見守る眼差し
白銀の塔の朝は、まだ冷えていた。
窓硝子には淡い白さが残り、薄い光が床へ斜めに落ちている。けれど、カテリーナとシンシアが部屋にいるだけで、閉じ込められた空気の重さは少しだけ変わっていた。衣擦れの音、誰かが息を整える微かな気配。それだけで、この部屋がただの石の箱ではなく、人の声が届く場所に戻ったように思えた。
その静けさの中で、カテリーナの表情から遊びの色が消えた。
丸眼鏡の奥にあった、いたずらめいた光がすっと引く。壁にもたれていた背が離れ、彼女はまっすぐ立った。靴底が石床を捉える小さな音だけで、部屋の空気がきりりと締まる。
「さて、ここからは少し真面目な話をするよ」
わたしは膝の上で指を重ねた。まだ整えられた髪の香油が、ほの甘く鼻先に残っている。その甘さが急に遠く感じられた。
「あんたがこれから謁見する王様についてだ。ローベルトからある程度は聞かされてるだろうし、さっきシンシアが言ったように、いろいろ問題あり、といったところだね」
「うん……ローベルト様からは、即位の経緯と、先王が表舞台を退いた後の空白のことは聞いた。でも、王様本人がどういう人物なのかまでは」
「だろうね。あの旦那は事実しか言わないからね。人物評となると口が堅い」
カテリーナは腕を組み、窓の光を背に受けた。逆光の中で、いつもの無頼な顔の下から、元情報部の冷えた目がちらりと覗く。
「名前はロイドフェリク二世。五年前に即位したけれど、実際にはそれ以前から皇太子として国の舵を握っていた」
「申し上げました通り、メイレア様がお姿を消されて以来、先王陛下はほとんど政務をお取りにならなくなりましたから……」
シンシアが静かに補足した。
声は控えめだったが、その一文が空白を埋め、カテリーナの言葉へ地面を敷く。彼女の指先は袖口に揃えられていて、侍女としての姿勢は少しも崩れていなかった。
「そう。でも、この王様の性格と言ったら……短気で狭量、融通が利かないことで有名でね。先代と比べられるたびに、それが余計に浮き彫りになる」
「短気……」
ローベルトの口からは出なかった言葉だった。
肩の奥に、小さな緊張が走る。謁見という言葉が急に輪郭を持ち、玉座の間の冷たい石を思い出させた。
「目先の利益や体面ばかりを気にしている。それがどれだけ国政を歪ませているかなんて、想像に難くないわ」
カテリーナは一瞬だけ顎を引いた。沈黙の端に、冷静な観察者の光が揺れている。
「そして――肝心の国家運営に至っては、宰相にほとんど丸投げといっていい。自分の権威と影響力ばかり保とうとして、実務を他人任せにしているのさ」
「宰相に? それじゃ、実質的に国を動かしているのは……」
机の縁に触れた指が、木の硬さを拾った。
磨かれた面は冷たく、少しだけ乾いている。その硬さが、今聞いている言葉の重さとぴたりと重なった。
「そう。宰相とその周りの貴族連中、それに媚びへつらう大商家どもだよ。一番上に立つ者が無能かつ無責任なのをいいことに、好き放題ってわけ」
唇の端に浮いた微笑は皮肉に見えた。
けれど、そこには哀れみの温度も混ざっていた。怒りきってしまえば楽なのに、怒りだけでは済まないものを、彼女は長く見てきたのだろう。
「堅実な治世なんて名目は立派だけれど、実際には息が詰まるような政策ばかり。先代の王が築いた柔軟さは、もうすっかり失われてしまった」
「……具体的には、どんなふうに?」
窓の外で冬の陽がわずかに傾き、床の影がひとつずれた。部屋の中の時間が、そこだけで進んだようだった。
「規制は厳しくなる一方で、租税も上がるばかり。市場の出店許可すら貴族や役人への賄賂次第だなんて……歯止めが、もうどこにもないのさ」
石床の冷たさが足裏からじんわり上がってくる。
わたしは、無意識にシンシアの気配を確かめた。彼女はそっと顔を伏せている。肩がわずかに動き、抑えた息が浅く揺れていた。
