きにはなお疑念の色が混じっている。だが声の奥の動揺は隠せていない。
貴族の列から低い囁きが漣のように広がった。
「……あの齢で、あの所作の整いぶりとは」
「グロンダイルの娘と聞いていたが……」
「正規の教育を受けた者の振る舞いだ。田舎者には到底――」
囁きが重なり、絡まり、広間の空気を塗り替えていく。侮蔑の色が薄れ、代わりに戸惑いと、わずかな畏れの温度が滲み始めていた。
王だけは動かなかった。
鋭い眼がわたしを射抜いたまま、奥に冷たさと微かな揺れ――驚きか、値踏みか、その両方か――を宿している。
「ほほう」
短い唸りが玉座から落ちた。張り詰めた空気がいっそう締まる。王は肘掛けに頬杖をつき、冷ややかに、けれどどこか愉しげに言葉を続けた。
「礼儀作法もままならぬ田舎者と聞いていたが……どうやら杞憂だったようだ」
声は淡いのに、刃の冷たさだけが残る。列席者の呼吸が一斉に浅くなる。燭台の火がひとつ揺れ、蝋の匂いがわずかに立った。
《《いいよ、美鶴。その調子。ほら、みんなポカーンとしてる。つかみは上々だよ》》
その明るさが胸の奥で小さく灯り、すぐ背後へ引いた。玉座の沈黙が戻り、笑いの余韻だけが細く残る。
わたしはそれを踏みしめ、呼吸を整えた。唇の内側を一度だけ湿らせ、次の言葉を待つ。
「面を上げよ」
わたしは顔を上げた。石梁の影が王の輪郭を硬く縁取り、視線だけが刃のようにまっすぐ刺さってくる。
深く息を吸う。
よし。最初の手順は、乱れなかった。
「陛下。恐れながら、この者の審問は慣例に従い、わたくしめが預かり――」
宰相が一歩進んだ。絨毯の上で靴は鳴らぬのに、袖口の金糸が小さく擦れた。顎を撫でる指の動きだけが、妙に忙しい。
「いや」
王の一語が、申し出を断ち切った。音もなく、空気だけが一段沈む。
「余が直々に検分する。……興が湧いた」
淡々とした声音に、玉座の圧が乗った。視界の端で宰相が半歩退く。指だけが、まだ止まらない。
わたしは王と視線を結び直した。内側の波を押さえ、足元の絨毯の静けさだけを確かめる。頬の筋肉を、静かに整える。
冷たい蔑みは、驚きと戸惑いへ。最初の一石が、水面に同心円を広げていく。
それでいい。わたしは、やるべきことを果たすのみ。