先ほど、息苦しい空気、と語った彼女の言葉が、今、別の深さで蘇る。
「軍にしても同じだよ。ローベルトの旦那がいくら力を尽くしたところで、貴族派閥が幅を利かせてるようじゃ、根本的な解決にはならない」
カテリーナの声は落ち着いていた。
けれど言葉の一つひとつには、長い時間をかけて溜め込んだ重さがあった。書類や噂ではなく、実際に人が傷つく場所をいくつも見てきた者の重さだった。
「じゃあ……どうすればいいの? クーデターのような強硬手段は」
言った瞬間、シンシアの指先がほんの少し止まった。
袖口の白い布に、浅い皺が寄る。すぐにほどけた。けれど、その一瞬だけ、彼女のまとう静けさが薄く揺れたように見えた。
理由はわからない。
ただ、今の一語が、この人のどこか近い場所を掠めてしまったのだと、肌で分かった。
「論外だね。平民派閥がそんなものに打って出たところで、ここぞとばかりに大陸列強の干渉を招く。この国の独立自体が危うくなる」
カテリーナは迷わなかった。
その切り捨て方は冷たいというより、すでに何度も同じ結論へ辿り着いた人の声だった。シンシアは何も言わない。否定も肯定もせず、ただ伏せた睫毛の影を、頬の上に薄く落としている。
その沈黙のほうが、わたしには重かった。
「穏便に政権を変えるには?」
「王族の中から、新たな象徴を立てるしかないだろうね」
その一言が、腹の底に落ちた。
重く、確かに。吐いた息が白くほどけず、喉の奥でいったん止まる。
シンシアは微笑みを保っていた。
侍女としての、乱れのない微笑だった。けれど、膝の上で重ねた指だけが、ほんの少し組み直される。光を受けた水面に細い影が走るような、あまりに小さな変化だった。
カテリーナもそれに気づいたのか、そこで誰の名も出さなかった。
「ところが貴族たちは皆、貴族院を支配する宰相の側にべったりだ」
彼女は窓の光を背に、指先で腕をとんと叩いた。乾いた音が、言葉の重さだけを残した。
「長い歴史を経て出来上がった仕組みなだけに強固で、その壁を崩すには相当の覚悟と策と、何かでかいきっかけが要るだろう」
重苦しい気配が、一度、部屋の隅に溜まった。
窓の外では冬の陽がゆっくり動き、光の角度がまた少し変わっていく。細い埃が浮いて、落ちるまでの間だけ沈黙が伸びた。
「……この国に来て、毎日が楽しかった。街を歩いて、人々と話して。でも、わたしったら表向きの豊かさや華やかさにしか目が行ってなくて、その裏に潜む闇なんて、全然見えていなかったんだね……」
吐いた息が、うっすら白くほどけた。
自分の浅さが、喉の奥で小さく軋む。あの白い街のまぶしさ。海風に揺れる花。焼き菓子の甘い匂い。笑っていた人々の顔。全部が嘘ではない。けれど、全部ではなかった。
「そう言いなさんな。問題を問題として認識するのは大事だけれど、あんたが思い悩むことじゃない」
低く、乾いた慰めが落ちた。
叱咤と労りのあいだの温度で、肩の強張りがほんの少し緩む。
「でも……わたしはこの国が好き。だって、母さまの故郷なんだから。同じ空や海を見て、同じ風を浴びて、たくさんの人々と出会って、それを強く感じた。だから、他人事では済まされない」
窓の外が少し明るんだ。
薄雲の向こうで光の角が変わる。シンシアが静かに顔を上げた。潤みの名残のようなものを、わたしは一瞬だけ見た。
見間違いかもしれない。
けれど、その目の奥で、わたしの言葉が何かに触れたような気がした。
「あんたは優しいね」
カテリーナの短いひと言が、耳の奥に残った。
「でも、わたしは王族でもないし、象徴なんかにはなれない。でも、もしそんな人が現れたなら……なんだっていいから力になりたい。わたし一人は小さいけれど、シンシアさんが言ったみたいに、それは無駄ではないと思うから」
シンシアの睫毛が、ほんの少し震えた。
笑みは変わらない。姿勢も崩れない。けれど、彼女の沈黙には、先ほどまでとは違う重みがあった。
それでも、わたしには理由がわからなかった。
ただ、その言葉が彼女の胸の奥で、どこか別の響きへ変わったように思えた。
「ええ、そうね。それがあんたのいいところだわ」
カテリーナは薄く笑い、のぞき込むようにわたしの顔を見た。その頼もしさが、背筋のこわばりを溶かしていく。
「あたしたちはあたしたちにできることをやるしかない。あんたは、差し当たり、まずは王様との謁見だね。覚悟はできているかい?」
肺の奥まで空気を満たし、頷いた。
腹の底に据わるものがある。不安ではない。もっと硬く、もっと熱い何か。
「もちろんよ。わたしは真正面から向き合うつもり。正々堂々とね」
「それでこそ、あんただ。あたしは何も心配してないよ。やりたいようにやりな」
ひと言ごとに、笑みの気配が混じる。軽さではなく、信頼の温度だった。
「ありがとう、カテリーナ」
声に感謝がにじんだ。指先から肩へ、じんわりと力が戻っていく。
「あなたが陰でどれだけ支えてくれたか、わたしは全部を知らないけれど、それでも……本当に助けられたわ」
彼女は肩をすくめ、照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「そんなの、どうだっていいってことさ。あたしはただの情報屋だ。その役回りをこなしただけだからね」
少しだけ声が低くなる。
「あんたも、自分にしかできない役回りをきっちりやればいい。簡単なことじゃないけど、あんたならできる。なんたって、あんたはユベルとメイレアの娘なんだ」
両親の名が並ぶと、いつも喉の奥が熱くなる。
けれど今日は、それが痛みではなく、支えになった。
「ふふ、そうだね……」
頬がゆるむ。
不意に視界の端で、シンシアが小さく頷いているのが見えた。口元にはやわらかな微笑が浮かんでいて、まるでわたしたちの会話の温度を、そのまま受け止めているような顔だった。
ふと、彼の顔が脳裏に射した。
「ところで、ヴィルは今どうしてるのかしら? お礼を言いたかったのに」
カテリーナは口元を引き結び、いたずらを隠すように考える素振りを見せた。
「さてね。そいつはあたしも知らないよ。なにせ、あれから一度も家には戻ってないんだから」
わざとらしい溜息。
「ほんと、ミツルを一人っきりにして、どこに雲隠れしてるのやら」
「そう……なの?」
思わず眉が寄る。
期待とは違う答えに、みぞおちの辺りがすうっと冷えた。
「まあ、あいつのことだ。きっとどこかから、あんたのことを窺ってるに違いない」
「窺ってる……? ここを? ええっ? 嘘でしょ?」
頬に熱が上がるのがわかった。言葉が浮いて、足元の感覚が少し遠のく。
「馬鹿か、あんたは。どこの変質者だってんだよ。覗き見なんてできるわけないじゃん」
「あ……」
「そういう意味じゃないよ。どうせあいつのことだ、どこかしらに紛れ込んでるに決まってるさ。あるいはローベルトの旦那と結託して、何か仕込んでるかもね」
「そうか……」
彼の名を、胸の内で静かに反芻する。
今どこで何をしているのか、わからない。けれど、いないとは思えなかった。あの人はいつもそうだ。姿を見せないところで、先に道を探している。
そのことを思うだけで、足裏に石床の硬さが戻ってきた。
不器用な言葉。大きな手。叱る手前で止まる優しさ。強要せず、選ぶ自由をわたしに残す眼差し。
その一つひとつが、いまは見えない場所から背を支えている。
――ありがとう、ヴィル。
心の中で小さく告げ、深く息を吸った。
冷たい空気が肺の奥まで満ちて、背筋がひとつ伸びる。次の一歩へ向かう覚悟が、静かに、けれど確かに、体の芯に据わっていく。
王を見なければならない。
王が何を見ていないのかも、見なければならない。
そして、その前に――わたしを見守ってくれている人たちの眼差しを、忘れてはならないのだと思った。




